嘘つきと疫病神

 腕の中で友里恵から温もりが消えていく。固くなっていく身体、冷たくなっていく身体の感触が深く蕗の身に刻まれる。
 その不快感、現実味を帯びない違和感で気がおかしくなりそうだった。

「ふは、ははは。あははは」

 洸希は包丁を握った手で額を押さえ、宵闇に響き渡るように不気味にも笑い声を上げた。
 あまりの変わりようと不気味さに蕗の身体からは完全に力が抜ける。仁武が庇うように身体を抱くが、体温は奪われる一方であった。

「遅え、全部遅えよ! 何もかも、もう手遅れなんだよ!」

 叫び声がビリリと鼓膜を突き刺す。洸希の目は蕗達ではなく、目の前に立ち塞がる江波方を睨みつけていた。

「俺は送っただけだ。全てに絶望した人々を、俺と同じ人々を楽になれる場所に送っただけなんだ」
「違う、お前がしたことはただの殺人だ。犯罪を正当化するな」
「何も知らねえくせに知ったような口を聞くな!」

 到底彼に言葉が届くとは思えない。江波方が何を言おうと、洸希はまるで聞く耳を持たないのだ。
 送っただけという言葉。戦争を恨んでいる人々を殺し、あの世へ送ることを彼は正当化しているのだろう。
 被害者の誰もが愛する人を戦争で亡くしていたり、自身が戦争で命を落とすことが決まっている者達ばかりだ。
 毒撒きの疫病神の正体は、何度も同じ時間を過ごした洸希その人だったのである。

「皆、初めは俺のことを警戒していた。でもな、俺が“そう”だって気づいた瞬間、願ってきたんだ。全てが憎い、全てがどうでもいい、だからもう楽にしてくれってな」
「違う、違うよ……。友里恵さんが、そんなこと願うはずがない。だって、あんなにも優しくしてくれて……ずっと一緒にいてくれて」
「お前といることが生きることに負担をかけていたとしても、同じことが言えるか?」

 下から覗き込むように睨めつけられた視線が真っ直ぐと蕗を捉える。
 目の前にいるのは疫病神でも殺人鬼でもない、悪魔だ。

「狂ってる……」
「お前には言われたくねえな。こんな腐った国のために命を捧げるとか、狂っている意外にどう言える」

 仁武の呟きに、洸希は心底愉快げに笑いながらそう答えた。

「もしかして……お前は、あの時のお前なのか…………?」

 何度か顔を合わせるようになり、ほんの少しだけ距離が縮まったと思っていた。相手は幼い頃虐めてきていた相手、しかし今は大人になり変わった。
 分かり合えると思ったのだ。昔のことは水に流し、一から関係を築いていけると思った。
 けれど、彼の中に潜むもう一つの心は、過去で時間が止まってしまっていたらしい。

「俺は、全部を壊す。全部がどうでもいいんだよ。どうせこんな身体じゃ長くは生きられねえ」
「だからって、こんなこと……」
「お前らはまだまだ生きられるじゃねえか。健康な身体があって、こうして身を守ってくれる存在が傍にある。それなのに、どうしてお前らは戦争なんざで命を捨てるような真似ができるんだ!?」

 そう叫びながら、血で濡れた包丁を立ち塞がる江波方へと向ける。威勢の良さとは裏腹に、その切っ先はガタガタと震えていた。
 鈍く光る切っ先を見つめながら、江波方は一歩洸希に向かって踏み出す。

「来るな」

 また一歩、江波方は歩みを止めることなく踏み出す。少しづつ二人の距離は縮まり、江波方の動きに呼応するように洸希が向ける切っ先の震えが一層大きくなる。

「来るな……近寄るな! 兄ちゃん!」