嘘つきと疫病神


「ご、ごめん。痛かったよな。ごめん」

 もう彼女の顔を見ることなどできるはずもない。責めるような言い方ではなく、寄り添う言い方ができれば何かが変わっていたのだろうか。
 今更遅いというのに、彼女の怯える姿を見ていると無駄な後悔ばかりが押し寄せる。

「もう、帰るよ……」

 後悔に背中を殴られ、自分はまた逃げる。彼女に背を向けて、彼女を一人残して、自分は現実から逃げ出すのだ。
 店の扉に手を掛けて開けても、外に出ても、彼女は一度も口を開くことはなかった。
 軒先で空を見上げると、まるで自分を嘲笑うかのように星空が広がっている。普段なら綺麗だと素直に感じられた。けれど今は到底そんな気分ではない。

「最悪……」

 店先を離れて人気の少ない道を一人進む。昼間は騒がしかった町も、夜になれば静まるというもの。
 誰にも気づかれず、今の自分が一体何をしでかしたかなど知る者は傍にはいないのだ。

「あら、仁武ちゃん? こんな時間にどうしたの?」

 だから、少しばかりその声を聞いて安心してしまったのかもしれない。
 足元に落としていた視線を前に向けると、細身の穏やかな風貌をした女性が立っている。
 何十回と見合わせた、よく知る顔である。

「きょーこ」
「今、店から出てきたわよね。こんな時間になるまで店にいるなんて珍しいじゃない」
「まあ、な。少し、蕗と話してた」

 何処かからか、強い植物の香りが鼻腔を刺した。あまりの匂いの強さに目眩が襲う。
 一瞬の出来事であるはずなのに、ずっと前から続いていると錯覚するほどだ。花か、実か、何かは分からないが確かに何かの匂いが辺りを満たしている。
 恐る恐る鏡子の方へ目を向けると、彼女は不思議そうに仁武を見るだけで別段変わった様子はない。
 この謎の匂いを感じているのは仁武一人ということである。

「何を、話していたの?」

 鏡子の声が脳内で激しく反響する。グラグラと歪む視界、鈍器で殴られたような頭痛、不快な吐き気。
 誰も何もしていないというのに、この場にいる仁武だけが謎の苦しみを味わっている。

「きょーこは、何か知っているのか? ……蕗がしたことを、蕗が吐いた嘘を」

 仁武の言葉に鏡子はふっと目を閉じる。端から見れば妖艶な雰囲気を醸し出しているが、仁武はその仕草が彼女のある“癖”であることを知っていた。

「お前も、嘘を吐いているんだな」
「……前に一度だけ、彼女が話してくれたことがあったの。自分がこの町に来た理由、私の身勝手で店につれてきたのに今も残り続けている理由、仁武ちゃんに嘘を吐き続ける理由を、ね」

 抱えていた包を一層強く抱き、鏡子の表情は曇り出す。
 これから彼女が何を言おうとしているのか、考えるだけで悪寒が走った。知らないほうが良い、知らないままでいたほうが楽。
 そう分かっていながらも、仁武は鏡子の方へと一歩を踏み出した。

「話してくれ」

 鏡子はゆっくりと目を開けると、抱えていた包をひらりと開けた。