天気……強い風が吹いたあと、空はとても澄みわたり、大気中に不純なものは少しも含まれていなかった。日が暮れると、星がきらきらまたたいていた。明るい星が二つ並んで光っていて、聖母マリアの慈悲深い目のように、ぼくたちを優しく見ているように思えた。
昨日、病院に行ったとき、ぼくとアーヤーは、依依がお母さんに話しかける声を聞いただけでなく、悲しげで美しい歌も聞いた。あの歌を聞いたとき、ぼくは、サンタクロースがアーヤーにどのようなチャンスを与えようとしているのか、少し分かってきたように思えた。今日、もう一度病院に行って確かめたら、もっとはっきり分かる。ぼくはそう思った。
ぼくとアーヤーは午後、病院へ行った。依依も午後、お母さんの病室にまたやってきた。ぼくとアーヤーは、昨日と同じように、窓にかけてある厚いカーテンの後ろに隠れて、こっそりと様子をうかがっていた。
「お母さん、来たわよ」
依依はそう言って、お母さんの顔を、心配そうに、のぞきこんでいた。
依依のほおはリンゴのように赤く、ひたいには汗が光っていた。背中にランドセルを背負っていて、息をはあはあ弾ませていた。
「学校が終わると、すぐに学校を出て、ここまでずっと走ってきたわ。お母さんに早く会いたかったから。お母さん、わたしの声が聞こえますか。聞こえたら、目を開けて、わたしを見て」
依依はそう言って、自分の顔をお母さんの顔にぴったりくっつけた。
お母さんはそれでもぴくりとも反応しなかった。
依依は今度はお母さんの耳元に口を寄せて、昨日歌った歌を再び歌い始めた。
♪
毎晩、母の言葉を思い出す
懐かしくて涙が出る
涙はルピナスの花のように
きらきらと輝きながら
ほおを伝わって流れる
夜空の星を見上げながら
母に語りかける
星は何も答えないが
降り注ぐ星の光に
母の愛を感じる
母の愛はルピナスの花のように
きらきらと輝いている
故郷の茶畑にルピナスの花が咲くころ
母とともに過ごした母の日
あー、あの日がとても懐かしい
母の愛は永遠に輝き続け
永遠にわたしを見守り続ける
……
昨日と同じように、依依は何度も何度も繰り返して、この歌を歌っていた。依依の歌を聞いていると、ぼくとアーヤーの目から涙が、ぽろぽろとあふれてきた。
それからまもなく日が暮れて、外が暗くなってきた。六時を過ぎたころ、看護師が二人、部屋のなかに入ってきた。一人は中年の看護師。もう一人は若い看護師だった。
看護師は、依依のお母さんの体温や脈拍や血圧を測定してから、依依に
「もうそろそろ帰る時間よ。早くおうちへ帰りなさい」
「明日も学校があるでしょう。宿題はもうすんだの」
と言って、うちへ帰るように促していた。
「もう三か月以上にもなるのに、お母さんはどうしてまだ意識が戻らないの」
依依が看護師に聞いていた。
「お母さんは今は、まだ、こんこんと眠っているけど、いつかきっと依依の歌がお母さんの心を揺り動かして、目を覚ますときが来るわ」
「そうよ、きっと目を覚ますときが来るわよ。あきらめてはだめよ」
看護師がそう言った。
「分かったわ。じゃあ、また明日来るわ」
依依はそう言ってから、お母さんとの別れを名残惜しむような顔をしながら、病室を出ていった。
「看護師長、この患者さんはどうして植物人間になったのですか」
若い看護師が、中年の看護師に聞いていた。
「交通事故です」
中年の看護師が低い声でつぶやくように答えていた。
「親子三人で車に乗っているときに事故に遭って、お父さんは病院に搬送されてくる途中で亡くなりました。お母さんは子どもをかばったので子どもは無事だったのですが、お母さんは、こうなってしまいました」
中年の看護師は悲しそうな顔をしていた。
「そうだったのですか。それはかわいそうに……」
若い看護師が重いため息をついていた。
「まさに母性愛の鏡ですね」
若い看護師が中年の看護師にそう言った。
