天気……冷たい北風が吹いている。風のなかに小さい氷の粒が含まれていて、顔に当たって、ちくちくする。
眠っているときに、どこからか不意に新聞の売り声が聞こえてきた。
「人民日報、ローカル新聞、ビジネス新聞」
「人民日報、ローカル新聞、ビジネス新聞」
ぼくはびっくりして、そばで寝ていた妻猫を揺り起こした。
「お母さん、何か声が聞こえませんか」
「えっ」
妻猫は弾かれたように、がばっと身を起こして、耳をそばだてた。
「そう言えば、何か変な音がするわ」
妻猫がそう答えた。妻猫は人の声が分からないので、ぼくが聞いた新聞の売り声を変な音と言った。
ぼくも妻猫も気になって、目がさえて、もう眠れなくなった。ぼくと妻猫は、横に並んで寝ていたが、目をぱっちり開けて、聞こえてくる声に耳をすました。
「人民日報、ローカル新聞、ビジネス新聞」
今度は先ほどよりも、もっとはっきりと聞こえてきた。先ほど聞こえてきた売り声は、どこか遠い夢のなかから、かすかに聞こえてくるような気がしたが、今度は違った。実際に誰かが、すぐ近くにいて、声を出しているようにリアルに聞こえてきた。まちがいなく新聞の売り声だった。売り声には、京劇のせりふのような節回しがついていて、翠湖公園の東門にいる、あのお年寄りの売り声と、そっくりだった。
(まさか九官鳥がうちにやってきたのではないだろうか)
ぼくは、そう思って、声がしているほうへ、そろそろと近づいていった。そして目の玉が飛び出るほど、びっくりした。売り声を出していたのは、九官鳥ではなくて、アーヤーだったからだ。ぼくは信じられなくて、かたまってしまった。
「えー、こんなことがありうるのだろうか」
ぼくは茫然として、その場にたちすくんでいるよりほかなかった。妻猫も、ぼくのあとから出てきて、驚きのあまり、色を失っていた。
「アーヤー……」
妻猫は感動に震えていた。
「お父さん、アーヤーは声がまた出るようになったのですね。あの変な音は、アーヤーが出していたのですね」
妻猫がそう言った。
「変な音ではないよ。あれは人の声だよ。人が新聞を売っている声だよ」
ぼくがそう言うと、妻猫はびっくりしていた。
「えっ、そうなのですか」
「うん、そうだよ」
ぼくはうなずいた。
「アーヤーの願いがついにかなったのだ」
ぼくがそう言うと、妻猫の顔が明るく輝いていた。
妻猫はアーヤーをきつく抱きしめると、いとおしそうにキスをした。
「アーヤー、アーヤー、いとしいアーヤー」
妻猫は何度もそう言いながら、喜びに満たされたような顔をしていた。
「お母さん、わたしは夢を見ているのじゃないよね」
アーヤーがそう言った。アーヤーは自分でもまだ信じられないでいるようだった。
「もちろんよ。声が出なくなるほど、練習をしたから、神様がプレゼントをくださったのよ」
お母さんがそう言った。アーヤーがうなずいた。
「お父さんはどう思う」
アーヤーが、ぼくに聞いた。
「お父さんもお母さんと同じだよ。おまえはたいしたものだ。お父さん以上に、たいしたものだ。人の声が出せるようになったのだから」
ぼくはそう言って、アーヤーをほめたたえた。
「もう一度、聞かせてくれないか」
ぼくはアーヤーに言った。
「いいわ」
アーヤーはそう言うと、口の形を整えてから
「人民日報、ローカル新聞、ビジネス新聞」
と言った。人の声そっくりのきれいな声だった。声に抑揚もついていて、まるで歌を歌っているかのように、心地よい声だった。
アーヤーは自分の夢が実現したことを知って、うれしくてたまらなくなり、涙をぽろぽろと、こぼしていた。アーヤーの涙を見て、妻猫も、思わず、もらい泣きしていた。ぼくも泣きたくなったが、ぼくは男だから、妻猫とアーヤーに涙を見せるわけにはいかないと思った。涙を見られないように、ぼくは急いでうちを出た。空はまだ明るくなっていなかった。凍てつくように寒い冬の夜空に星がたくさん出ていた。翠湖には氷が張っていて、水鏡のような湖面に、星影が逆さまに映っていた。今は誰もぼくを見ていないので泣いても大丈夫だと思うと、ぼくの目からは、とめどもなく涙がこぼれてきた。感涙にむせびながら、ぼくは夜空にきらきらと輝いている美しい星を眺めていた。
