歌が歌える猫

天気……あたり一面に霧のようなものが立ち込めていて、視界がとても悪い。すべてがぼんやりとしか見えない。よく見ると霧ではなくて黄砂だった。風が強くて空気が乾燥しているときには、黄砂が強風に舞い上げられて空を覆う現象がよく見られる。健康にきわめてよくない。

昨夜も、ぼくとアーヤーは病院に行って、一晩中、依依のお母さんがいる部屋で過ごした。アーヤーはベッドの上で懸命に歌い、ぼくは部屋の入口に立って見張り番を務めた。
夜が明けて、うちへ帰ろうと思って、病院の裏門を出たとき、あたり一面が黄色がかっていて、前がまったく見えなかった。ぼくもアーヤーもびっくりした。あたかも出口のない迷路のなかに迷い込んだように、ぼくは思った。街路樹や、大通りの両側に建ち並んでいるアパートや、道を歩く人たちの姿もみんな、かすんで見えた。
「霧がとても濃いね」
アーヤーは、あたり一面をきょろきょろ見ながら、ぼくにそう言った。
「そうだね。空気が冷えているときには霧がよく発生するのだ」
ぼくはそう答えた。
「でも、今日の霧は、わたしがこれまで見たことがある霧とはちがっているわ」
アーヤーが、けげんそうな顔をしていた。
「どうちがうのだ」
ぼくは聞き返した。
「わたしがこれまで見たことのある霧は白くて、ミルクのような色をしていた。でも今日の霧は黄色がかっている」
アーヤーがそう答えた。それを聞いて、ぼくはアーヤーの観察力の鋭さに感心した。
「確かに、そう言われれば、そうだな。今日の霧は、にごっている」
ぼくはそう答えた。
アーヤーはそのあと、鼻をくんくんさせながら、霧のにおいをかいでいた。
「あっ、やはり、においも違う。以前見た霧は何もにおわなかったけれど、今日の霧は、のどに、つんと来る」
アーヤーがそう言ったので、ぼくも霧のにおいをかいでみた。確かに、のどに、つんと来るものがあった。アーヤーの感覚の鋭敏さに、ぼくは感心した。
「これは霧ではない。黄砂だ。黄砂が舞い上がって空気中に混じっているのだ」
ぼくは気がついたので、アーヤーに、そう教えてやった。
「黄砂?」
「うん、そうだ。黄色い砂だ。黄砂には有害な物質がたくさん含まれているので、吸うとのどを痛める。体にもよくない」
ぼくはそう答えた。
道を歩いている人たちの多くがマスクをしているのに、ぼくは気がついた。初めは
風邪をひいてマスクをかけているのだとばかり思っていた。でも風邪ではなくて、黄砂に含まれている有害な物質を吸って、のどを痛めないようにマスクをしているのだと、ぼくは、しばらくしてから気がついた。
のどと言えば、アーヤーは今、のどを使う仕事をしているので、アーヤーがのどを痛めないように、アーヤーの、のどを守ってあげなければならない。ぼくはそう思った。
(マスクを手に入れるための方法は何かないだろうか)
そう思いながら道を歩いていると、道端のゴミ箱のなかに子ども用の小さいマスクが一つ捨ててあるのが目に入った。「ラッキー」とばかりに、そのマスクを拾って、ぼくはアーヤーにかけさせた。猫がマスクをしているのを見て、すれ違う人たちがみんな奇異な目でアーヤーを見ていた。面白かったのか、スマートフォンで写真に撮る人もいた。でも、ぼくはアーヤーに気にしないように言った。
ぼくとアーヤーが翠湖公園に戻ってくると、公園の入口の付近で、九官鳥に会った。
「やあ、笑い猫、待ってたぞ」
九官鳥が木の上からぼくに声をかけた。
「どうしたのですか、こんなに早く。何かあったのですか」
ぼくはあいさつも、そこそこに、九官鳥に聞いた。
「べつに、たいしたことがあったわけではないが、最近、アーヤーがうちへ来ないので、どうしたのかと思って」
九官鳥がそう答えた。
「どうもしないですよ。元気にしています」
ぼくが、そう言うと、九官鳥が
「そうか、それはよかった」
と言って、アーヤーのほうを見た。アーヤーがマスクをしているのを見て、九官鳥が、けげんそうな顔をした。
「元気だと、おまえは言ったが、アーヤーはマスクをしているではないか。風邪でもひいたのか」
九官鳥が聞いた。
「風邪ではないですよ。今日は天気が悪くて、大気中に黄砂が混じっているから、有害な物質を吸って、のどを痛めないようにマスクをしているのです」
ぼくはそう答えた。
「そうか、そういうわけだったのか。のどを痛めて、声が出なくなったら、アーヤーは仕事ができなくなってしまうからな。いい心がけだ」