「そうですね。自分を犠牲にしてまでも、いとしい子どもを守ったお母さんの愛はとても崇高だと思います。お母さんのおかげで助かった依依も、とても立派な子どもです。学校がひけると、毎日ここにやってきて、お母さんに話しかけたり、お母さんが教えてくれた『鲁冰花(ルピナス)の花』を、何度も何度も歌って聞かせて、お母さんを目覚めさせようとしています」
中年の看護師が、若い看護師に、そう説明していた。
「そうだったのですか。お母さんも子どももとても偉いですね」
若い看護師はそう言って目を赤くしていた。
「意識を失っている人に対する治療法のなかに心理療法というのがあって、家族による語りかけも、そのなかの一つです。依依はそれを実践するために、毎日ここに来ているのよ」
中年の看護師が、若い看護師に、そう言った。
「心理療法について聞いたことがあります。心の悩みや障害を、薬物に頼らずに、対話、暗示、催眠などの心理的な方法を用いて取り除く治療法ですよね。家族による語りかけも、そのなかの一つなのですね」
若い看護師が、そう答えていた。
「そうよ。この病院では心理療法にも力を入れているから」
中年の看護師が、そう答えていた。
「でも、家族による語りかけの効果は、本当にあるのかしら」
若い看護師が疑問を呈していた。
「分からないわ。依依は三か月以上も、毎日ここに来て、お母さんに話しかけたり、歌を歌って聞かせているけど、今のところはまだ何の効果も見られない」
中年の看護師がそう答えていた。
「依依は学校があるので、ここにいられるのは、一日のうち、せいぜい三時間ぐらい。本当はもっと長い時間、家族による語りかけをしなければ、効果は、なかなか出てこないと、ドクターが話していたわ」
中年の看護師がそう言うと、若い看護師がうなずいていた。
それからまもなく看護師は部屋を出ていった。それを見て、ぼくとアーヤーは隠れていたカーテンの後ろから姿を現わして、依依のお母さんをちらっと見てから、急いで病室を出た。病院の裏門から外へ出ると、すっかり夜のとばりが降りていて、あたりは真っ暗だった。冬の夜道はとても寒くて、体がぶるぶる震えるほど骨身にしみた。
「お父さん、依依はどうしていつも同じ歌を何度も何度も、繰り返して歌っているの」
アーヤーが歩きながら、ぼくに聞いた。
「依依がその歌を歌うのは、その歌に特別な思いがあるからだよ」
ぼくはそう答えた。
アーヤーは合点がいかないような顔をしていた。
「どんな思いがあるの」
アーヤーが聞き返してきた。
「その歌はお母さんが依依に教えてくれた歌だし、歌のなかに、お母さんに対する思いがたくさんこめられているからだよ」
ぼくはそう答えた。アーヤーは、うなずいた。
「依依はその歌をお母さんに何度も聞かせて、お母さんの意識をよみがえらそうとしているのだ」
ぼくが、そう言うと、アーヤーは合点がいったような顔をしていた。
「でも、お父さん、依依のお母さんは、どうして目を覚まさないの」
アーヤーがけげんそうな顔をしていた。
「交通事故に遭ってひどいけがをしたからだよ」
ぼくはそう答えた。アーヤーがうなずいた。
植物人間という言葉を、ぼくは老いらくさんから聞いたので、そのことを思い出した。
「生きてはいるものの、意識も知覚も活動能力もない人を植物人間というそうだ。依依のお母さんは植物人間になってしまったので、目を覚まさないのだ」
ぼくはアーヤーに、そう説明した。アーヤーは納得がいったような顔をしていた。植物人間のほかに、ぼくはもう一つ、心理療法についても、アーヤーに話した。先ほど、看護師が、そのことについて話していたからだ。
「意識を失って、こんこんと眠り続けている人の目を覚まさせる方法の一つに、心理療法というのがあって、家族による語りかけも、そのなかの一つだそうだ。さっき、看護師がそう話していた」
「心理療法ですか」
アーヤーが聞き返してきた。
