天気……黄砂はすべて消えた。冬には珍しいほどのきれいな青空が広がっている。この冬一番ではないかと思われるほどの明るい陽射しが、さんさんと降り注いでいる。
今日、ぼくとアーヤーは日がまだ暮れないうちから、病院に行くことにした。今朝早く病院から帰るときに、ぼくもアーヤーも、依依のお母さんが意識を取り戻すのは時間の問題だと思ったので、その瞬間を見逃したくないと思ったからだ。午前中、いつものように翠湖公園の西門の前で障害者の新聞売りを手伝い、新聞を全部売り上げたのを確認してから、うちへ帰り、昼ご飯を食べるとすぐ、ぼくもアーヤーも急いで病院へ行った。
病院に着いて、依依のお母さんがいる三〇七号室の病室に入ると、部屋のなかから鉄砲ユリのかぐわしいにおいが、これまで以上に強く漂ってきた。もうすでに、つぼみが開いていて、花がきれいに咲いていた。黄金色に輝いているめしべとおしべも、はっきりと見えていた。これを見て、ぼくもアーヤーも依依のお母さんが意識を取り戻すのが、もうすぐそこまで来ているという予感をさらに強く抱いた。
ぼくとアーヤーは窓の下の台板に跳びあがり、厚いカーテンの後ろに身を隠して、依依が来るのを待っていた。
時計台の鐘が鳴って、五時になった。時間が過ぎるのが、今日はいつも以上に遅く感じられる。依依のお母さんが意識を取り戻すのを、今か、今かと思って、さっきからずっと待っているからだろうか。
それからまもなくしてから、依依が部屋に入ってきた。いつものように、お母さんのベッドの横で
「お母さん、来たわよ」
と、優しい声で呼びかけていた。
依依はそのあとお母さんの顔を、まじまじと見ながら、びっくりしたような声で
「あれっ、お母さん、泣いていたの?」
と言った。お母さんのほおに涙が流れた跡があることに、依依は気がついた。依依のお母さんは、昨日の夜、アーヤーが『鲁冰花(ルピナス)の花』を歌ったときに、涙を流したが、あのときの涙の跡が、ほおにまだ残っていたのだろうかと、ぼくは思った。
それからまもなく、二人の医者が回診のために部屋のなかに入ってきた。男の医者と、女の医者だった。依依が
「先生、お母さんの顔を見てください。ほおに涙が流れた跡がついています」
と言った。
「えっ、本当か?」
男の医者は信じられないような顔をしながら、そう言うと、依依のお母さんのほおのあたりをじっと見ていた。
「あっ、確かに、これは涙の跡だ。今まで、こんなことはなかったのに……。いつ泣いたのだろう」
男の医者は合点がいかないような顔をしていた。
依依も小首をかしげていた。
「わたしにもよく分かりません。昨日の夕方、ここを出るときには、お母さんのほおに涙の跡はありませんでした」
依依は男の医者に、そう答えていた。
「じゃあ、夜中に涙を流したということになるな」
男の医者が依依にそう言った。
依依はうなずいた。
「でも夜中に、お母さんに何かあったのでしょうか」
「さあ、どうだろう。ぼくにもよく分からない」
男の医者は、そう答えていた。
「理由は分からないが涙を流したということは、意識が戻りつつあることを意味するよ。依依、喜びなさい。お母さんは、もしかしたら、まもなく目を覚ますかもしれないよ」
男の医者が、明るい声で、依依に、そう言った。それを聞いて、依依の顔も明るくなった。男の医者はそのあと、女の医者に
「もし、この患者が意識を回復してくれたら、植物人間をよみがえらせるためには、医学療法のほかに、心理療法も有効なことが証明されたことになるよ」
と、話していた。それを聞いて女の医者は、うなずいた。
「毎日、依依がここに来て、お母さんに話しかけたり、歌を歌ったりしているので、それが効果をあらわしてきたと言えるのではないでしょうか」
「そうかもしれないな」
男の医者が、そう答えていた。
