蕗がいなければ何もできないほどに自分は弱い。結局、最後に頭に浮かぶのは、丘の上で約束を交わした時に見た彼女の泣き顔で。
「知らない。……俺は、何も知らない」
ここで弱気にも嘆いてしまえば、負けを認めてしまう気がした。祖母が苦しんでいたのが自分のせいであると認めてしまう気がした。
けれど、強く胸ぐらを掴まれたまま父親の腕から手を離し、俯いてそう呟いた。
俯いて目を閉じてしまえば、父親の鋭い視線を感じる必要も、泣き喚く母親を見る必要がなくなる。そう信じて全ての物事から目を逸らした。
「逃げるのか」
冷たい鉄のような声が頭上から落ちてくる。蒸気機関車が進む音、母親の泣き声、騒ぎを聞きつけた駅員の声が混ざり合う。
この空間を埋め尽くす音という音が不協和音となって耳に届いた。
逃げる、自分は逃げている。父親に気づかれてしまうくらい、自分は何もかもから逃げている。
蕗と逃げ出すことからも、蕗は疫病神ではないと否定することからも、祖母が苦しんでいたのは自分のせいではないと否定することからも。全てから逃げた。
「逃げたらいつか救われるとでも思っているのだろう。自分に嘘を吐き、自分を騙してその先には何がある?」
何故父はこうしてすぐに強気になって、責めるような語り口調になるのだろう。相手はまだ十歳にも満たない子供だ。ましてや自分と血の繋がった我が子であるというのに。
「……分かんないよ。分かんないから、俺はここにいるんだよっ」
「それすらも逃げていることであると、何故気づかない」
「じゃあ、なんで連れてきたんだよ! なんで迎えに来たんだよ!」
始めから分かっていればこんなにも苦しまなくて済んだ。後悔しなくて済んだ。
これは逃げているのではない。誰も教えようとしてくれない答えを見つけるために、必死に足掻いているだけなのだ。
足掻いて、足掻いて、足掻いて、足掻いて。
その先にあるのであろう答えに手を伸ばすために、足掻いている段階なのだ。
「俺みたいな失敗作なんていなくてもいいだろ! 父さん達からしてもこれまで通り生きていくほうが楽だったはずだ!」
「それはさっきも言った通り、お前に会社を継いでほしいからであって───」
「俺は嫌だって言ったよ!」
また父親の言葉を遮ってしまった。けれど不思議と、先程のような恐怖は感じなかった。
あるのは、やけにすっきりと晴れ晴れとした気持ちと、父親に反抗できたという達成感。
自分はこの二人の玩具でも、捨て駒でもないのだ。風柳仁武という生を受けて、生きる権利を与えられた独りの人間なのだ。
「俺は俺の幸せのために生きる。父さん達の言いなりになんてならない!」
直後にやけに強い衝撃を頭に受けた気がしたが、その後のことは何も覚えてはいなかった。
もしかしたら全て夢だったのかもしれない。寝て目が覚めれば、また祖母が起こしに来てくれるかもしれない。
そう期待したけれど、当然祖母はもういない。
気がつけば全く知らないに街にある、全く知らない部屋の布団の上で眠っていた。
「知らない。……俺は、何も知らない」
ここで弱気にも嘆いてしまえば、負けを認めてしまう気がした。祖母が苦しんでいたのが自分のせいであると認めてしまう気がした。
けれど、強く胸ぐらを掴まれたまま父親の腕から手を離し、俯いてそう呟いた。
俯いて目を閉じてしまえば、父親の鋭い視線を感じる必要も、泣き喚く母親を見る必要がなくなる。そう信じて全ての物事から目を逸らした。
「逃げるのか」
冷たい鉄のような声が頭上から落ちてくる。蒸気機関車が進む音、母親の泣き声、騒ぎを聞きつけた駅員の声が混ざり合う。
この空間を埋め尽くす音という音が不協和音となって耳に届いた。
逃げる、自分は逃げている。父親に気づかれてしまうくらい、自分は何もかもから逃げている。
蕗と逃げ出すことからも、蕗は疫病神ではないと否定することからも、祖母が苦しんでいたのは自分のせいではないと否定することからも。全てから逃げた。
「逃げたらいつか救われるとでも思っているのだろう。自分に嘘を吐き、自分を騙してその先には何がある?」
何故父はこうしてすぐに強気になって、責めるような語り口調になるのだろう。相手はまだ十歳にも満たない子供だ。ましてや自分と血の繋がった我が子であるというのに。
「……分かんないよ。分かんないから、俺はここにいるんだよっ」
「それすらも逃げていることであると、何故気づかない」
「じゃあ、なんで連れてきたんだよ! なんで迎えに来たんだよ!」
始めから分かっていればこんなにも苦しまなくて済んだ。後悔しなくて済んだ。
これは逃げているのではない。誰も教えようとしてくれない答えを見つけるために、必死に足掻いているだけなのだ。
足掻いて、足掻いて、足掻いて、足掻いて。
その先にあるのであろう答えに手を伸ばすために、足掻いている段階なのだ。
「俺みたいな失敗作なんていなくてもいいだろ! 父さん達からしてもこれまで通り生きていくほうが楽だったはずだ!」
「それはさっきも言った通り、お前に会社を継いでほしいからであって───」
「俺は嫌だって言ったよ!」
また父親の言葉を遮ってしまった。けれど不思議と、先程のような恐怖は感じなかった。
あるのは、やけにすっきりと晴れ晴れとした気持ちと、父親に反抗できたという達成感。
自分はこの二人の玩具でも、捨て駒でもないのだ。風柳仁武という生を受けて、生きる権利を与えられた独りの人間なのだ。
「俺は俺の幸せのために生きる。父さん達の言いなりになんてならない!」
直後にやけに強い衝撃を頭に受けた気がしたが、その後のことは何も覚えてはいなかった。
もしかしたら全て夢だったのかもしれない。寝て目が覚めれば、また祖母が起こしに来てくれるかもしれない。
そう期待したけれど、当然祖母はもういない。
気がつけば全く知らないに街にある、全く知らない部屋の布団の上で眠っていた。