「そう、心理療法だ。医学的な治療を施したり、薬を与えることによって治そうとするのではなくて、精神的な刺激を与えることによって、患者の回復を目指す治療法だそうだ。植物人間になってしまった人の家族が、毎日、病院に来て、耳元で優しく語りかけたり、聞き覚えのある歌を歌ってあげることによって、目を覚まさせようとするのも、心理療法の一つだそうだ」
「依依が毎日、病院に来て、お母さんに話しかけたり、歌を歌っているのは、そのためなのですね」
アーヤーが目からうろこが落ちたような顔をしていた。
「でも本当に、その方法に効果があるのですか。依依は毎日、病院に来て、お母さんに話しかけたり、歌ったりしているけれど、お母さんは意識が少しも戻らないじゃないですか」
アーヤーが疑問を投げかけた。
「看護師の話によると、心理療法による効果があるかどうかを見極めるためには、もう少し長い時間、家族が一緒にいる時間が必要だと言っていた。でも依依は昼間は学校に行かなければならないから、お母さんと一緒にいることができない。一日のうちに、せいぜい三時間ぐらいしか、一緒にいることができないから、効果が出るのが遅れているのかもしれないと話していた」
ぼくはアーヤーにそう答えた。
「じゃあ、依依が病室にいないときでも、依依の声が病室のなかでしたら、もしかしたら、依依のお母さんが意識を取り戻すのが、もっと早くなるかもしれないということになるのかなあ」
アーヤーがそう言った。
アーヤーはとても賢い子どもなので、洞察力がするどい。
「そりゃ、まあ、確かにそうかもしれないが……。でもアーヤー、おかしなことを言うのではない。依依が病室にいないときに、依依の声がするわけがないではないか」
ぼくはアーヤーの妄想を戒めた。
「そうだね。わたしも、そう思うわ。でも依依や、依依のお母さんと出会ったのも何かの縁だし、サンタクロースがわたしをここに連れてきたということは、わたしに何かチャンスを与えようとしているのではないかなあ。お父さんも言ったじゃない。サンタクロースはチャンスというプレゼントをわたしに与えるために、ここに連れてきたって」
「ああ、そういえば、確かにそう言ったね」
ぼくはクリスマスイブの日に、アーヤーが見た夢のことを思い出した。
「でもサンタクロースが、おまえに与えてくれたチャンスって何だろう。おまえにしかできないチャンスを与えて、おまえの願いである、もっと人の役に立ちたいという夢を実現するために、サンタクロースは、どんなチャンスをプレゼントしてくれたのだろう」
ぼくは考えをめぐらしたが、なかなか思いつかなかった。
アーヤーもしばらく考えていた。
「あっ、お父さん、分かった。もしかしたら、サンタクロースは、わたしが身につけた、人の声を話せる能力に目をつけたのではないかなあ」
アーヤーがそう言った。
ぼくはそれを聞いて、はっとした。
「そうだね。もしかしたら、そうかもしれない。人の声を話せる能力を生かして、新聞売りのお年寄りだけでなく、依依を助けて、依依のお母さんの覚醒のために力を貸してほしいと思って、サンタクロースは、そのチャンスを与えてくれたのではないかな。もし、そうだとすれば、いきなプレゼントだ」
ぼくはアーヤーに、そう答えた。
「そうだね。このめったにないチャンスを生かして、依依や,依依のお母さんを助けることができたら、もっと人の役に立ちたいという、わたしの願いがかなうわ。サンタクロースの期待に応えて、人の声の出し方をもっとたくさん覚えるわ」
アーヤーの顔が明るく輝いていた。
「依依が、お父さんだけでなく、お母さんまでも亡くしてしまったら、ぼくは依依がかわいそうでたまらない。おまえもそう思うだろう」
ぼくが聞くと、アーヤーがうなずいた。
「もちろんだわ。そんなことになったら、依依があまりにも、かわいそうすぎる。そうならないためにも、わたしにできる限りの努力をして依依を手伝って、依依のお母さんを目覚めさせるわ」