「この患者さんは、どうして夜中に涙を流したのでしょうか。何もなくて涙を流すとは、到底考えられません。何かあったにちがいありません。何かに強い刺激を受けて、それが原因で涙を流したと言えないでしょうか」
女の医者が、男の医者に聞いていた。
「何か心当たりのようなことはないか」
「そうですね……、もしかしたら、看護師長が言っていたことは、本当だったのかもしれない」
と、女の医者が答えた。
「看護師長は何と言っていたのか」
男の医者が女の医者に聞き返した。
「最近、夜中に病室のなかから、依依が歌っている声が聞こえてくると話していました。びっくりして、この部屋に飛んできても、依依の姿はどこにもなかった。どこかに隠れているのではないかと思って、ベッドの下まで調べても、いなかったと話していました。依依に聞いても夜中は病院にいなかったと話していたので、不思議でたまらなかったそうです。それで看護師長は、聞こえたように思えたのは、自分の空耳だったのかもしれないと思うことにしたそうです。依依が毎日、ここに来て、『鲁冰花(ルピナス)の花』を歌っているので、この部屋のなかに、あの歌の余韻があふれていて、依依がいないときでも、耳に音として聞こえてくるような錯覚が生じているのではないかと、看護師長が話していました」
女の医者は、そのように答えていた。
「そうか。それは不思議な出来事だな。もし看護師長が聞いた不思議な音が、実際にこの部屋のなかに充満していて、誰もいない夜中にも聞こえたとすれば、その音が植物人間を目覚めさせるような強い刺激となりうる可能性があるのだろうか」
男の医者は、そう言った。
「さあ、どうなのでしょう」
女の医者は何ともいえないような顔をしていた。
「医者である以上、科学的な根拠に基づいて推論しなければならないのは分かっているが、世の中には科学だけでは解明できない不思議な現象も多々あるからな」
男の医者がそう言った。
女の医者が、そのあと依依の頭を、そっとなでてから
「依依、歌いなさい。お母さんがもう少しで意識を取り戻そうとしているよ」
と言った。
男の医者と女の医者は、それからまもなく、回診を終えて病室の入口のドアをそっと閉めてから、出ていった。
医者の姿がドアの向こうに消えたあと、依依は再び『鲁冰花(ルビナス)の花』を歌い始めた。歌声は、たゆたうように部屋のなかに流れていった。
♪
毎晩、母の言葉を思い出す
懐かしくて涙が出る
涙はルピナスの花のように
きらきらと輝きながら
ほおを伝わって流れる
夜空の星を見上げながら
母に語りかける
星は何も答えないが
降り注ぐ星の光に
母の愛を感じる
母の愛はルピナスの花のように
きらきらと輝いている
故郷の茶畑にルピナスの花が咲くころ
母とともに過ごした母の日
あー、あの日がとてもなつかしい
母の愛は永遠に輝き続け
永遠にわたしを見守り続ける
……
依依は心をこめて歌った。歌いながら依依は、お母さんの顔の表情をじっと見ていた。
お母さんのまつ毛が、かすかにぴくりと動くのが見て取れた。
「お母さん、聞こえますか。わたしの歌が聞こえますか。お母さん、覚えていますか。
お母さんがわたしに教えてくれた『鲁冰花(ルピナス)の花』です」
依依の顔は喜びにあふれていた。
「もう一度、歌うわ。聞いて」
依依はそう言うと、再び歌い始めた。
依依が歌っているとき、お母さんの目のなかに真珠のように、きらきら光る涙が浮かんでいた。涙は、ほおを伝わって静かに流れていき、真っ白い枕カバーの上に、ぽとりぽとりと落ちていた。
「お母さん、また泣いているの。どうして泣いているの」
依依は、そう言ってから、ポケットのなかから白いハンカチを取り出して、お母さんの涙をそっと拭いてあげていた。お母さんの目からは涙が、とめどもなく流れ続け、枕カバーをぐっしょり濡らしていた。