と、そのとき、思いがけず、老いらくさんが不意に、ぼくの近くにやってきた。ぼくが泣いているのを見て
「笑い猫、何か悲しいことでもあったのか」
と、心配そうに聞いてきた。ぼくは首を横に振った。
「でも泣いているではないか。泣くことは体に一番よくないぞ。わしがこの年まで長く生きることができたのは、これまで一度も泣いたことがないからだ」
老いらくさんがそう言った。
「そうですか。でも悲しいときにだけ涙が出るとは限りません。うれしくて感極まったときにも涙が出ます。ぼくは今、うれしくて泣いているのです」
ぼくはそう答えた。
「そうだったか。うれしいときも涙が出るのか。知らなかった」
老いらくさんがそう言った。
「何かおまえを泣かせるようなうれしいことがあったのか」
ぼくはうなずいた。
「そうですよ。とてもうれしいことがありました」
ぼくは明るい声で、そう言った。
「そうか。それはよかったな。でも何だろうな……。つい先日、おまえに会ったとき、アーヤーの声が出なくなったと言って、おまえが憂いに沈んでいたのを覚えているが、もしかしたら、……」
さすが、老いらくさん。察知がいい。
「そうなのです。アーヤーの声がまた出るようになったのです。それだけではありません。アーヤーの願いがかなって人の声が出せるようになったのです。これが泣かずにいられますか」
ぼくは興奮ぎみに、そう言った。
「えっ、本当か。本当に人の言葉が話せるようになったのか。にわかには信じられないような話だがなあ」
老いらくさんは半信半疑の顔をしていた。
「うそではありません。本当です。アーヤーは本当に人の言葉が話せるようになったのです」
ぼくは言葉に力をこめて、そう言った。
「そうか。それは、実におめでたいことだ。わしもとてもうれしいよ」
老いらくさんがそう言って、目を細めていた。
「わしがあげようとした薬は要らないと言って断ったが、一体どうやってアーヤーののどを治したのだ」
老いらくさんが聞いてきた。
「馬小跳に知らせることができたので、馬小跳がアーヤーを動物病院に連れて行ってくれました。病院ではドクターの裴帆先生が診てくださって、点滴を受けて、それで元気になりました」
ぼくはそう答えた。
「そうか。それはよかったな。声が出るようになっただけでもよかったのに、神様はアーヤーに奇跡という、にわかには信じられないようなプレゼントまで授けてくださったのか」
老いらくさんが感慨深そうな顔をしていた。
「そうなのです、アーヤーに奇跡が起きたのです。ぼくは、アーヤーが話す人の声を、はっきりと聞きました。アーヤーの声とは思えないほどきれいで、人の声そっくりでした」
ぼくはまだ興奮冷めやらない顔をしていた。
「信じられないような奇跡が起きたことで、アーヤーも妻猫も、感情がこみあげてきて、泣いていました。ぼくも泣きたくなったので、アーヤーと妻猫に泣いているところを見られないように、ここに来てひとりで泣いていたのです」
ぼくはそう答えた。
「そうか。そういうことだったのか。」
老いらくさんは深くうなずいていた。
「猫が人の言葉を話せるようになるとは、本当にまったく、にわかには信じられないような大奇跡だな。世の中に猫はたくさんいるが、人の言葉が話せる猫は一匹もいないのではないか。たいしたものだ」
老いらくさんがそう言って、アーヤーのことをほめてくれた。
「こんな大奇跡が起きたら世の中が明るくなる。これを祝わずにはおれようか。よし、これから祝杯をあげよう」
老いらくさんがそう言った。
「わしのうちには年代物のフランスの赤ワインがある。少なくとも百年は経っている。わしはこれからそのワインを取りに行ってくる」
老いらくさんの提案に、ぼくは、にっこりと笑みを浮かべた。
「いいですね。外国の高級ワインを、ぼくも少し飲んでみたいです」
ぼくは、そう答えた。
