「あの時も俺の中の誰かがお前に手を上げて、笑っていた。抵抗することもできなくて、俺は見ているしか無かった」
高ぶっていた感情が、感じていた苛立ちが冷めていく。煮え滾っていた腹の底に氷を入れられたように、腹の底からの怒りが静まっていく。
これは、拍子抜けというやつなのだろうか。
いっそのこと昔のように罵ってくれれば、痛めつけてくれれば、この青年のことを恨んで憎んで突き放すことができるのに。
戯言のようにしか聞こえない言葉であるはずなのに、どうしてこうも同情を乞うような話をし出すんだ。
憎い相手、大嫌いな相手、いっそのこと消えてくれたらいいのにとも思った相手が目の前にいるのに。
どうして自分はこんなやつの話を真正面から真面目に聞いているんだ。真に受けているんだ。
「言い訳にしかならないのは分かっている。それでも、あれは俺の本心じゃ───」
「信じられるわけ無いだろ」
青年の顔が一瞬の内に絶望の色を滲ませる。自分よりも身体の小さい相手にこんな顔をさせるのは罪悪感が湧くが、相手は何が理由であれ自分のことを虐めていた相手なのだ。
ただの言い訳にしか聞こえないようなことを聞かされて、そうだったのかと許せるはずなどなかった。
「自分じゃない存在が俺を虐めていたって言いたいのか? そんな非現実的なことが通用すると本気で思っているのか?」
「信じてもらえないのは分かっているんだ。でも、本当なんだよ。ずっと昔から、それこそ、ここで目覚めたときからそうなんだって」
「そんな嘘っぱちが通用するんだったら!」
仁武の叫び声が丘全体に響き渡る。木々が揺れ、鳥が飛び立ち、強い風が吹き荒れる。
まるで自分の心の中を表しているような自然現象。今の自分はこの丘の、話の中心にいる。
何を言ってもいい。何を叫んでも自分は許される。
誰かがそう呪詛を唱えた。自分はその呪詛に従うだけ、だから自分は何も悪くない。
理由にもならない言い訳を心の中で唱え続けながら、絶望に表情を歪める青年を見下ろす。
昔は見下される側だったというのに、時間の流れに身を任せただけでこんなにも立場が変わってしまうものなのか。
「俺が感じた痛みは何だったんだよ………っ!」
自分がこれまでに感じてきた痛みは、こんな戯言一つで癒やされるほど浅いものではない。
鋭い刃物で何度も切り刻まれて、抉られて、突き刺さっていて。身体の傷は癒えても、精神的に心に受けた傷は今も痛々しく残っているのだ。
戯言だと思っている自分がいるのに、真面目に聞いて真に受けるなど馬鹿馬鹿しすぎるのではないか。
こんな奴の話を聞く義理など自分にはない。この不健康そうな青白い顔を殴りつけたって誰も自分を咎めない。こいつはそれだけのことを自分にしてきたんだから、それくらい許される。
握りしめた拳が怒りに打ち震えているのに、この名前も知らない青年に振るうことができなかった。