「お母さん、泣かないで」
依依の呼びかけを聞いたあと、お母さんのまつ毛が、再び、かすかに動くのが見て取れた。力をこめて目を開けようとしているようにも思えた。
「お母さん、目を開けて」
依依の再度の呼びかけに応えるように、お母さんのまつ毛がさらにぴくぴくと震えるように動いた。そしてしばらくしてから、ついにお母さんが目を、うっすらと開けた。
その瞬間、依依は喜びを抑えきれなくなり、声をあげて、わんわん泣きだした。
「お母さん、ありがとう。わたし、とてもうれしいわ。こんなにうれしかったことは、これまで一度もなかったわ」
依依はそう言って、涙に暮れていた。
お母さんは、それからまもなく、目をぱっちりと開けた。黒いひとみは星のようにきらきらと光っていて、とてもきれいだった。お母さんの目からは涙がぽろぽろと、ほおを伝わって静かに流れ続けていた。
(お母さんがついに目を覚ました)
そう思うと、ぼくもアーヤーもうれしくてたまらなかった。奇跡的な慶事が起きて、
その慶事に、うちのアーヤーが一役も二役も買ったことを思うと、ぼくは父親として、アーヤーのことがとても誇らしく思えてきた。クリスマスイブの日に、アーヤーが靴下のなかに、もっと人の役に立ちたいという願いを入れたことで、サンタクロースが、こんなに素敵なプレゼントをしてくださったのかと思うと、ぼくはサンタクロースに感謝したくてたまらない気持ちになった。歌い方をアーヤーに教えてくれた九官鳥にも「ありがとう」と、お礼を言いたくなった。
目をぱっちりと開けたお母さんは、いとおしそうに依依の顔をじっと見ていた。優しいまなざしで、依依を見つめるお母さんの顔には、母性愛があふれていた。
「お母さん、お母さん、よかった、本当によかった。もう九分九厘、だめかと思っていたけど、いちるの望みを捨てないでよかった」
依依はうれしさがこみあげてきて涙を浮かべていた。お母さんは声はまだ出せないでいたが、口元にうっすらと笑みを浮かべながら依依を慈母のようなまなざしで、じっと見ていた。お母さんの目からも涙がまだ、とめどもなく流れていた。
依依とお母さんは、死別の瀬戸際にまで追い詰められていたが、依依の一途な願いと、アーヤーの必死の努力と、歌の力で、瀬戸際で、踏みとどまり、奇跡的に意識を回復することができた。
このような生きるか死ぬかの瀬戸際を経験したものでないと悲喜こもごもの深い感情を、心から知ることができないと、ぼくは思っている。瀬戸際に立たされることは辛い経験ではあるが、このような経験は、これから生きていくうえにおいて、かけがえのないものとなり、心の豊かさと他者への思いやりを何よりも大切にする生き方ができるための基盤になると、ぼくはかたく信じている。
依依はベッドの横にあるテーブル台の上から鉢植えを手に取って、お母さんの顔の前に持ってきた。
「ほら、お母さん、見て。お母さんが大好きな鉄砲ユリよ。昨日までは、まだつぼみだったけど、お母さんの覚醒に合わせるように、花がきれいに咲いたわ。お母さんに、お祝いの気持ちを伝えているのだわ、きっと」
依依がそう言うと、お母さんは、口元にうっすらと笑みを浮かべて、鉄砲ユリをじっと見ていた。
「お母さんは知らないでしょうけど、新年を祝う鐘の音を聞きながら、わたしは、この部屋で、願い事を唱えたの。『花が咲いたときに、お母さんも目を覚ましますように』ってね。その願い事を神様が聞いてくださったのだわ」
依依の顔は明るく輝いていた。
「お母さん、花のにおいをかいで。とってもいいにおいがするわよ」
依依は、そう言って、鉄砲ユリの、かぐわしいかおりを、お母さんに、かがせようとしていた。鉄砲ユリのかぐわしいかおりは、部屋全体に広がっていって、まるでユリ園のなかにいるような甘やかな雰囲気が部屋のなかにあふれていた。