老いらくさんが持っているものは全部、ゴミ箱に捨ててあったものばかりだということを、ぼくはもちろん知っていた。フランスの赤ワインも、たぶん、誰かが飲み残して、ゴミ箱に捨てていたものを拾ってきたのだろう。でも、ぼくは今、心のなかがうれしさであふれていて、お酒を飲みたくてたまらなかったから、赤ワインをどこから持ってきたのかは、聞かないことにした。
老いらくさんが、ワインを取りにうちに帰ってから、しばらく待っていると、音をがらがら立てながら、スケートボードをひっぱってきた。スケートボードの上には白い布が敷かれていて、その上には小瓶に入った赤ワインと、グラスが載っていた。スケートボードは、老いらくさんがゴミ箱のなかに捨ててあったものを拾ってきて、運搬用の車として使っているものだ。車のほかに、ご飯を食べるためのテーブルの代わりとしても使っている。一石二鳥の便利なものとして、老いらくさんは、スケートボードがとても気に入っている。こういうことを思いつけるのも老いらくさんならではの有効なゴミの活用方法だと思って、ぼくは感心している。
「さあ、これから祝杯をあげよう」
老いらくさんがそう言った。ぼくはうなずいた。
「アーヤーの願いがかなったことを祝って乾杯」
ぼくは晴れやかな顔で、音頭を取った。
ぼくと老いらくさんは、ワインを何杯も飲んだ。瓶のなかに入っていたワインを全部飲み干したときには、夜はもう明けていた。東の空から太陽が昇ろうとしているのを、ぼんやりとしたまなこで見ながら、ぼくはふらふらした足取りでうちへ帰り始めた。まるでふわふわした雲の上を歩いているような感覚だった。うちへ帰りつく前に、ぼくは途中で酔い倒れてしまった。目がさめたときは、もうすぐお昼になろうとしていた。
二日酔いで頭がずきずきした。痛む頭をぷるぷる振ったとき、ぼくは、はっとしてアーヤーのことを思い出した。もしかしたらアーヤーは今ごろ、もううちにはいなくて、公園の西門の前にいるのではないかと思った。だから、ぼくは、うちには帰らないで、西門の前に行ってみることにした。やはり思っていたとおりだった。言葉が話せない障害者のお年寄りのそばに寄り添うようにして、アーヤーが立っていた。お年寄りの前にある新聞は、もうほとんど売り切れてしまっていた。たくさんの人たちが新聞を買い求めて、西門の前から、だんだん遠ざかっていく姿も見えた。お年寄りは地面にひざまずいて売上額を数えていた。
(お年寄りを手伝って新聞を売ってあげたのは、アーヤーだろうか、それとも九官鳥だろうか)
ぼくはそう思いながら見ていた。
ぼくに気がついて、アーヤーが近づいてきた。
「アーヤー、おまえが手伝ったのか」
ぼくが聞くと、アーヤーがうなずいた。
「そうよ。わたしよ。うまくいったわ」
アーヤーが、にこやかな顔でそう答えた。
「あの木の上に隠れて、売り声を出していたの。たくさんの人が買いに来て、買っていったわ。でも誰もわたしには気がつかなかったわ。お年寄りが木の上にテープレコーダーを隠していて、そのテープレコーダーから音が鳴っていると思っているようだった」
アーヤーがそう言った。
「よかったな。よくやったよ。おまえは本当に偉いよ」
ぼくはアーヤーをほめた。アーヤーが立派なことを成し遂げたことを知って、父親として誇らしく思った。でもそれと同時に恥ずかしくもなった。今朝早く、お酒を飲み過ぎて、目を覚ますのが遅れてしまい、アーヤーが実際に売っているところを見そびれてしまったからだ。
「こめんよ、アーヤー、遅れてごめん……」
ぼくは、ひたすらアーヤーに謝った。
「お父さん、お酒臭いわ。飲み過ぎて酔っぱらっているのでしょう」
アーヤーが、ぼくに体をぐっと近づけて、鼻でにおいをかいでいた。
「実を言うと、そうなのだ。おまえのことがうれしくてたまらなくなって、ワインをたくさん飲んだから」
ぼくは正直に、そう話した。アーヤーはうなずいた。
「お父さんはお酒に酔っただけではなくて、わたしが成し遂げたことにも感動して酔ったのだから、許してあげるわ」
