嘘つきと疫病神

 幸せと感じているのは目の前にあるものしか見ていない証拠で、一歩外に出れば残酷な世界が広がっている。
 人々は小さな幸せしか見ていないのだ。
 だが、それだけで幸せなのである。

「この空のどこに、皆はいるんだろう」

 青空を見上げてぽつりとそんなことを呟いてみた。
 呟きに答える人は誰もいない。風に流れて、誰にも聞かれることの無い呟きは吹き飛ばされる。
 鮮やかな青空は一年前の悲劇を忘れさせてくれる。
 今日の夜空はさぞ綺麗なものになるだろう。帰ったら義母と縁側に出て茶を飲むのも悪くない。

「今夜は鏡子さんもどう? 柳凪の茶菓子も沢山あるから一緒に食べよう」

 そう言って墓石に手を当てた。木々の木陰にあるこの墓はひんやりとしている。
 ザラザラとした墓石の感触が掌いっぱいに伝わってきた。
 目の前にあるのはただの墓石。鏡子ではない。

「もし戦争なんてものがなければ、誰も死ななかったんだよね……」

 せめてあと一歩蕗が先を歩いていたなら。
 降り掛かる瓦礫に鏡子が押し潰されることもなかったのかもしれない。
 結局いつも後になって後悔するのだ。後悔ばかりの人生が、今という時を作り出している。
 なんて皮肉な話なのだろう。今ある幸せは何人もの大切な人々が死んだことであるというのに。

「そうだ。お義母さんにね、頼まれていたものがあるの」

 義母に託された包を墓石の前に降ろし、丁寧に包みを開けた。
 鮮やかな粧飾が施された髪飾りが目を引く。どれも鏡子が生前に身に着けていたものばかりだ。
 懐かしさが胸を満たしていく。これらの髪飾を身に着けていた鏡子はいつも輝いていた。
 そんな思い出も今では朧げなのだが。

「あれ、何だろうこれ」

 幾つもの髪飾が重なって見えなかったが、包の底には色褪せた封筒が入っていた。
 蝋で封じられた封筒は、中に何やら紙が入っているようである。
 色褪せた手紙には、裏返してみても宛名はない。
 不思議に思いつつも、好奇心に負けゆっくりと封筒を破らないように封を開ける。
 中には一枚の折りたたまれた手紙とハガキ程度の紙が入っていた。
 先に手紙を開いて宛名を確認しようと軽くその内容を読む。
 軽く読むだけのつもりだったが、一文字目から手紙に釘付けになってしまった。
 手紙の送り主は、仁武だったのだ。

『蕗、元気にしてるかな。もしこの手紙を読んでいるなら俺はもう戦場に行った頃だろう。もっと他の別れ方があったんじゃないかって今も後悔してる。でもあれ以外思いつかなかったんだ。きっとそれは蕗も同じじゃないかな。結局最後は諦めないといけないのだと。でもね、やっぱり思ってしまうんだ。君と逃げ出せたらどれほど自由になれただろうって。あの別れを告げた日、君は言った。俺が逃げようと言ったことが何よりも嬉しかったと。俺も嬉しかったんだ。半ば勢いで言ってしまった逃げようという言葉に君は付いて来てくれたから。だけど、蕗には俺の伝えたかった意味で伝わっていなかったらしい。俺はあの炎の中にいた時から、何処にも逃げられないのだと知っていた。少しでも君を安全な場所に連れていくために、逃げようなんて言ったんだ。愚かだよ。けれど君をあれ以上傷つけたくなかった。何だかんだ俺は蕗のことを何も知らない。言いたいことやしてやりたいことが沢山あったはずなのに、気がつけばここまで来てしまっていた。だから、君に言えなかったことをこの手紙に記すよ。俺は蕗のことが好きだった。軍に入ったのは少しでも強くなって君を守りたかったから。小さい頃の俺は弱くていつも蕗に助けられてきた。だからこそ強くなりたかった。どうだろう、俺は君のことを守れたかな。この手紙を読んでいるってことは君はまだ生きているんだろう。どうか蕗なりの幸せを見つけて生きてほしい。俺や鏡子達のことを永遠に忘れないでいてくれたら、もう思い残すことは無いよ。本当に、出会ってくれてありがとう』

 仁武は泣きながらこの手紙を書いたのだろう。
 所々涙のシミが着いていて、文字も滲んでいたり掠れていたりしている。けれどこの手紙は彼の思いの塊だ。
 これまでに言えなかったことを手紙にすることで形にした。
 誰よりも形に残すことにこだわっていた彼らしい想いの残し方。

「どうして言ってくれなかったの」

 内容から戦場に行く前に書いたのだろう。
 義母は鏡子が渡せなかったものと言ってこの包を託してきたが、この手紙が戦前であるならば、既に鏡子は死んでしまっている。
 となれば誰がこの手紙を受け取ったのか。
 恐らく、義母と顔見知りである紬か江波方がこの手紙を義母に渡したのだろう。そして、鏡子の遺品と共に包へとしまった。
 蕗がこのことを知る日は生涯訪れないだろうが。
 そして、何よりも気を引くのは、初めて彼が送った手紙と書き方が違うことだ。
 恐らく前の手紙は小瀧か誰かに教えてもらったのかもしれない。だが、この手紙は彼の書き方と想いでできている。

「好きなのは私も同じなのに……言ってくれたら私だって、伝えられたのに……」

 ぽたりぽたりと手紙の上に涙が落ちる。
 今になって彼の本当の思いを知ってしまった。こんなことを知れば、またあの頃に戻りたいと強く願ってしまうではないか。
 行かないでと言えぬまま旅立ってしまった彼は、最後にこんな残酷な贈り物を残した。
 封筒の中に入っている紙も取り出す。
 背面らしき部分には殴り書いたようにたった一言、添えられていた。

『君を愛していた』

 もはや目の前は何も見えなくなっていた。止めどなく溢れる涙が紙の上に零れ落ち、文字が掠れていく。
 震える手で落とさないように掴んで裏返すと、それは一枚の写真だった。
 戦場に行く前の軍人達が並んでいる写真。集合写真の中で見つけ辛いかと思われたが、案外すぐに仁武を見つけた。
 緊張しているのか強ばった表情は仁武らしい。
 写真を撮ることは慣れていても写ることには慣れていないのだ。

「私も好きだよ。出会ってくれてありがとう、仁武」

 狭い世界の片隅で生きた少年少女の物語。
 何処からともなく吹いた夏の風が蕗の持つ手紙を震わせた。
 この涙は嬉しさからのものであって欲しいと、密かに願う。
 もし来世というものがあるなら、次は戦争のない時代に生まれて彼らと新しい時間を過ごそう。

「また会える日があるなら、絶対に貴方の元に行くから。だから、それまで待っていてね」