嘘つきと疫病神


「仁武、仁武!!」

 宵闇の中に蕗の叫びが轟く。名を呼ばれた仁武とその横にいた芝達三人が驚いた様子で振り返った。
 息も絶え絶えで到底話せるような状況ではない彼女だが、その目は仁武を真っ直ぐと見つめている。
 明日にでもお国のためにと己に嘘をついて戦場に行ってしまう彼に、今しか言えないことがあるはずだ。深く息を吸い込み上がりきった呼吸と整えると、小首を傾げている仁武に向かって言う。

「仁武に伝えたいことがあるの」

 ちらりと仁武が三人を見るが、彼らは仁武を残してその場から歩き出す。彼らの気遣いが今はただ有り難い。心の中で感謝をしつつ、仁武の元へと歩み寄って距離を詰めた。
 十年越しに再開したあの日と同じ光景。けれど蕗の表情は真剣そのもので、到底喜んでいるようには見えない。
 宵闇が広がる中、二人の間を通り過ぎていく風の音だけが音という音を奏でている。

「伝えたいこと?」

 微笑んだ仁武は蕗の言葉をそのまま繰り返す。彼女がこれから何を言い出そうとしているのか気づいているはずなのに、仁武は誤魔化したように笑っている。嘘つきは何処まで行っても嘘つきのまま。そんな彼に惹かれたはずなのに、今ではその不器用さと頑固さが憎くて堪らなかった。

「……私、前は仁武の気持ちを尊重する、なんて言ったけど、本当は否定したかった」

 彼に伝えたところで無駄であることは分かっている。だが、今、伝えないといけない。今だからこそ伝えなければならないのだ。
 目を丸くして首を傾げている仁武はやはり嘘つきだ。気づいているくせに、こうして気づいていないふりをする。何度その仕草に騙されてきたのだろう。

「正直に言うね。……行かないでほしい」

 軍人になった仁武と再会した瞬間、丘に行って彼の本心を聞いた瞬間、誕生日会で彼の決意を聞いた瞬間、今この瞬間、行かないでと強く願ってしまった。
 戦場に行けば二度と会えなくなるかもしれない。そんな状況下に立たされている彼の覚悟を踏み躙りたくはない。けれど蕗の気持ちもまた踏み躙られたくはなかった。

「もう、何処にも行ってほしくない。また離れ離れにはなりたくないの。お願い、行かないで……」

 自分の思いはこれほどまでに我が儘なものだったのか。仁武に戦場へ行ってほしくないと思うのも、所詮は単なる我が儘でしか無いというのに。
 いっそのこと伝えないほうが良かったか。いや、伝えずに終わるほうがきっと辛い。そう思って彼に本心を打ち明けたはずなのに、残るのは罪悪感と後悔が入り混じった気持ちの悪さだけが残っている。
 色々なものを吐き出しそうになるが必死に堪えて、仁武の覚悟が揺らぐことを期待する。

「死んだら元も子もないんだよ……。やっとこうして一緒にいられるようになったのに、また離れるなんて私には耐えられない。空襲の時、仁武から逃げようって言い出してくれたのが本当に嬉しかったの。仁武も芝さんも皆が戦争に対して仕方の無いことのような言い方をするから、この人達は人間じゃないなんて思うようになってたの。でも仁武も私も人間、生きる価値、権利があるはずでしょう? それを投げ出すなんて……私は理解できない」

 仁武の顔を見上げるが、軍帽の庇の影と宵闇に塗り潰されていて顔色は分からない。
 ただ、怒っているのだということだけは感じることができた。

「今更、今更変えることなんてできない。もう決まったことなんだ、俺一人の我が儘で皆を巻き込むわけにはいかないんだよ」
「どうして諦めるの? もっと生きたいって言っていいんだよ。誰が命を懸けることを当たり前だなんて言い出したの? 失っていい命なんて無いの! それが仁武の命なら尚更っ──」

 まだまだ言ってやりたいことがある。仁武の気持ちが揺れ動くまで、伝えたいことを伝えたい。それなのに、続けて言葉が出てくることはなかった。