九官鳥がそう言った。
「のどと言えば、おれも、のどを大切にしなければ声真似ができないし、アーヤーに教えることもできなくなる。のどを守るための何かよい方法を知っていたら、教えてくれないか。おれにはマスクはできないから、それ以外の方法で何かよい方法を思いつかないか」
九官鳥が聞いた。急にそう聞かれても、すぐにはよい方法を思いつかなかった。
「考えてみます」
ぼくはそう答えた。
「そうか、でも、まあ、のどのことは、おれはあまり気にしていないから、どうでもいいよ。それよりも、おれが今、一番気にしていることは、アーヤーが最近、うちへ来なくなったことだ。どうして、うちへ来なくなったのだ。もう、おれのことを師として仰がなくなったのか。それとも、もう、歌い方を学びたくないようになったのか」
九官鳥が真剣な顔をして、ぼくに聞いた。ぼくは首を横に振った。
「ちがいます。アーヤーが来なくなったのは、忙し過ぎて練習に行く時間が、なかなか取れなくなったからです。朝は公園の西門の前で障害者を手伝って新聞を売り、昼はうちでしばらく休んで、夜になると、病院へ行って一晩中、歌っています。あなたのことは、ずっと尊敬しています。なかなか行く時間が取れなくて申し訳ないと言っています」
ぼくは、そう答えた。
「そうか。それなら、まあいいよ。でも歌い方のテクニックについて、まだ全部教えたわけではないのに、アーヤーはどうやって歌っているのだ」
九官鳥が、けげんそうな顔をしていた。
「心で歌っています」
ぼくは、そう答えた。
「ふん、心か」
九官鳥が、小ばかにしたような声で、そう言った。
九官鳥はアーヤーに
「もうおまえは、歌い方のテクニックについて、おれから学びたいとは思わないのか」
と、聞いていた。
九官鳥が言ったことを、ぼくはアーヤーに伝えた。
「そんなことないわ。もっと上手に歌えるようになったら、それに越したことはないわ」
アーヤーが言ったことを、ぼくは九官鳥に伝えた。
「そうか。それなら、これからすぐ練習を始めよう」
九官鳥がそう言った。それを聞いて、ぼくは首を横に振った。
「いえ、今はだめです。黄砂が、こんなに強いですから、こんな日に口を大きく開けて発声練習をしたら、有害な物資が口や鼻から入ってきます」
ぼくは、きっぱりと、そう言った。
「ふん、偉そうな口をききやがって。おれの呼びかけに応じられないと言うのか」
九官鳥が怒ったので、ぼくは仕方なく、九官鳥の呼びかけに応じないわけにはいかなかった。
それからまもなく、ぼくは九官鳥とアーヤーを連れて、公園のなかの梅林に行った。ここは空気がきれいで、梅の花のかおりがあたり一面に漂っているところなので、練習するとすれば、ここしかないと、ぼくは思ったからだ。梅林に着くと、九官鳥が
「まず、おれが、おまえたちに歌って聞かせよう」
と言って、歌い始めた。

毎晩、母の言葉を思い出す
懐かしくて涙が出る
涙はルピナスの花のように
きらきらと輝きながら
ほおを伝わって流れる
夜空の星を見上げながら
母に語りかける
星は何も答えないが
降り注ぐ星の光に
母の愛を感じる
母の愛はルピナスの花のように
きらきらと輝いている
故郷の茶畑にルピナスの花が咲くころ
母とともに過ごした母の日
あー、あの日がとてもなつかしい
母の愛は永遠に輝き続け
永遠にわたしを見守り続ける
……
九官鳥の歌声は節回しがとてもきれいで、鈴を転がすように耳に心地よかった。まさに完璧としか言いようがなかった。歌詞も旋律も正しく理解していて、完全に自分のものにしていた。聞いていて不自然なところは少しもなくて、普通の人が、ここまで上手に歌えるだろうかと思えるほどのレベルに達していた。非の打ちどころがないテクニックの高さに、ぼくは、あらためて九官鳥の才能のすばらしさを思わざるを得なかった。しかしそうは思っても、九官鳥の歌を聞いて、ぼくはあまり感動することはなかった。テクニックに頼って歌っているだけで、感情をこめて歌っているようには、あまり思えなかったからだ。
歌を歌い終わると、九官鳥はアーヤーに
「今度はおまえの番だ。歌ってみろ。ちょっと聞いただけで、おまえがいかに下手くそかすぐ分かる」