アーヤーのけなげな決意がぼくの胸を熱くした。
昨日、病院に行ったとき、ぼくとアーヤーは、依依がお母さんに話しかける声を聞いただけでなく、悲しげで美しい歌も聞いた。あの歌を聞いたとき、ぼくは、サンタクロースがアーヤーにどのようなチャンスを与えようとしているのか、少し分かってきたように思えた。今日、もう一度病院に行って確かめたら、もっとはっきり分かる。ぼくはそう思った。
ぼくとアーヤーは午後、病院へ行った。依依も午後、お母さんの病室にまたやってきた。ぼくとアーヤーは、昨日と同じように、窓にかけてある厚いカーテンの後ろに隠れて、こっそりと様子をうかがっていた。
「お母さん、来たわよ」
依依はそう言って、お母さんの顔を、心配そうに、のぞきこんでいた。
依依のほおはリンゴのように赤く、ひたいには汗が光っていた。背中にランドセルを背負っていて、息をはあはあ弾ませていた。
「学校が終わると、すぐに学校を出て、ここまでずっと走ってきたわ。お母さんに早く会いたかったから。お母さん、わたしの声が聞こえますか。聞こえたら、目を開けて、わたしを見て」
依依はそう言って、自分の顔をお母さんの顔にぴったりくっつけた。
お母さんはそれでもぴくりとも反応しなかった。
依依は今度はお母さんの耳元に口を寄せて、昨日歌った歌を再び歌い始めた。
♪
毎晩、母の言葉を思い出す
懐かしくて涙が出る
涙はルピナスの花のように
きらきらと輝きながら
ほおを伝わって流れる
夜空の星を見上げながら
母に語りかける
星は何も答えないが
降り注ぐ星の光に
母の愛を感じる
母の愛はルピナスの花のように
きらきらと輝いている
故郷の茶畑にルピナスの花が咲くころ
母とともに過ごした母の日
あー、あの日がとても懐かしい
母の愛は永遠に輝き続け
永遠にわたしを見守り続ける
……
昨日と同じように、依依は何度も何度も繰り返して、この歌を歌っていた。依依の歌を聞いていると、ぼくとアーヤーの目から涙が、ぽろぽろとあふれてきた。
それからまもなく日が暮れて、外が暗くなってきた。六時を過ぎたころ、看護師が二人、部屋のなかに入ってきた。一人は中年の看護師。もう一人は若い看護師だった。
看護師は、依依のお母さんの体温や脈拍や血圧を測定してから、依依に
「もうそろそろ帰る時間よ。早くおうちへ帰りなさい」
「明日も学校があるでしょう。宿題はもうすんだの」
と言って、うちへ帰るように促していた。
「もう三か月以上にもなるのに、お母さんはどうしてまだ意識が戻らないの」
依依が看護師に聞いていた。
「お母さんは今は、まだ、こんこんと眠っているけど、いつかきっと依依の歌がお母さんの心を揺り動かして、目を覚ますときが来るわ」
「そうよ、きっと目を覚ますときが来るわよ。あきらめてはだめよ」
看護師がそう言った。
「分かったわ。じゃあ、また明日来るわ」
依依はそう言ってから、お母さんとの別れを名残惜しむような顔をしながら、病室を出ていった。
「看護師長、この患者さんはどうして植物人間になったのですか」
若い看護師が、中年の看護師に聞いていた。
「交通事故です」
中年の看護師が低い声でつぶやくように答えていた。
「親子三人で車に乗っているときに事故に遭って、お父さんは病院に搬送されてくる途中で亡くなりました。お母さんは子どもをかばったので子どもは無事だったのですが、お母さんは、こうなってしまいました」
中年の看護師は悲しそうな顔をしていた。
「そうだったのですか。それはかわいそうに……」
若い看護師が重いため息をついていた。
「まさに母性愛の鏡ですね」
若い看護師が中年の看護師にそう言った。