アーヤーがそう言った。
眠っているときに、どこからか不意に新聞の売り声が聞こえてきた。
「人民日報、ローカル新聞、ビジネス新聞」
「人民日報、ローカル新聞、ビジネス新聞」
ぼくはびっくりして、そばで寝ていた妻猫を揺り起こした。
「お母さん、何か声が聞こえませんか」
「えっ」
妻猫は弾かれたように、がばっと身を起こして、耳をそばだてた。
「そう言えば、何か変な音がするわ」
妻猫がそう答えた。妻猫は人の声が分からないので、ぼくが聞いた新聞の売り声を変な音と言った。
ぼくも妻猫も気になって、目がさえて、もう眠れなくなった。ぼくと妻猫は、横に並んで寝ていたが、目をぱっちり開けて、聞こえてくる声に耳をすました。
「人民日報、ローカル新聞、ビジネス新聞」
今度は先ほどよりも、もっとはっきりと聞こえてきた。先ほど聞こえてきた売り声は、どこか遠い夢のなかから、かすかに聞こえてくるような気がしたが、今度は違った。実際に誰かが、すぐ近くにいて、声を出しているようにリアルに聞こえてきた。まちがいなく新聞の売り声だった。売り声には、京劇のせりふのような節回しがついていて、翠湖公園の東門にいる、あのお年寄りの売り声と、そっくりだった。
(まさか九官鳥がうちにやってきたのではないだろうか)
ぼくは、そう思って、声がしているほうへ、そろそろと近づいていった。そして目の玉が飛び出るほど、びっくりした。売り声を出していたのは、九官鳥ではなくて、アーヤーだったからだ。ぼくは信じられなくて、かたまってしまった。
「えー、こんなことがありうるのだろうか」
ぼくは茫然として、その場にたちすくんでいるよりほかなかった。妻猫も、ぼくのあとから出てきて、驚きのあまり、色を失っていた。
「アーヤー……」
妻猫は感動に震えていた。
「お父さん、アーヤーは声がまた出るようになったのですね。あの変な音は、アーヤーが出していたのですね」
妻猫がそう言った。
「変な音ではないよ。あれは人の声だよ。人が新聞を売っている声だよ」
ぼくがそう言うと、妻猫はびっくりしていた。
「えっ、そうなのですか」
「うん、そうだよ」
ぼくはうなずいた。
「アーヤーの願いがついにかなったのだ」
ぼくがそう言うと、妻猫の顔が明るく輝いていた。
妻猫はアーヤーをきつく抱きしめると、いとおしそうにキスをした。
「アーヤー、アーヤー、いとしいアーヤー」
妻猫は何度もそう言いながら、喜びに満たされたような顔をしていた。
「お母さん、わたしは夢を見ているのじゃないよね」
アーヤーがそう言った。アーヤーは自分でもまだ信じられないでいるようだった。
「もちろんよ。声が出なくなるほど、練習をしたから、神様がプレゼントをくださったのよ」
お母さんがそう言った。アーヤーがうなずいた。
「お父さんはどう思う」
アーヤーが、ぼくに聞いた。
「お父さんもお母さんと同じだよ。おまえはたいしたものだ。お父さん以上に、たいしたものだ。人の声が出せるようになったのだから」
ぼくはそう言って、アーヤーをほめたたえた。
「もう一度、聞かせてくれないか」
ぼくはアーヤーに言った。
「いいわ」
アーヤーはそう言うと、口の形を整えてから
「人民日報、ローカル新聞、ビジネス新聞」
と言った。人の声そっくりのきれいな声だった。声に抑揚もついていて、まるで歌を歌っているかのように、心地よい声だった。
アーヤーは自分の夢が実現したことを知って、うれしくてたまらなくなり、涙をぽろぽろと、こぼしていた。アーヤーの涙を見て、妻猫も、思わず、もらい泣きしていた。ぼくも泣きたくなったが、ぼくは男だから、妻猫とアーヤーに涙を見せるわけにはいかないと思った。涙を見られないように、ぼくは急いでうちを出た。空はまだ明るくなっていなかった。凍てつくように寒い冬の夜空に星がたくさん出ていた。翠湖には氷が張っていて、水鏡のような湖面に、星影が逆さまに映っていた。今は誰もぼくを見ていないので泣いても大丈夫だと思うと、ぼくの目からは、とめどもなく涙がこぼれてきた。感涙にむせびながら、ぼくは夜空にきらきらと輝いている美しい星を眺めていた。
