嘘つきと疫病神

 蕗はまだ若い。これからいくらでもやり直すことができる。物忘れが酷くても、その度に思い出せばいいだけのこと。
 記憶障害と言うと、脳に何かしらの異常でもあるのだろう。だが今更治療を受けようなどと言う考えはなかった。
 いつか全てを忘れてしまう運命を辿っていようと、今、彼らの生きた証を覚えていられているならそれでいい。
 時々激しい頭痛に襲われるが、そのことすら痛みが収まって数時間もすれば忘れてしまっている。治療を受けるにしろここまで悪化していれば治る兆しは見えない。
 かつて一人の少年が罰当たりと言って病に侵され死んでいった。もしかしたら蕗も罰が当たったのかもしれない。
 疫病神として噂されるようになったのも、蕗の周りの人々が突然死を遂げるからだ。蕗にそんな力がなかったとはいえ、町人は蕗を疫病神に仕立て上げた。
 そして疫病神と噂されることを蕗は受け入れた。否定する力も、覆す力も無かった。
 幾つもの嘘を吐き、吐かれ、騙し、騙され生きてきた。
 これまでの人生全てが嘘だったと言ってもいい。嘘つきだと言われた少年との出会いで、蕗は嘘のような現実を見てきたのだ。

「あれだけの地獄を見た後にこんな平穏な時間を過ごしてしまえば、全て嘘だったのかもしれないって思ってしまうわ。今にも鏡子が突然顔を出すかもしれない、戦死した息子も帰ってくるかもしれないってね。そんなことありえないのに」
「鏡子さんは、生きている内に自分のことは語りませんでした。戦死したお兄さんがいたこともつい最近知ったことです。始めは信頼されていなかったのかもって思っていたんですけど、きっとそうじゃなかったと思います」
「どういうことかしら?」

 皺が増えて弛んだ目を細めながら、義母は不思議そうに首を傾げた。皺が多く弱々しい姿をしているが、その顔や姿は鏡子を感じさせる。
 庭から義母へと視線を移し、随分と痩せ細った老婆を静かに目に映した。

「自分の過去を話したら、これまでの関係が壊れてしまうと考えたんだと私は思います。そんなこと気にしなくても、溜め込むくらいなら話してくれればよかった。今になって知っても、もう何も出来ないじゃないですか」

 視界いっぱいに広がる青空を一羽の烏が横切った。烏の毛は黒色では無い。実際は鮮やかな青色をしていて、三原色の光を全て吸収するから人の目では黒色に見えるのだという。
 目に見えるものだけが真実では無い。嘘の中から本当のことを見つけなければならないのだ。
 義母から視線を庭に戻す。と、視界の端に何かが転がっているのを見つけた。柱に立てかけるように一本の植物が置かれている。こんなもの先程まではなかったはずだ。
 落ちてきたにも、誰かが意図的に置いたようにしか見えない。小さな花を咲かせる植物を手に取ると、義母が小さく「あら」と声を上げた。

「まあまあ、綺麗なイヌホオズキね」
「イヌホオズキ?」
「夏から秋にかけて咲く花で、小さくて白い花を咲かせるのよ。花言葉は『嘘つき』。可愛らしい見た目とは違って、少し怖い花言葉ね。それにしてもイヌホオズキなんて何処から出てきたのかしら」
「誰かが置いたんでしょうか」

 まるで仁武と鏡子を表しているようだと蕗は思った。嘘つきな二人、結局最後まで二人は自身の本心を全て話してはくれなかった。
 初めて見るこの花には何処か懐かしさがある。知らないはずなのに知っているような。矛盾した感覚がイヌホオズキを摘む指先から伝わってくる。

「きっとあの子ね」

 義母はくすりと笑って襖の向こうの部屋を見た。小さな仏壇の上には鏡子の写真が置いてある。仁武が過去に撮った写真だ。
 仏壇を見る度に鏡子はもう居ないのだと思い知らされる。もしかしたら何処かで生きていて、いきなり出てくるかもしれないと期待もするが、そんなことはもう叶わない。
 鏡子も仁武も皆いなくなってしまった。あの頃にはもう戻ることはできない。仏壇の上の写真を見ると、いつもそう思うのだ。