歌が歌える猫

天気……今日は二十四節気の一つ、小寒。これから大寒にかけて、一年のうちで一番寒い時季に入る。

今日の夜、アーヤーは依依のお母さんが入院している病院に行って、『鲁冰花(ルピナス)の花』を歌うことにしていた。朝から、アーヤーはとても緊張していた。緊張を少しでも和らげることができればと思って、ぼくもついていくことにした。
「お父さん、わたしの歌声は依依の歌声と似ていると思いますか」
アーヤーは何度も、ぼくにそう聞いた。
「おまえの歌声は九官鳥の歌声よりももっといい」
ぼくはアーヤーにそう言った。
「そんなことはありえないでしょう。九官鳥はわたしの先生ですよ。わたしが『鲁冰花(ルピナス)の花』を歌えるようになったのは、九官鳥のおかげだから』
アーヤーは、そう言って、ぼくが言ったことを信用していなかった。
アーヤーが言うことは、もっともだと思った。アーヤーが歌えるようになったことに対する九官鳥の功績はとても大きい。九官鳥がいなかったら、アーヤーはまちがいなく歌えなかったはずだ。九官鳥が手取り足取りしながら、懇切丁寧に指導してくれたから、アーヤーは少しずつ『鲁冰花(ルピナス)の花』を歌えるようになってきたのだ。九官鳥はアーヤーに正しい発音の仕方を教えてくれただけでなく、どのように歌ったら依依の声と似ているように聞こえるかも教えてくれた。歌い方のテクニックに関しては、九官鳥は非の打ちどころがないほどレベルの高いものを身につけているので、アーヤーは到底、足元にも及ばない。
「お父さんが、おまえの歌声は九官鳥の歌声よりももっといいと言っているのは、技術のレベルではない。歌に込めて歌っている思いのことだ。歌い方の技術では、おまえは到底、九官鳥にはかなわないが、歌で伝えたい思いは、おまえのほうが上だから、技術の不足を補って余るものがある。聞く人の心を動かすかどうかは、技術の高さではなくて、歌にどれほどの思いが込められているかによって決まる。それを思うと、おまえのほうが九官鳥よりも上だと言っているのだ」
ぼくはアーヤーにそう言った。
ぼくの話を聞いて、アーヤーはうなずいた。
「分かりました。これからも歌に思いを込めて歌っていきます」
アーヤーがそう答えた。アーヤーは頭がよい子なので、理解力が早い。
「依依がお母さんに歌って聞かせているときは、いつも思いを込めて歌っています。それを見て、わたしも歌に思いを込めて歌っています」
アーヤーがそう言った。
「そうか、おまえは九官鳥だけでなく、依依からも歌い方を学んでいたのか。それでおまえの歌を聞くと、お父さんは心を打たれて、涙が出そうになるのか」
ぼくはそう答えた。アーヤーはうなずいた。
「わたしが初めて、依依が歌っているのを聞いたとき、悲しくなって、カーテンの後ろで涙を浮かべていたわ。もし、ここに寝ている人が、依依のお母さんではなくて、わたしのお母さんだったとしたら、もしかしたら、わたしも、お母さんのいない子になってしまうかもしれない。そう思うと、悲しくて、悲しくて、たまらなかった。その悲しさを歌に込めて歌っているの」
アーヤーがそう答えた。
「そうか、その点が九官鳥とはちがっているところだな」
ぼくはそう答えた。九官鳥がどのようにして依依の歌を習得しようとしていたのかを、ぼくは以前、つぶさに観察していたことがある。九官鳥は部屋に設置してあるエアコンの後ろに隠れて首を左右に振ったり、翼を広げてリズムを取ったり、左右の耳を交互に傾けながら、依依の歌を聞いていた。歌詞やメロディーを細かに分析して、言葉や抑揚を頭のなかに覚えこもうとしていた。その真面目さや熱心さには心を打たれた。でも九官鳥は、ただひたすら歌詞とメロディーを正確に覚えることだけに専念していたので、依依が歌っているときに意識していた母への熱い思いは、ないがしろにしていた。