と、言って、小ばかにしたような目で、アーヤーを見た。アーヤーが歌う前から、下手だと決めつけている高慢な態度が、ぼくは気に入らなかった。九官鳥が言ったことを、ぼくはアーヤーに伝えた。するとアーヤーは言われたとおりに殊勝に歌い出した。でもアーヤーは、歌い方のテクニックをまだ十分に習得していなかったし、それに毎晩、夜が明けるまで一晩中歌っているので、のどがかれて声の状態がよくなかった。アーヤーの歌を聞いて、九官鳥がひどく不愉快そうな顔をした。
「何だ、その声は。それが歌か。雑音じゃないか。テクニックも何も、まるっきりない。もうおまえに、これ以上、教えても無駄だ。教えたくない」
九官鳥は、憤慨して、そう言うと、どこかに飛んで行った。
九官鳥が言ったことを、アーヤーに伝えるべきかどうか、ぼくは迷った。でも正直に伝えた。するとアーヤーは気落ちして、悲しそうに、下をうつむいた。
「大丈夫だよ。あまり気にすることはない。歌が下手なのではなくて、疲れすぎて声が
うまく出なかっただけだから」
ぼくはそう言って、アーヤーを慰めるよりほかなかった。
それからまもなく、ぼくとアーヤーは梅林を出て、うちへ帰ろうとした。するとそのとき、向こうから老いらくさんがやってくるのが見えた。それに気がついて、ぼくはアーヤーに急いで回り道をさせて、老いらくさんと出会うのを避けさせた。老いらくさんにネズミのにおいを感じて、本能的に飛びかかろうとするかもしれないからだ。ぼくはアーヤーにうちへ帰って、朝ご飯を食べるように言った。朝ご飯を食べてから西門に行って、障害者の新聞売りを手伝うという仕事があるので、アーヤーは、ぼくの言いつけに素直に従って回り道を通って帰っていった。
「やあ、笑い猫、元気か」
老いらくさんが、ぼくに声をかけた。老いらくさんは口に大きなマスクをしていた。
老いらくさんは健康にとても気をつかっているので、今日のように大気中に黄砂がたくさん含まれている日には、有害な微粒物資や病原菌が体内に入ってこないようにマスクをしている。どこから拾ってきたのか知らないが、ぼくと同じように、ゴミ箱のなかに捨ててあるものを見つけてきたのかもしれない。ぼくは、そう思った。
ぼくは老いらくさんと話をしたいと思ったので、再び梅林のほうに戻っていった。
「何て、ひどい天気なのだ」
老いらくさんは、黄砂でにごっている空を見上げながら、不愉快そうに、つぶやいた。梅林のなかに着くと、老いらくさんはマスクを外して、ふーっと、息をついた。梅林のなかは、梅の花の、いいにおいがするので、花のにおいをかいでリフレッシュしているように見えた。
「さっき、あの鳥はひどく怒っていたじゃないか、いったい何があったのだ」
老いらくさんが心配そうに聞いた。九官鳥が怒って、ぼくの近くから飛び立っていくところを、老いらくさんは見ていたらしい。
「九官鳥は気難しいところがあるので、自分が気に入らないところがあると、すぐに、
むっとなるところがあります」
ぼくはそう答えた。
「どういうことだ」
老いらくさんが聞き返してきた。
「九官鳥はアーヤーに多大な期待を寄せているし、歌を上手に歌うためにはテクニックが一番大切だと思っています。アーヤーにはテクニックがないので、いらいらして愛想を尽かして、それで怒っていたのです」
ぼくはそう答えた。
「そうか。それで怒っていたのか」
老いらくさんがうなずいた。
「九官鳥が言うことも、もっともだと思います。でも、ぼくは九官鳥の考え方には同意しません。歌を上手に歌うためには感情移入をすることが一番大切だと思っているから
です」
ぼくは、そう答えた。
「わしも、そう思う。いくらテクニックが完璧でも、それだけでは感動させることはできない」
老いらくさんがそう言った。
「そうですよね。心に伝わる歌声は、聞いたときに、心がぶるぶる震えるような感覚がありますよね。病院のなかで、アーヤーが歌う『鲁冰花(ルピナス)の花』を聞いたとき、ぼくは感動で満たされて震えがとまらなくなり、もう少しで体がどうにかなりそうでした」
ぼくはそう答えた。
「おまえは、植物人間に歌を聞かせることで、意識を回復させることができると、本当に思っているのか」
老いらくさんが、半信半疑の顔をしながら聞いた。
「もちろんですよ。そう思っています」
ぼくは真剣な表情でそう答えた。
「真心を持って歌を歌い、歌の力でぜったいに意識を回復させるという強い信念を持ち続けていれば、神様にそれが伝わり、ありえないような奇跡が起きるかもしれないと思っているのです」
ぼくは、きっぱりと、そう言った。