天気……冷たい北風が再び吹いてきて、気温は氷点下に下がった。夜になると、もっと冷え込むと天気予報では言っている。今日はとても寒い一日だ。冬将軍がやってきたようだ。
昨夜は、ぼくもアーヤーもなかなか眠れなくて、夜遅くまで起きていた。夜が更けてあたりが静まりかえったころ、ようやく、ぼくもアーヤーも少し眠気を催すようになった。アーヤーは目を開けたり閉じたりしながら、ぼーっとした顔で、クリスマスイブの日に見た夢のことを、思い出そうとしていた。アーヤーは、それからまもなく夢とうつつの間をさまよっているような、おぼつかない足取りで、うちを出て行った。ぼくもアーヤーのあとからついていった。アーヤーは翠湖公園を出て、町のほうに、ふらふらと入っていった。アーヤーの邪魔をしないように声はかけないで、ぼくは少し離れたところから、静かについていった。アーヤーはいくつかの大通りを抜けて、ある大きな病院の前まで来た。そして、足をとめた。
(ここがアーヤーの夢のなかに出てきた病院だったのか)
ぼくはそう思った。
病院の正面玄関のドアは施錠されていたので、なかに入れなかったが、急患用に二十四時間開けてあるドアが裏にあるので、アーヤーと、ぼくは、そこからなかに入っていった。
(夢のなかでも、サンタクロースとアーヤーは裏口から入っていったのだろうか)
ぼくはそう思った。病院のなかの電気はついていたが、ひっそりしていて、人影はなかった。ぼくとアーヤーは気づかれないように話はしないで静かに歩いていった。アーヤーが三階に上がっていったので、ぼくもついていった。病院のなかの廊下の電気は一晩中ついているが、すこしも明るさを感じない。病院のなかには死神が住んでいるように思えるからだろうか。ここは大きい病院なので死に瀕している重傷患者が特に多い。そのために、死神が毎日、出没しているように思える。ひとけが少ない夜間には、死神が幽霊のように、我が物顔で病院のなかを闊歩していて、その気配を感じるので、ぼくはこわくてたまらない。アーヤーはどうなのだろうか。アーヤーは動物病院以外にはまだ行ったことがないので、もしかしたら病院のこわさを知らないかもしれない。ぼくはそう思った。
アーヤーは三〇七号室の前で足をとめた。
「おまえが昨日見た夢のなかに出てきた部屋は、この部屋だったのか」
ぼくはアーヤーに声を抑えながら聞いた。するとアーヤーが、うなずいた。
「確か、この部屋だったと思う」
「そうか」
ぼくは少し緊張ぎみに、そう答えた。
「部屋のなかには、ベッドが一床あって、きれいな女の人が横たわっていた」
アーヤーは昨日、夢のなかに出てきた部屋のことを、もう一度話した。
入口のドアが少しだけ開いていたので、ぼくとアーヤーは、そのすき間から、なかにこっそり入っていった。するとアーヤーが言ったとおりに、部屋のなかにベッドが一床だけあって、ベッドのなかには、きれいな女の人が一人、横たわっていた。ほかに人は誰もいなかった。
ぼくとアーヤーはベッドの横にあるテーブル台の上に飛びのった。白い掛け布団をかけて寝ている女の人の顔が間近に見えた。
(なんてきれいな人なのだろう。眠れる美女とは、こんな人のことを言うのだろうか)
ぼくはそう思った。黒髪が、昆布のように乱れながら長く伸びていて、白い枕や掛け布団の上にかかっていた。顔は真珠のように白くて、皮膚はなめらかで、すべすべしていた。唇は赤いバラのようにあでやかで、眉毛は濃くて形が整っていた。
ぼくとアーヤーは、女の人をじっと見ていたが、女の人はぴくりとも動かなかった。
「もしかしたら、この人は死んでいるのではないの」
アーヤーが、いたわしそうな目で女の人を見ていた。