「そうですね。自分を犠牲にしてまでも、いとしい子どもを守ったお母さんの愛はとても崇高だと思います。お母さんのおかげで助かった依依も、とても立派な子どもです。学校がひけると、毎日ここにやってきて、お母さんに話しかけたり、お母さんが教えてくれた『鲁冰花(ルピナス)の花』を、何度も何度も歌って聞かせて、お母さんを目覚めさせようとしています」
中年の看護師が、若い看護師に、そう説明していた。
「そうだったのですか。お母さんも子どももとても偉いですね」
若い看護師はそう言って目を赤くしていた。
「意識を失っている人に対する治療法のなかに心理療法というのがあって、家族による語りかけも、そのなかの一つです。依依はそれを実践するために、毎日ここに来ているのよ」
中年の看護師が、若い看護師に、そう言った。
「心理療法について聞いたことがあります。心の悩みや障害を、薬物に頼らずに、対話、暗示、催眠などの心理的な方法を用いて取り除く治療法ですよね。家族による語りかけも、そのなかの一つなのですね」
若い看護師が、そう答えていた。
「そうよ。この病院では心理療法にも力を入れているから」
中年の看護師が、そう答えていた。
「でも、家族による語りかけの効果は、本当にあるのかしら」
若い看護師が疑問を呈していた。
「分からないわ。依依は三か月以上も、毎日ここに来て、お母さんに話しかけたり、歌を歌って聞かせているけど、今のところはまだ何の効果も見られない」
中年の看護師がそう答えていた。
「依依は学校があるので、ここにいられるのは、一日のうち、せいぜい三時間ぐらい。本当はもっと長い時間、家族による語りかけをしなければ、効果は、なかなか出てこないと、ドクターが話していたわ」
中年の看護師がそう言うと、若い看護師がうなずいていた。
それからまもなく看護師は部屋を出ていった。それを見て、ぼくとアーヤーは隠れていたカーテンの後ろから姿を現わして、依依のお母さんをちらっと見てから、急いで病室を出た。病院の裏門から外へ出ると、すっかり夜のとばりが降りていて、あたりは真っ暗だった。冬の夜道はとても寒くて、体がぶるぶる震えるほど骨身にしみた。
「お父さん、依依はどうしていつも同じ歌を何度も何度も、繰り返して歌っているの」
アーヤーが歩きながら、ぼくに聞いた。
「依依がその歌を歌うのは、その歌に特別な思いがあるからだよ」
ぼくはそう答えた。
アーヤーは合点がいかないような顔をしていた。
「どんな思いがあるの」
アーヤーが聞き返してきた。
「その歌はお母さんが依依に教えてくれた歌だし、歌のなかに、お母さんに対する思いがたくさんこめられているからだよ」
ぼくはそう答えた。アーヤーは、うなずいた。
「依依はその歌をお母さんに何度も聞かせて、お母さんの意識をよみがえらそうとしているのだ」
ぼくが、そう言うと、アーヤーは合点がいったような顔をしていた。
「でも、お父さん、依依のお母さんは、どうして目を覚まさないの」
アーヤーがけげんそうな顔をしていた。
「交通事故に遭ってひどいけがをしたからだよ」
ぼくはそう答えた。アーヤーがうなずいた。
植物人間という言葉を、ぼくは老いらくさんから聞いたので、そのことを思い出した。
「生きてはいるものの、意識も知覚も活動能力もない人を植物人間というそうだ。依依のお母さんは植物人間になってしまったので、目を覚まさないのだ」
ぼくはアーヤーに、そう説明した。アーヤーは納得がいったような顔をしていた。植物人間のほかに、ぼくはもう一つ、心理療法についても、アーヤーに話した。先ほど、看護師が、そのことについて話していたからだ。
「意識を失って、こんこんと眠り続けている人の目を覚まさせる方法の一つに、心理療法というのがあって、家族による語りかけも、そのなかの一つだそうだ。さっき、看護師がそう話していた」
「心理療法ですか」
アーヤーが聞き返してきた。
