嘘つきと疫病神

 彼女の人生も、共に過ごした時間も終わりを迎えた。終わればもう戻ることは無い。現実はそうできているのだ。

「見守っていてくれているんですね」
「そうね。案外、あの子は寂しがり屋だから」
「鏡子さんが寂しがり屋? 想像できません」
「ふふふ、蕗ちゃんの前では強がっていたんでしょうね」

 自分の知らない鏡子の一面。離れ離れで暮らしていたとしても、母親ならば娘のことは分かるものらしい。
 寂しがり屋という一面も彼女が生きている頃に知りたかった。存外自分は鏡子のことを何も知らないらしい。

「そうだ、今日も行くの? 墓参り」
「はい、もう少し日が傾いたら行きます」

 義母の家で暮らすようになってから毎日欠かさず鏡子の墓参りに行くようになった。雨の日だろうが炎天下だろうが墓参りは欠かさない。
 少しでも鏡子と話していたいのだ。蕗にも話せていなかったことがある。鏡子からの言葉はなくても、蕗から話せることがあるはずだ。

「それならこれを持って行ってくれるかしら」

 そう言って義母は緋色の包を差し出してきた。これまた見覚えのある包である。
 手を差し出し、受け取りながら義母の顔を見た。穏やかに微笑み「頼むわね」と嗄れた声を出す。

「これ何ですか?」
「あの子が渡せずにいたものよ」

 そう言い残すと義母は部屋へと戻って行った。縁側に一人取り残された蕗は、包とイヌホオズキを眺める。
 静かに目を閉じると周りの物音に意識を集中させる。鳥の鳴き声や木々の擦れ合う音、遠くから子供の笑い声も聞こえる。

「今、行くね」

 縁側から庭に降り立つと、そのまま屋敷を出て墓場への道を辿った。
 何度訪れたか分からない丘は、戦死した人々の墓場となっていた。変わってしまった光景に初めは寂しさを覚えたものだが、今はただの墓場としか感じない。
 この光景を仁武が見たら何と言うだろうか。写真に収めるくらい好きだったのだから、文句の一つ言ったりするのだろうか。
 永遠に覚えていると信じていても、いつの間にか記憶というものは薄れゆく。現に、鏡子の姿形を思い出せなくなっていた。
 蝉の騒がしい合唱に包まれながら丘を登っていく。登れば登るほど夏の暑さに身体が悲鳴を上げた。
 抱えた花束を落とさないように身体に抱き寄せた。ふわりと花の香りが鼻腔を擽る。夏の日光を受けて花々は煌めきを放った。
 墓場と化した丘の頂上に着くと、墓と墓の間を通って一際目立つ墓の前に立った。

「こんにちは、鏡子さん」

 毎日来ては、供えていた花を取り替える。何があっても見た目には気を使っていた鏡子の墓なのだから、少しでも鮮やかにしてあげたいというのが蕗の思いであった。
 蕗を庇って死んだ鏡子の遺体は見ていない。義母が終戦から少し経ってこの場所を教えてくれた。
 墓場であってもこうして話しかければ今も傍にいるような気がする。

「お義母さんね、私にいっぱい服をくれるんです。今まで自分の格好に意識を向けたことがなかったから、何だか変な感じなんですけど。鏡子さんが気にしていた理由が今になって分かりました」

 こうして墓場に来ると必ず鏡子に語りかける。今なら彼女に話せていなかったことも話せるのだ。
 皆と離れ離れになってから一年が経ったが、あれから誰にも会っていない。会ってしまえばきっと離れ難くなってしまうからだ。
 あの幸せだった日々が懐かしく、また共に過ごしたいと思ってしまう。そうなればもう後戻りはできない。今度こそ蕗は皆がいる空の向こうに行きたいと言い出すだろう。
 義母との暮らしも悪くは無い。穏やかに過ぎる時間を二人で過ごすのは、毎日慌ただしく過ごしていた前よりも気楽だ。
 けれど寂しさは残る。
 無駄に広い屋敷に二人暮しでは、有り余る部屋の前を通る度に侘しさが胸を締め付けた。
 今も変わらず、蕗は幸せだったあの頃に縛られている。仁武と別れた時に見た夜空はあの時限りで、それ以来見ることは出来ないでいる。

「今日で、終戦から一年が経ちました。鏡子さんのお陰で私はまだ生きてます。紬さんや和加代がどうなったのかは分からないけど、きっとどこかで元気にしてると思うんです。だから心配しなくても私は大丈夫ですよ」

 何が大丈夫なのか自分にも分からない。
 けれど今はもう一人ではない。義母がいて、近所の人からも良くして貰えている。
 鏡子達と過ごした時間、今ある時間、どちらも蕗の宝物だ。もう二度とこの幸せを手放したりなどしない。一度失った時間が戻ってきたように、再び手に入れたこの幸せを永遠に残し続けるのだ。
 一度失えば全く同じものが返ってくる訳では無い。けれど手に入れた全てがかけがえのないものになる。
 取り戻したいと願うこともあるが、今あるものを大切にしたいのもまた事実なのだ。