今日、ぼくとアーヤーは日がまだ暮れないうちから、病院に行くことにした。今朝早く病院から帰るときに、ぼくもアーヤーも、依依のお母さんが意識を取り戻すのは時間の問題だと思ったので、その瞬間を見逃したくないと思ったからだ。午前中、いつものように翠湖公園の西門の前で障害者の新聞売りを手伝い、新聞を全部売り上げたのを確認してから、うちへ帰り、昼ご飯を食べるとすぐ、ぼくもアーヤーも急いで病院へ行った。
病院に着いて、依依のお母さんがいる三〇七号室の病室に入ると、部屋のなかから鉄砲ユリのかぐわしいにおいが、これまで以上に強く漂ってきた。もうすでに、つぼみが開いていて、花がきれいに咲いていた。黄金色に輝いているめしべとおしべも、はっきりと見えていた。これを見て、ぼくもアーヤーも依依のお母さんが意識を取り戻すのが、もうすぐそこまで来ているという予感をさらに強く抱いた。
ぼくとアーヤーは窓の下の台板に跳びあがり、厚いカーテンの後ろに身を隠して、依依が来るのを待っていた。
時計台の鐘が鳴って、五時になった。時間が過ぎるのが、今日はいつも以上に遅く感じられる。依依のお母さんが意識を取り戻すのを、今か、今かと思って、さっきからずっと待っているからだろうか。
それからまもなくしてから、依依が部屋に入ってきた。いつものように、お母さんのベッドの横で
「お母さん、来たわよ」
と、優しい声で呼びかけていた。
依依はそのあとお母さんの顔を、まじまじと見ながら、びっくりしたような声で
「あれっ、お母さん、泣いていたの?」
と言った。お母さんのほおに涙が流れた跡があることに、依依は気がついた。依依のお母さんは、昨日の夜、アーヤーが『鲁冰花(ルピナス)の花』を歌ったときに、涙を流したが、あのときの涙の跡が、ほおにまだ残っていたのだろうかと、ぼくは思った。
それからまもなく、二人の医者が回診のために部屋のなかに入ってきた。男の医者と、女の医者だった。依依が
「先生、お母さんの顔を見てください。ほおに涙が流れた跡がついています」
と言った。
「えっ、本当か?」
男の医者は信じられないような顔をしながら、そう言うと、依依のお母さんのほおのあたりをじっと見ていた。
「あっ、確かに、これは涙の跡だ。今まで、こんなことはなかったのに……。いつ泣いたのだろう」
男の医者は合点がいかないような顔をしていた。
依依も小首をかしげていた。
「わたしにもよく分かりません。昨日の夕方、ここを出るときには、お母さんのほおに涙の跡はありませんでした」
依依は男の医者に、そう答えていた。
「じゃあ、夜中に涙を流したということになるな」
男の医者が依依にそう言った。
依依はうなずいた。
「でも夜中に、お母さんに何かあったのでしょうか」
「さあ、どうだろう。ぼくにもよく分からない」
男の医者は、そう答えていた。
「理由は分からないが涙を流したということは、意識が戻りつつあることを意味するよ。依依、喜びなさい。お母さんは、もしかしたら、まもなく目を覚ますかもしれないよ」
男の医者が、明るい声で、依依に、そう言った。それを聞いて、依依の顔も明るくなった。男の医者はそのあと、女の医者に
「もし、この患者が意識を回復してくれたら、植物人間をよみがえらせるためには、医学療法のほかに、心理療法も有効なことが証明されたことになるよ」
と、話していた。それを聞いて女の医者は、うなずいた。
「毎日、依依がここに来て、お母さんに話しかけたり、歌を歌ったりしているので、それが効果をあらわしてきたと言えるのではないでしょうか」
「そうかもしれないな」
男の医者が、そう答えていた。