「そんなことはぜったいないよ。死んだ人をここに寝かせておくはずがないよ。死んだ人は霊安室に安置するよ」
ぼくはそう言った。アーヤーはうなずいた。
「お父さん、サンタクロースは、どうして、わたしをこの部屋に連れてきたのかしら」
アーヤーが聞いた。
「もしかしたら、この人はおまえの助けを必要としているのかもしれない」
ぼくがそう言うと、アーヤーが、けげんそうな顔をした。
「えっ、わたしの?」
ぼくは、うなずいた。
「わたしは医者じゃないのに、どうやって、この人を助けることができるのよ」
アーヤーは合点がいかない顔をした。
そのとき、廊下から、人が近づいてくる足音がした。
「あっ、誰か来た。早く隠れよう」
ぼくとアーヤーは、カーテンの陰に隠れた。部屋のなかに入ってきた人は、看護師だった。看護師は患者の様態に変化がないことを確認すると、部屋から出ていった。ぼくとアーヤーは幸い、見つからないですんだので、ほっとした。それからまもなく、ぼくとアーヤーは病室を出て、病院の裏口のドアから出て、うちへ帰っていった。夜が明けてから、もう一度、ここに来ることにした。
うちへ帰ってからしばらく休んでいると、空がだんだん明るくなってきた。朝ご飯を食べたあと、ぼくはアーヤーを公園の西門に行かせて、お年寄りの新聞売りを手伝わせた。ぼくも一緒についていって、少し離れたところからアーヤーを見守りながら、アーヤーに不測の事態が起きた場合に備えていた。
それからまもなく、老いらくさんが、ぼくの前に姿を現した。いつものように朝の散歩に来たのだ。
ぼくはすぐに老いらくさんに、昨夜のことを話した。
「そうか。その人は呼吸をしていたか。心臓は動いていたか」
老いらくさんが、女の人の様態について聞いてきた。
「分かりません」
ぼくは首を横に振った。
「そうか。その人が呼吸をしていたり、心臓が動いていたら、生きていることになる。でも寝ているときに、いびきをかかず、体がぴくりとも動かなかったら、もしかしたら、その人は意識をいつも失っていて、植物人間になっているのかもしれない」
老いらくさんが高い見識に基づいて、そう言った。
「植物人間?」
初めて聞く言葉だったので、ぼくは聞き返した。
「知らないのか?」
「知りません」
ぼくはそう答えた。
「じゃあ、教えてあげよう」
老いらくさんは、そう言って話を始めた。
「生きてはいるものの、意識も知覚も活動能力もない人がいる。それが植物人間だ」
老いらくさんがそう答えた。
「そうですか。そのような人もいるのですね。でも生きていくためには食べなければなりません。意識がなかったら食べることができないのに、どうやって生命を維持しているのですか」
ぼくは疑問に思って、聞き返した。
「その人のベッドの近くに、管が下がっている器具がなかったか」
老いらくさんが聞いた。
「ありました」
昨夜のことを思い出しながら、ぼくはそう答えた。
「医者がその管を通して、生命を維持していくための栄養を、その人の体のなかに入れているのだ」
老いらくさんが、そう説明した。
「なるほど、そういうわけだったのですか」
ぼくにはようやく合点がいった。
それからまもなく、アーヤーがこちらに近づいてくるのが見えた。老いらくさんは、それに気がついて、さっと、どこかへ消えて行った。アーヤーはネズミを見ると、本能的に飛びかかろうとするかもしれないからだ。
「お父さん、今日も新聞を全部売り上げることができたわ」
アーヤーが満足そうな顔で、そう言った。
「そうか。お疲れ様」
ぼくは、いつものように、アーヤーをねぎらってあげた。
「お父さん、これから、うちへ帰って昼ご飯を食べてから、あの病院に行くのだよね」
アーヤーが聞いてきた。
「そうだよ」
ぼくはうなずいた。