と、そのとき、思いがけず、老いらくさんが不意に、ぼくの近くにやってきた。ぼくが泣いているのを見て
「笑い猫、何か悲しいことでもあったのか」
と、心配そうに聞いてきた。ぼくは首を横に振った。
「でも泣いているではないか。泣くことは体に一番よくないぞ。わしがこの年まで長く生きることができたのは、これまで一度も泣いたことがないからだ」
老いらくさんがそう言った。
「そうですか。でも悲しいときにだけ涙が出るとは限りません。うれしくて感極まったときにも涙が出ます。ぼくは今、うれしくて泣いているのです」
ぼくはそう答えた。
「そうだったか。うれしいときも涙が出るのか。知らなかった」
老いらくさんがそう言った。
「何かおまえを泣かせるようなうれしいことがあったのか」
ぼくはうなずいた。
「そうですよ。とてもうれしいことがありました」
ぼくは明るい声で、そう言った。
「そうか。それはよかったな。でも何だろうな……。つい先日、おまえに会ったとき、アーヤーの声が出なくなったと言って、おまえが憂いに沈んでいたのを覚えているが、もしかしたら、……」
さすが、老いらくさん。察知がいい。
「そうなのです。アーヤーの声がまた出るようになったのです。それだけではありません。アーヤーの願いがかなって人の声が出せるようになったのです。これが泣かずにいられますか」
ぼくは興奮ぎみに、そう言った。
「えっ、本当か。本当に人の言葉が話せるようになったのか。にわかには信じられないような話だがなあ」
老いらくさんは半信半疑の顔をしていた。
「うそではありません。本当です。アーヤーは本当に人の言葉が話せるようになったのです」
ぼくは言葉に力をこめて、そう言った。
「そうか。それは、実におめでたいことだ。わしもとてもうれしいよ」
老いらくさんがそう言って、目を細めていた。
「わしがあげようとした薬は要らないと言って断ったが、一体どうやってアーヤーののどを治したのだ」
老いらくさんが聞いてきた。
「馬小跳に知らせることができたので、馬小跳がアーヤーを動物病院に連れて行ってくれました。病院ではドクターの裴帆先生が診てくださって、点滴を受けて、それで元気になりました」
ぼくはそう答えた。
「そうか。それはよかったな。声が出るようになっただけでもよかったのに、神様はアーヤーに奇跡という、にわかには信じられないようなプレゼントまで授けてくださったのか」
老いらくさんが感慨深そうな顔をしていた。
「そうなのです、アーヤーに奇跡が起きたのです。ぼくは、アーヤーが話す人の声を、はっきりと聞きました。アーヤーの声とは思えないほどきれいで、人の声そっくりでした」
ぼくはまだ興奮冷めやらない顔をしていた。
「信じられないような奇跡が起きたことで、アーヤーも妻猫も、感情がこみあげてきて、泣いていました。ぼくも泣きたくなったので、アーヤーと妻猫に泣いているところを見られないように、ここに来てひとりで泣いていたのです」
ぼくはそう答えた。
「そうか。そういうことだったのか。」
老いらくさんは深くうなずいていた。
「猫が人の言葉を話せるようになるとは、本当にまったく、にわかには信じられないような大奇跡だな。世の中に猫はたくさんいるが、人の言葉が話せる猫は一匹もいないのではないか。たいしたものだ」
老いらくさんがそう言って、アーヤーのことをほめてくれた。
「こんな大奇跡が起きたら世の中が明るくなる。これを祝わずにはおれようか。よし、これから祝杯をあげよう」
老いらくさんがそう言った。
「わしのうちには年代物のフランスの赤ワインがある。少なくとも百年は経っている。わしはこれからそのワインを取りに行ってくる」
老いらくさんの提案に、ぼくは、にっこりと笑みを浮かべた。
「いいですね。外国の高級ワインを、ぼくも少し飲んでみたいです」
ぼくは、そう答えた。