「おまえは、九官鳥とちがって、依依の心のなかに思いをはせている。そのために歌に込められている母への熱い思いを自分の思いに置き換えて歌っている。聞いていると、それがひしひしと伝わってくるので、感動を与える。その点が九官鳥とはちがっているところだ」
ぼくはアーヤーにそう答えた。
日が暮れて、あたりが暗くなってきたとき、アーヤーは病院に出かけた。ぼくも一緒にについていった。
ぼくとアーヤーは病棟の外にある木の上に登って、しばらく身を隠しながら、病棟のなかから依依が出てくるのを待っていた。依依が帰っていったのを見て、ぼくとアーヤーは木から降りて、病棟のなかに、こっそり入っていった。
ぼくとアーヤーが三〇七号室の部屋のドアのすきまから、なかに入ろうとしたとき、廊下に中年の看護師と若い看護師の姿が不意に見えた。それを見て、ぼくはアーヤーに
「早くなかに入って隠れよう」
と促した。
ぼくとアーヤーは急いで部屋のなかに入って、窓の下にある台板に飛び上がって、厚いカーテンの後ろに身を隠した。しかし、部屋に入るところを、ついに見られてしまった。
「あれっ、今、この部屋に猫が入らなかったですか、一匹か、二匹」
「確か、二匹いたような気がするわ」
「どこから来たのかしら。今、いないけど、どこに行ったのかしら」
中年の看護師と若い看護師は、そう言いながら、部屋のなかを、あちこち見回していた。
若い看護師が、カーテンをさっと開けたが、ぼくとアーヤーは、うまい具合に、カーテンの裏側に回り込むことができたので姿は見られずにすんだ。ぼくは気づかれないように息をとめた。心臓はドキドキしていた。
しばらくしてからカーテンがまた閉められた。
「おかしいわね。どこにもいないわ。わたしの見間違いだったのかしら」
若い看護師が、そう言っているのが聞こえた。
「そうね。ここには食べ物は何もないから、猫がこんなところに来るはずがないわ」
中年の看護師が、そう答えていた。
中年の看護師は、猫は食べ物のことだけしか考えていないと思っているようだった。
二人の看護師は依依のお母さんの体温や血圧や脈拍を測って数字をカルテに書き込んだり、そのほかの、いろいろな処置を終えてから、病室のなかを整理し始めた。
「依依がお正月にこの花を持ってきてから、もう何日にもなるのに、まだ咲かないわね。いつになったら咲くのかしら」
中年の看護師がそう言いながら、鉢植えの鉄砲ユリの水の交換をしていた。
「寒すぎるからユリの花は咲くことができないのよ。明日、依依に言って、ほかの花と交換させましょうか」
若い看護師が、そう言うのが聞こえた。それを聞いて、ぼくは
(だめだよ。絶対に換えさせない。この花は依依のお母さんが一番好きな花なのだから)
と、心のなかで思った。
二人の看護師は、それからまもなく、部屋の電気を消してから病室を出ていった。それを見て、ぼくとアーヤーはカーテンの後ろから出てきた。ぼくはアーヤーをベッドの上に上がらせ、ぼくは部屋の入口のあたりに立って、誰か近づいてくる人がいないかどうか警戒に当たった。
アーヤーは依依のお母さんの耳元に顔を近づけて、『鲁冰花(ルピナス)の花』を歌い始めた。

毎晩、母の言葉を思い出す
懐かしくて涙が出る
涙はルピナスの花のように
きらきらと輝きながら
ほおを伝わって流れる
夜空の星を見上げながら
母に語りかける
星は何も答えないが
降り注ぐ星の光に
母の愛を感じる
母の愛はルピナスの花のように
きらきらと輝いている
故郷の茶畑にルピナスの花が咲くころ
母とともに過ごした母の日
あー、あの日がとてもなつかしい
母の愛は永遠に輝き続け
永遠にわたしを見守り続ける
……
ぼくは目をつむって、アーヤーの歌に耳を傾けていた。心のこもったアーヤーの歌に、ぼくはすっかり酔いしれていた。アーヤーは歌えば歌うほど、心に感じるものがますます強くなってきて、感極まって目から涙があふれてきて、もうそれ以上は歌えないほどになっていた。
