嘘つきと疫病神

 写真館を営んでいるとは言え、収入はさほど多くはない。毎日質素ではあるものの食事にありつけてはいるが、それもいつまで保てるかは分からない。
 いつか写真家になるという夢を叶えるため、何より今ある時間を守るために金が必要だった。
 まだ十にも満たない子供ではあるが、多少体力が必要になる仕事であっても金が稼げるのであるなら力を入れた。祖母はもう外に働きに行けるような年齢ではないし、今の自分が写真館を継ぐこともできない。
 だからこそ、暇があれば外に出て仕事を探すのだ。

「何処に行くの?」

 玄関先で靴を履いていると、すっかり家に慣れた様子の蕗が奥から顔を覗かせた。祖母のお下がりである前掛けを身に着けたまま、ぱたぱたと廊下を駆けてくる。

「仕事、かな」
「こんな時間から行くの? 朝ご飯は?」
「すぐに終わるから帰ってから食べるよ」
「そっか、気をつけて行ってきてね」

 心配が拭えないらしい蕗に手を振りながら玄関の扉を開ける。外に出ると夏の陽の光が強く肌を刺した。
 扉が閉まる瞬間まで蕗が向ける視線を背に受けて、一度も振り返ること無く家を出る。
 重い肩掛け鞄を提げて町の中を走る。家を出て五分もすると額に汗が滲んで、顎先から水滴が落ちた。
 暑苦しくて気持ちが悪いはずなのに、何故か心の中はすっきりと澄んでいる。家を出る前に蕗の優しい声を聞くことができたからだろうか。
 今日の朝食は祖母を手伝って蕗も作るらしい。一秒でも早く帰るために、鞄を支えながら地面を強く蹴った。
 指定された一軒一軒の郵便受けに新聞を入れていく。次の家に向かおうと一軒家を離れると、その背後に重そうな牛乳瓶が入った籠を担いだ、仁武と同じ年頃の男の子が歩いていた。
 顔も名前も声も知らない相手に構っていられるほど暇ではない。今は一刻も早く仕事を終わらせて、家で待っている蕗と祖母の元に帰らなければ。

 ガシャン!

 突然、背後でけたたましい物音が聞こえた。幾つもの硝子が割れたような、耳を劈く激しい物音である。
 振り返らないといけない、振り返って声を掛けないと。そう思うのに足が動かない。鞄の紐を握りしめたまま、前に一歩踏み出した。

「誰か! 誰か来て!」 

 少女と思われる悲痛な叫び。その声が聞こえるなり、重い足が軽くなって走り出していた。
 なんて薄情なのだろう、なんて酷いことをするのだろう。自分が誰よりもあの物音の近くにいたというのに、自分は逃げ出した。自分のことだけに精一杯なのだと理由をつけて逃げ出した。
 こんなことを蕗が知れば何と言うだろうか。最低だと罵るだろうか、離れていってしまうのだうか。
 背後で聞こえる少女の叫び声が蕗の声に似ている気がして、仁武は振り返らずに走り続けた。