「この患者さんは、どうして夜中に涙を流したのでしょうか。何もなくて涙を流すとは、到底考えられません。何かあったにちがいありません。何かに強い刺激を受けて、それが原因で涙を流したと言えないでしょうか」
女の医者が、男の医者に聞いていた。
「何か心当たりのようなことはないか」
「そうですね……、もしかしたら、看護師長が言っていたことは、本当だったのかもしれない」
と、女の医者が答えた。
「看護師長は何と言っていたのか」
男の医者が女の医者に聞き返した。
「最近、夜中に病室のなかから、依依が歌っている声が聞こえてくると話していました。びっくりして、この部屋に飛んできても、依依の姿はどこにもなかった。どこかに隠れているのではないかと思って、ベッドの下まで調べても、いなかったと話していました。依依に聞いても夜中は病院にいなかったと話していたので、不思議でたまらなかったそうです。それで看護師長は、聞こえたように思えたのは、自分の空耳だったのかもしれないと思うことにしたそうです。依依が毎日、ここに来て、『鲁冰花(ルピナス)の花』を歌っているので、この部屋のなかに、あの歌の余韻があふれていて、依依がいないときでも、耳に音として聞こえてくるような錯覚が生じているのではないかと、看護師長が話していました」
女の医者は、そのように答えていた。
「そうか。それは不思議な出来事だな。もし看護師長が聞いた不思議な音が、実際にこの部屋のなかに充満していて、誰もいない夜中にも聞こえたとすれば、その音が植物人間を目覚めさせるような強い刺激となりうる可能性があるのだろうか」
男の医者は、そう言った。
「さあ、どうなのでしょう」
女の医者は何ともいえないような顔をしていた。
「医者である以上、科学的な根拠に基づいて推論しなければならないのは分かっているが、世の中には科学だけでは解明できない不思議な現象も多々あるからな」
男の医者がそう言った。
女の医者が、そのあと依依の頭を、そっとなでてから
「依依、歌いなさい。お母さんがもう少しで意識を取り戻そうとしているよ」
と言った。
男の医者と女の医者は、それからまもなく、回診を終えて病室の入口のドアをそっと閉めてから、出ていった。
医者の姿がドアの向こうに消えたあと、依依は再び『鲁冰花(ルビナス)の花』を歌い始めた。歌声は、たゆたうように部屋のなかに流れていった。
♪
毎晩、母の言葉を思い出す
懐かしくて涙が出る
涙はルピナスの花のように
きらきらと輝きながら
ほおを伝わって流れる
夜空の星を見上げながら
母に語りかける
星は何も答えないが
降り注ぐ星の光に
母の愛を感じる
母の愛はルピナスの花のように
きらきらと輝いている
故郷の茶畑にルピナスの花が咲くころ
母とともに過ごした母の日
あー、あの日がとてもなつかしい
母の愛は永遠に輝き続け
永遠にわたしを見守り続ける
……
依依は心をこめて歌った。歌いながら依依は、お母さんの顔の表情をじっと見ていた。
お母さんのまつ毛が、かすかにぴくりと動くのが見て取れた。
「お母さん、聞こえますか。わたしの歌が聞こえますか。お母さん、覚えていますか。
お母さんがわたしに教えてくれた『鲁冰花(ルピナス)の花』です」
依依の顔は喜びにあふれていた。
「もう一度、歌うわ。聞いて」
依依はそう言うと、再び歌い始めた。
依依が歌っているとき、お母さんの目のなかに真珠のように、きらきら光る涙が浮かんでいた。涙は、ほおを伝わって静かに流れていき、真っ白い枕カバーの上に、ぽとりぽとりと落ちていた。
「お母さん、また泣いているの。どうして泣いているの」
依依は、そう言ってから、ポケットのなかから白いハンカチを取り出して、お母さんの涙をそっと拭いてあげていた。お母さんの目からは涙が、とめどもなく流れ続け、枕カバーをぐっしょり濡らしていた。
「お母さん、泣かないで」
