嘘つきと疫病神

 悲しげな表情で救急箱を閉めた紬は、ちらりと江波方の方へ視線を移した。
 見られていると気づいていない彼は、頬に貼られた絆創膏が気になるのか指先で触っている。ついさっき気持ちを伝えるように言ったのに、もうこんなことになっているではないか。
 じれったさを感じながらも蕗は立ち上がる。江波方が蕗を見上げて助けを乞うていたが、貼り付けた笑顔を見せて教室を出た。
 だからこれから先、二人の間にあったことは蕗にとって知る必要のないことである。


「安静にしていてくださいね」

 そう言って立ち上がろうとした紬の腕を江波方が掴んだ。さほど強くはないが、突然のことに紬は勢いよく振り返る。

「どうしたんですか」

 不思議そうに紬は江波方を見た。彼がこんな勢いに任せた行動を取るような人には見えなかったため、その驚きは余計に大きい。
 俯いたまま何も言えずにいる江波方だが、蕗の言葉を反芻して顔を上げた。

「いきなり何を言い出すんだって思うかもしれませんが、聞いて下さい。俺はこれまで誰かのことを一番に考えることがなかった。自分のことすら疎かにするような奴だったんです。でも、五十鈴さんと会う度に何とも言えない気持ちになって……。あまり誰かに自分の気持ちを言うことが得意ではないので、上手く伝えられないのですが……」

 紬の腕を掴んだまま、江波方は目を点にする彼女を見上げる。思えばここまで彼女の顔をしっかりと見たことなどなかったかもしれない。茶色がかった大きな瞳、色白の肌、微かに紅潮する頬。
 こんなにも華奢で色白だっただろうか。こうして腕を掴んでいる間にも彼女を壊してしまいそうで怖くなる。

「俺は、貴方のことが____」

 そこで言葉が途切れたのは、その先の言葉が見つからなかったからでも口にできなかったからでもない。
 ふわりと花のような甘い香りが鼻腔を擽り、その香りの正体が紬によるものであると瞬時に理解する。
 言葉が途切れたのは、紬によって口を塞がれたからだ。
 鼻と鼻がこつんとぶつかり、唇に柔らかいものが当たる感触がする。どくんどくんと心臓が脈打ち、顔が熱くなっていくのを感じた。
 顔が離れてここに来てからようやく目が合った。いたずらが成功した子供のように無邪気に笑う紬と、目を見開いて石のように固まる江波方。なんとも異様で不思議な光景だ。

「やっと安心できた」
「んえ?」

 江波方の情けない声を聞いた紬はいつもの花のような笑顔を見せた。クスクスと笑いながら江波方を愛おしげに瞳に映す。
 愛おしい人は自分の目にだけ映っていれば良い。そう思ってしまうのは我が儘だろうか。
 江波方の頬から手を離し、彼の隣に腰を下ろすとそのままそっと肩に頭を置いた。
 近い未来、死んでしまうかもしれない彼を愛さないようにこれまで過ごしてきたが、人間の想いというものはうんざりするほど正直だ。
 素直すぎるがゆえに、抵抗することなくその気持ちに気づいてしまった。
 そしてこうしている間にも頭の中で幸せという四文字が浮かんでは消える。ただただ、今は幸せだった。
 ずっと伝えたかった、ずっと前からこうしたいと願っていた。ようやく、傍に寄ることができたのだ。

「一緒に明日を迎えましょう」
「ええ、必ず」

 夜はまだまだ長い。月明かりが吹き抜けの窓から差し込み、二人を優しく包み込んだ。