それからまもなく、部屋の外から足音が近づいてくるのが聞こえた。
「アーヤー、誰か来るぞ。早く隠れろ」
ぼくはそう叫んでから、急いで窓の下の台板に飛び上がって、カーテンの後ろにさっと
隠れた。ところが、アーヤーは完全に歌の世界に身も心もどっぷりと浸り込んでいたので、ぼくの喚起も外から近づいてくる足音も、まったく耳に入っていなかった。ぼくがカーテンの後ろに隠れたことにも、少しも気がつかないでいた。
それからまもなく中年の看護師と若い看護師が三〇七号室に入ってきた。そのときようやくアーヤーは人の姿に気がついて、歌うのをやめて、ぼくがいるカーテンの後ろに隠れようとした。でも間に合わなかった。アーヤーは、とっさに依依のお母さんが寝ているふとんのなかに、もぐりこんだ。
その一瞬あとに、部屋の電気のスイッチが押されて、部屋全体がぱっと明るくなった。
まさに間一髪のところだった。
「依依、どこにいるの。歌っているのが聞こえたけど」
部屋のなかに依依の姿がどこにも見えなかったので、中年の看護師がびっくりしたような声で、そう言っていた。
「わたしにも、はっきりと聞こえたわ。確かに依依が歌っている『鲁冰花(ルピナス)の花』だったわ」
若い看護師が、そう答えていた。
「そうね、その歌だった。でも、おかしいわね。依依の姿がどこにもないじゃない」
中年の看護師が、けげんそうな顔をしていた。
「まさか、空耳だったわけじゃないわよね」
若い看護師が、小首をかしげていた。
「空耳なんて、そんなこと、絶対にありえない」
中年の看護師が強く否定していた。
二人の看護師は、依依がどこかに隠れているのではないかと思って、部屋のなかを、あちこち見回していた。ベッドの下まで調べていた。カーテンの裏まで調べられるのではないかと思って、ぼくはドキドキしていたが、幸い調べられずにすんだので、ぼくは、ほっとした。アーヤーが隠れている布団をめくられて、アーヤーが見つかるのではないかと思ったが、幸い、布団をめくられずにすんだので、それもよかった。まさに危機一髪のところだった。
「依依がどこにもいないところを見ると、やはりさっき聞こえていた歌は、幻聴だったとしか思わざるを得ないのでしょうか」
若い看護師が、自分に納得させるように中年の看護師に聞いていた。
「うーん。どうなのでしょう。そうは思いたくないけど、そう思わないといけないのかなあ」
中年の看護師はそう答えて、不思議な出来事に合理的な理由を見い出そうとしていた。中年の看護師はしばらく考えてから次のように言った。
「依依が毎日ここに来て、あの歌を歌っているので、この部屋のなかには、あの歌の余韻があふれていて、そのために依依がいないときでも、わたしたちの耳に聞こえてくるような錯覚が生じているのではないのかなあ」
中年の看護師は、自分を納得させようとしていた。
「そうかもしれないわね。いい歌を聞いたあとには、いつまでも、その歌が心に残っていて、歌い手の声が聞こえてくることがあるからね」
若い看護師がそう答えていた。
それからまもなく、二人の看護師は部屋の電気を消して、病室から出て行った。二人が出ていったあと、ぼくはカーテンの後ろから出てきた。アーヤーも布団のなかから出てきた。ぼくもアーヤーも、すんでのところで見つかりそうになったが、無事に危機を乗り越えることができたので、安堵の胸をなでおろしていた。
アーヤーは再び、依依のお母さんのベッドの上に上がって『鲁冰花(ルビナス)の花』を歌い始めた。
夜が明けて、東の空が白み始めたころ、ぼくとアーヤーは病室を出て、うちへ帰ることにした。病室を出る前に、ぼくは依依のお母さんの顔をちらっと見た。お母さんの顔は、童話のなかに出てくる眠れる森の美女の顔のように、とてもきれいだった。