老いらくさんが持っているものは全部、ゴミ箱に捨ててあったものばかりだということを、ぼくはもちろん知っていた。フランスの赤ワインも、たぶん、誰かが飲み残して、ゴミ箱に捨てていたものを拾ってきたのだろう。でも、ぼくは今、心のなかがうれしさであふれていて、お酒を飲みたくてたまらなかったから、赤ワインをどこから持ってきたのかは、聞かないことにした。
老いらくさんが、ワインを取りにうちに帰ってから、しばらく待っていると、音をがらがら立てながら、スケートボードをひっぱってきた。スケートボードの上には白い布が敷かれていて、その上には小瓶に入った赤ワインと、グラスが載っていた。スケートボードは、老いらくさんがゴミ箱のなかに捨ててあったものを拾ってきて、運搬用の車として使っているものだ。車のほかに、ご飯を食べるためのテーブルの代わりとしても使っている。一石二鳥の便利なものとして、老いらくさんは、スケートボードがとても気に入っている。こういうことを思いつけるのも老いらくさんならではの有効なゴミの活用方法だと思って、ぼくは感心している。
「さあ、これから祝杯をあげよう」
老いらくさんがそう言った。ぼくはうなずいた。
「アーヤーの願いがかなったことを祝って乾杯」
ぼくは晴れやかな顔で、音頭を取った。
ぼくと老いらくさんは、ワインを何杯も飲んだ。瓶のなかに入っていたワインを全部飲み干したときには、夜はもう明けていた。東の空から太陽が昇ろうとしているのを、ぼんやりとしたまなこで見ながら、ぼくはふらふらした足取りでうちへ帰り始めた。まるでふわふわした雲の上を歩いているような感覚だった。うちへ帰りつく前に、ぼくは途中で酔い倒れてしまった。目がさめたときは、もうすぐお昼になろうとしていた。
二日酔いで頭がずきずきした。痛む頭をぷるぷる振ったとき、ぼくは、はっとしてアーヤーのことを思い出した。もしかしたらアーヤーは今ごろ、もううちにはいなくて、公園の西門の前にいるのではないかと思った。だから、ぼくは、うちには帰らないで、西門の前に行ってみることにした。やはり思っていたとおりだった。言葉が話せない障害者のお年寄りのそばに寄り添うようにして、アーヤーが立っていた。お年寄りの前にある新聞は、もうほとんど売り切れてしまっていた。たくさんの人たちが新聞を買い求めて、西門の前から、だんだん遠ざかっていく姿も見えた。お年寄りは地面にひざまずいて売上額を数えていた。
(お年寄りを手伝って新聞を売ってあげたのは、アーヤーだろうか、それとも九官鳥だろうか)
ぼくはそう思いながら見ていた。
ぼくに気がついて、アーヤーが近づいてきた。
「アーヤー、おまえが手伝ったのか」
ぼくが聞くと、アーヤーがうなずいた。
「そうよ。わたしよ。うまくいったわ」
アーヤーが、にこやかな顔でそう答えた。
「あの木の上に隠れて、売り声を出していたの。たくさんの人が買いに来て、買っていったわ。でも誰もわたしには気がつかなかったわ。お年寄りが木の上にテープレコーダーを隠していて、そのテープレコーダーから音が鳴っていると思っているようだった」
アーヤーがそう言った。
「よかったな。よくやったよ。おまえは本当に偉いよ」
ぼくはアーヤーをほめた。アーヤーが立派なことを成し遂げたことを知って、父親として誇らしく思った。でもそれと同時に恥ずかしくもなった。今朝早く、お酒を飲み過ぎて、目を覚ますのが遅れてしまい、アーヤーが実際に売っているところを見そびれてしまったからだ。
「こめんよ、アーヤー、遅れてごめん……」
ぼくは、ひたすらアーヤーに謝った。
「お父さん、お酒臭いわ。飲み過ぎて酔っぱらっているのでしょう」
アーヤーが、ぼくに体をぐっと近づけて、鼻でにおいをかいでいた。
「実を言うと、そうなのだ。おまえのことがうれしくてたまらなくなって、ワインをたくさん飲んだから」
ぼくは正直に、そう話した。アーヤーはうなずいた。
「お父さんはお酒に酔っただけではなくて、わたしが成し遂げたことにも感動して酔ったのだから、許してあげるわ」
アーヤーがそう言った。