「そう、心理療法だ。医学的な治療を施したり、薬を与えることによって治そうとするのではなくて、精神的な刺激を与えることによって、患者の回復を目指す治療法だそうだ。植物人間になってしまった人の家族が、毎日、病院に来て、耳元で優しく語りかけたり、聞き覚えのある歌を歌ってあげることによって、目を覚まさせようとするのも、心理療法の一つだそうだ」
「依依が毎日、病院に来て、お母さんに話しかけたり、歌を歌っているのは、そのためなのですね」
アーヤーが目からうろこが落ちたような顔をしていた。
「でも本当に、その方法に効果があるのですか。依依は毎日、病院に来て、お母さんに話しかけたり、歌ったりしているけれど、お母さんは意識が少しも戻らないじゃないですか」
アーヤーが疑問を投げかけた。
「看護師の話によると、心理療法による効果があるかどうかを見極めるためには、もう少し長い時間、家族が一緒にいる時間が必要だと言っていた。でも依依は昼間は学校に行かなければならないから、お母さんと一緒にいることができない。一日のうちに、せいぜい三時間ぐらいしか、一緒にいることができないから、効果が出るのが遅れているのかもしれないと話していた」
ぼくはアーヤーにそう答えた。
「じゃあ、依依が病室にいないときでも、依依の声が病室のなかでしたら、もしかしたら、依依のお母さんが意識を取り戻すのが、もっと早くなるかもしれないということになるのかなあ」
アーヤーがそう言った。
アーヤーはとても賢い子どもなので、洞察力がするどい。
「そりゃ、まあ、確かにそうかもしれないが……。でもアーヤー、おかしなことを言うのではない。依依が病室にいないときに、依依の声がするわけがないではないか」
ぼくはアーヤーの妄想を戒めた。
「そうだね。わたしも、そう思うわ。でも依依や、依依のお母さんと出会ったのも何かの縁だし、サンタクロースがわたしをここに連れてきたということは、わたしに何かチャンスを与えようとしているのではないかなあ。お父さんも言ったじゃない。サンタクロースはチャンスというプレゼントをわたしに与えるために、ここに連れてきたって」
「ああ、そういえば、確かにそう言ったね」
ぼくはクリスマスイブの日に、アーヤーが見た夢のことを思い出した。
「でもサンタクロースが、おまえに与えてくれたチャンスって何だろう。おまえにしかできないチャンスを与えて、おまえの願いである、もっと人の役に立ちたいという夢を実現するために、サンタクロースは、どんなチャンスをプレゼントしてくれたのだろう」
ぼくは考えをめぐらしたが、なかなか思いつかなかった。
アーヤーもしばらく考えていた。
「あっ、お父さん、分かった。もしかしたら、サンタクロースは、わたしが身につけた、人の声を話せる能力に目をつけたのではないかなあ」
アーヤーがそう言った。
ぼくはそれを聞いて、はっとした。
「そうだね。もしかしたら、そうかもしれない。人の声を話せる能力を生かして、新聞売りのお年寄りだけでなく、依依を助けて、依依のお母さんの覚醒のために力を貸してほしいと思って、サンタクロースは、そのチャンスを与えてくれたのではないかな。もし、そうだとすれば、いきなプレゼントだ」
ぼくはアーヤーに、そう答えた。
「そうだね。このめったにないチャンスを生かして、依依や,依依のお母さんを助けることができたら、もっと人の役に立ちたいという、わたしの願いがかなうわ。サンタクロースの期待に応えて、人の声の出し方をもっとたくさん覚えるわ」
アーヤーの顔が明るく輝いていた。
「依依が、お父さんだけでなく、お母さんまでも亡くしてしまったら、ぼくは依依がかわいそうでたまらない。おまえもそう思うだろう」
ぼくが聞くと、アーヤーがうなずいた。
「もちろんだわ。そんなことになったら、依依があまりにも、かわいそうすぎる。そうならないためにも、わたしにできる限りの努力をして依依を手伝って、依依のお母さんを目覚めさせるわ」
アーヤーのけなげな決意がぼくの胸を熱くした。

