言葉が詰まったのは、仁武が蕗の口元を手で覆ったからだ。苦々しく歪められた表情から、本当はこんな事をしたくないといった気持ちが滲み溢れている。
月に掛かっていた雲が動き出し、二人を月明かりが淡く照らす。
「もういい、もういいよ」
月明かりで鮮明になった仁武の顔を見上げる。その表情を見て目を剥いた。
彼は、泣いていた。一筋の涙を流し、静かに蕗を見下ろしていたのだ。仁武の涙を見るのはいつ以来だろうか。幼い頃に一度見たことがあった気がするが、もう欠片も思い出すことができない。これも記憶障害の影響か。
ゆっくりと降ろされた手は小刻みに震えていて、まるで生まれたばかりの子鹿のようだ。
昔と見違えるほどに成長した仁武の背丈は、蕗の二回り以上はある。それだけ成長したとて彼は彼のままなのだ。嫌なものは嫌だと言うし、好きなものは好きだと言う。祖母が守り継いできた写真館を心から愛しているし、写真を撮るのだって好きなままだ。
ほとんど涙を見せることのなかった仁武だったが、泣き虫の蕗に負けないほど泣き虫だったのかもしれない。
鏡子のように、誰も見ていない裏で泣いていることもあったのだろうか。感情を表に出さず、どんなに些細なことでも心の内に閉ざしてしまう。始めから自分の気持ちを表に出すことができていたのなら、今更互いの気持ちをぶつけ合う必要もなかったのかもしれない。全て始めの内から受け入れることができたのかもしれなかったのに。
「蕗がそんな思いをするのなら、君の記憶の中に俺は必要ない。生きやすい世の中になった時、俺のことは忘れて幸せになっていてよ」
「え……?」
「そう思っていてくれていることを知れて嬉しいよ。でも、前々から思っていたけど蕗には別の幸せがあるはずだと思うんだ。俺の我が儘で蕗が不幸になるくらいなら、俺は君の記憶に残り続けたくはない」
嫌だ。もうこれ以上、何も言わないで。
違うんだ。仁武をずっと覚えていたいと思うのは、仁武との幸せな日々を忘れないためであって。
違うんだ。仁武のいない未来など想像ができなくて、一度経験したからこそもう二度と離れたくないと思うのであって。
違うんだ。仁武がいるから不幸になるのではなく、仁武がいたから不幸にならなかったのであって。
「………ないの」
俯いたまま、押し殺した声で蕗は言う。自分でも何と言ったのか聞き取ることができない。
上手く聞き取れなかったらしい仁武が「ん?」と首を傾げて軽く腰を落とした。今では彼が屈まないと目線が合わなくなってしまった。幼い頃は蕗の方が微かに身長が高かったはずなのだが。
仁武の顔を勢いよく睨みつけると、今までに出したことの無い怒鳴り声を上げた。
「どうして分かってくれないの!!」
胸倉を掴んで顔と顔を引き寄せる。今までにこれほどの距離で、彼の顔を正面から見たことがあっただろうか。
幼い頃に付いたのであろう痛々しい傷跡、光を失った目、毎日見ていたはずなのに彼との別れが近づくたび、目を逸らしていたのだろう。
怒鳴ることも、人に自分の気持ちを伝えることも、無理矢理相手を分からせようとする行動に慣れていない蕗は、勢いのままに慣れていないことを一度に行っていた。
感情が高ぶれば、人間はこうして強行突破を無意識の内にしてしまうらしい。これには仁武も驚きに黙ることしかできない。
「私は仁武といられたら、皆と毎日を過ごせていればそれでいいの! 私の幸せは皆といることなの! それなのに仁武がいなくなっちゃったら、私はまた一人になる。鏡子さんはもういない。今度こそ私は一人になる。もう、一人になるのは嫌なの!!」
「蕗……」
届いているのかも分からない一人の少女の悲痛な叫びが宵闇に溶けて消えた。
月に掛かっていた雲が動き出し、二人を月明かりが淡く照らす。
「もういい、もういいよ」
月明かりで鮮明になった仁武の顔を見上げる。その表情を見て目を剥いた。
彼は、泣いていた。一筋の涙を流し、静かに蕗を見下ろしていたのだ。仁武の涙を見るのはいつ以来だろうか。幼い頃に一度見たことがあった気がするが、もう欠片も思い出すことができない。これも記憶障害の影響か。
ゆっくりと降ろされた手は小刻みに震えていて、まるで生まれたばかりの子鹿のようだ。
昔と見違えるほどに成長した仁武の背丈は、蕗の二回り以上はある。それだけ成長したとて彼は彼のままなのだ。嫌なものは嫌だと言うし、好きなものは好きだと言う。祖母が守り継いできた写真館を心から愛しているし、写真を撮るのだって好きなままだ。
ほとんど涙を見せることのなかった仁武だったが、泣き虫の蕗に負けないほど泣き虫だったのかもしれない。
鏡子のように、誰も見ていない裏で泣いていることもあったのだろうか。感情を表に出さず、どんなに些細なことでも心の内に閉ざしてしまう。始めから自分の気持ちを表に出すことができていたのなら、今更互いの気持ちをぶつけ合う必要もなかったのかもしれない。全て始めの内から受け入れることができたのかもしれなかったのに。
「蕗がそんな思いをするのなら、君の記憶の中に俺は必要ない。生きやすい世の中になった時、俺のことは忘れて幸せになっていてよ」
「え……?」
「そう思っていてくれていることを知れて嬉しいよ。でも、前々から思っていたけど蕗には別の幸せがあるはずだと思うんだ。俺の我が儘で蕗が不幸になるくらいなら、俺は君の記憶に残り続けたくはない」
嫌だ。もうこれ以上、何も言わないで。
違うんだ。仁武をずっと覚えていたいと思うのは、仁武との幸せな日々を忘れないためであって。
違うんだ。仁武のいない未来など想像ができなくて、一度経験したからこそもう二度と離れたくないと思うのであって。
違うんだ。仁武がいるから不幸になるのではなく、仁武がいたから不幸にならなかったのであって。
「………ないの」
俯いたまま、押し殺した声で蕗は言う。自分でも何と言ったのか聞き取ることができない。
上手く聞き取れなかったらしい仁武が「ん?」と首を傾げて軽く腰を落とした。今では彼が屈まないと目線が合わなくなってしまった。幼い頃は蕗の方が微かに身長が高かったはずなのだが。
仁武の顔を勢いよく睨みつけると、今までに出したことの無い怒鳴り声を上げた。
「どうして分かってくれないの!!」
胸倉を掴んで顔と顔を引き寄せる。今までにこれほどの距離で、彼の顔を正面から見たことがあっただろうか。
幼い頃に付いたのであろう痛々しい傷跡、光を失った目、毎日見ていたはずなのに彼との別れが近づくたび、目を逸らしていたのだろう。
怒鳴ることも、人に自分の気持ちを伝えることも、無理矢理相手を分からせようとする行動に慣れていない蕗は、勢いのままに慣れていないことを一度に行っていた。
感情が高ぶれば、人間はこうして強行突破を無意識の内にしてしまうらしい。これには仁武も驚きに黙ることしかできない。
「私は仁武といられたら、皆と毎日を過ごせていればそれでいいの! 私の幸せは皆といることなの! それなのに仁武がいなくなっちゃったら、私はまた一人になる。鏡子さんはもういない。今度こそ私は一人になる。もう、一人になるのは嫌なの!!」
「蕗……」
届いているのかも分からない一人の少女の悲痛な叫びが宵闇に溶けて消えた。