依依の呼びかけを聞いたあと、お母さんのまつ毛が、再び、かすかに動くのが見て取れた。力をこめて目を開けようとしているようにも思えた。
「お母さん、目を開けて」
依依の再度の呼びかけに応えるように、お母さんのまつ毛がさらにぴくぴくと震えるように動いた。そしてしばらくしてから、ついにお母さんが目を、うっすらと開けた。
その瞬間、依依は喜びを抑えきれなくなり、声をあげて、わんわん泣きだした。
「お母さん、ありがとう。わたし、とてもうれしいわ。こんなにうれしかったことは、これまで一度もなかったわ」
依依はそう言って、涙に暮れていた。
お母さんは、それからまもなく、目をぱっちりと開けた。黒いひとみは星のようにきらきらと光っていて、とてもきれいだった。お母さんの目からは涙がぽろぽろと、ほおを伝わって静かに流れ続けていた。
(お母さんがついに目を覚ました)
そう思うと、ぼくもアーヤーもうれしくてたまらなかった。奇跡的な慶事が起きて、
その慶事に、うちのアーヤーが一役も二役も買ったことを思うと、ぼくは父親として、アーヤーのことがとても誇らしく思えてきた。クリスマスイブの日に、アーヤーが靴下のなかに、もっと人の役に立ちたいという願いを入れたことで、サンタクロースが、こんなに素敵なプレゼントをしてくださったのかと思うと、ぼくはサンタクロースに感謝したくてたまらない気持ちになった。歌い方をアーヤーに教えてくれた九官鳥にも「ありがとう」と、お礼を言いたくなった。
目をぱっちりと開けたお母さんは、いとおしそうに依依の顔をじっと見ていた。優しいまなざしで、依依を見つめるお母さんの顔には、母性愛があふれていた。
「お母さん、お母さん、よかった、本当によかった。もう九分九厘、だめかと思っていたけど、いちるの望みを捨てないでよかった」
依依はうれしさがこみあげてきて涙を浮かべていた。お母さんは声はまだ出せないでいたが、口元にうっすらと笑みを浮かべながら依依を慈母のようなまなざしで、じっと見ていた。お母さんの目からも涙がまだ、とめどもなく流れていた。
依依とお母さんは、死別の瀬戸際にまで追い詰められていたが、依依の一途な願いと、アーヤーの必死の努力と、歌の力で、瀬戸際で、踏みとどまり、奇跡的に意識を回復することができた。
このような生きるか死ぬかの瀬戸際を経験したものでないと悲喜こもごもの深い感情を、心から知ることができないと、ぼくは思っている。瀬戸際に立たされることは辛い経験ではあるが、このような経験は、これから生きていくうえにおいて、かけがえのないものとなり、心の豊かさと他者への思いやりを何よりも大切にする生き方ができるための基盤になると、ぼくはかたく信じている。
依依はベッドの横にあるテーブル台の上から鉢植えを手に取って、お母さんの顔の前に持ってきた。
「ほら、お母さん、見て。お母さんが大好きな鉄砲ユリよ。昨日までは、まだつぼみだったけど、お母さんの覚醒に合わせるように、花がきれいに咲いたわ。お母さんに、お祝いの気持ちを伝えているのだわ、きっと」
依依がそう言うと、お母さんは、口元にうっすらと笑みを浮かべて、鉄砲ユリをじっと見ていた。
「お母さんは知らないでしょうけど、新年を祝う鐘の音を聞きながら、わたしは、この部屋で、願い事を唱えたの。『花が咲いたときに、お母さんも目を覚ましますように』ってね。その願い事を神様が聞いてくださったのだわ」
依依の顔は明るく輝いていた。
「お母さん、花のにおいをかいで。とってもいいにおいがするわよ」
依依は、そう言って、鉄砲ユリの、かぐわしいかおりを、お母さんに、かがせようとしていた。鉄砲ユリのかぐわしいかおりは、部屋全体に広がっていって、まるでユリ園のなかにいるような甘やかな雰囲気が部屋のなかにあふれていた。

