嘘つきと疫病神

 胸ぐらを掴む父親の手は震えている。仁武のように怯えているから震えているのではなく、必死に怒りを押し殺しているから震えているのだ。
 感情を見せずに淡々としていた父親がいきなり感情を表に出すものだから、隣りに座っていた母親も驚いて言葉を失っている。
 車内には自分達以外誰もいなくなっていた。騒ぎを聞きつけた駅員が近づいてくる。自分達よりも、外から聞こえてくる声のほうが騒がしい。

「私が働き、母さんに仕送りをして、お前はその金を分けてもらいながら生きてきたんだ。私が仕送りをしていたのはお前のためではない。せめて最後くらい楽をさせてやりたいと思い、母さんのために送っていたんだ」

 父親はまるで誇らしい武勇伝を語るように淡々と口にする。心の底から正しいことをしていると信じ込み、今の自分がどれだけ最低なことを言っているのか分かっていない様子である。
 この人達は、こいつらは自分のことを愛してなどいない。我が子として見ていない。
 ただ自分が作り上げてきた経歴を守るため、我が子を利用したいだけ。我が子の未来など二の次で、自分達が幸せで安定した暮らしができるように事を支配したいだけなのだ。

「自分が幸せだと酔いしれていたんだろう。愚かなものだ、お前のせいで母さんは苦しんでいたというのに」
「は…………?」
 
 自分のせいで、ばあちゃんが苦しんでいた?

 違う。嘘だ。だってばあちゃんは、厳しいけれど優しくて。
 いつも朝になれば起こしに来てくれていたし、温かい手料理を用意してくれていた。
 写真の撮り方を教えてくれたのも、写真館の歴史を教えてくれたのも、全部ばあちゃんだった。

 ばあちゃんは、ばあちゃんだけは俺のことを見てくれていた。

 祖母は持病など持っておらず、至って健康的だった。だから死んでしまった原因も分からず、急死と仮定して無理矢理信じていた。
 にも関わらず、父親の言い方ではずっと前から何かに苦しんでいたと言うのだ。

「何も知らないのか?」

 父親の軽蔑する鋭い視線が突き刺さる。何も知らないのは、何にも気づいていなかったのは自分だったのか。
 隣りにいる母親に視線を向けると、何故か母親は涙を流してその場に膝をついていた。嗚咽を漏らしながら崩れ落ちる母親を見て何かが壊れる。
 
 パリン。

 耳元で硝子が割れる音がする。
 ほんの数日前、炎天下の下で倒れた子供がいた。仁武の背後で倒れた子供が持っていた牛乳瓶が割れ、辺りには硝子が飛び散ったことだろう。
 他人事のように考えてしまうのは、その場から逃げ出してしまったからだ。振り返ってしまえば知りたくないことを知ってしまいそうで。
 助けを求める少女の声が蕗の声に似ている気がして余計に目を背けたくなった。
 もしあの場に蕗がいれば、自分のことを最低だと罵ったのだろうか。