それからまもなく、ぼくとアーヤーは翠湖公園を出て、うちへ帰った。昼ご飯を食べて昼寝をしてから、病院へ向かった。
病院に着くと、診察室の前には、たくさんの人たちが椅子に座って、問診の順番を待っていた。でも入院病棟のなかは、ひっそりとしていた。ぼくとアーヤーは、首尾よく、誰にも見つからないで、三〇七号室の前まで行くことができた。ドアが少し開いていたので、すき間を通って、ぼくとアーヤーは部屋のなかに忍び込んだ。部屋のなかには、昨日と同じようにベッドが一つだけあって、ベッドに横たわっている女の人以外は誰もいなかった。
女の人は昨夜と同じように、目をかたく閉じたままで、ぴくりとも動かなかった。ぼくはそれを見て、老いらくさんが教えてくれた植物人間という言葉を思い出した。
「あっ、誰か来る」
アーヤーが、そう言った。
「えっ、本当か」
ぼくはびっくりして、耳を立てた。確かに、誰かが、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。ぼくとアーヤーは慌てて厚いカーテンの後ろに隠れて見つからないようにした。
部屋の入口のドアをそっと開けて、なかに入ってきたのは、医者や看護師ではなくて、小さな女の子だった。女の子は背中にランドセルを背負っていた。
「お母さん、来たわよ」
女の子は部屋に入ると、そう言った。女の子のほおは、リンゴのように赤かった。
「お母さん、依依が来たわよ」
女の子が、ベッドのそばに寄ってきて、横たわっている女の人の顔を、心配そうな目で見ていた。
(『依依』というのが、この女の子の名前だろうか)
ぼくはそう思った。
「お母さん、髪が乱れているから、わたしがすいてあげるわ」
依依はそう言うと、ベッドの横にあるテーブル台の引き出しのなかから、くしを取り出して、女の人の長い髪を、すき始めた。
「これまではお母さんが、いつも、わたしに髪を結ってくれたよね。ポニーテールや、おさげ髪に結ってくれた。今日は担任の童先生が、お姫様のような髪型に結ってくださったわ。どう、似合う?」
依依は、女の人の乱れた長い髪をすきながら、話しかけていた。
女の人は依然として、ぴくりとも動かなかった。顔の表情も無表情のままだった。
依依は女の人の髪をすき終わると、今度は引き出しのなかから口紅を取り出して、女の人の口にうっすらと塗った。女の人の顔はますますきれいになった。
「お母さん、わたしはいつも、お母さんのことを思っているわ。いつも、いつも思っているわ。はやく目を覚まして。お父さんは遠いところに行ってしまったけど、お母さんはぜったいに行かないで。わたしを置き去りにしないで」
依依はそう言いながら、涙をぽろぽろこぼしていた。
ぼくはそれを見て、いたわしくなった。
(ああ、なんてかわいそうな女の子なのだろう。お父さんを亡くして、お母さんまで亡くそうとしている)
ぼくはそう思うと、胸が張り裂けそうになった。
「わたしは悲しくてたまらないわ。でも泣いたら、お母さんが悲しむと思うから、もう泣かないことにするわ。お母さんが教えてくれた歌『鲁冰花(ルピナス)の花)』を歌ってあげるわ。聞いて」
依依はそう言うと、涙をぬぐってから、お母さんの耳元に顔を寄せて、心をこめて声を歌い始めた。
♪
毎晩、母の言葉を思い出す
懐かしくて涙が出る
涙はルピナスの花のように
きらきらと輝きながら
ほおを伝わって流れる
夜空の星を見上げながら
母に語りかける
星は何も答えないが
降り注ぐ星の光に
母の深い愛を感じる
母の愛はルピナスの花のように
きらきらと輝いている
故郷の茶畑にルピナスの花が咲くころ
母とともに過ごした母の日
あー、あの日がとても懐かしい
母の愛は永遠に輝き続け
永遠にわたしを見守り続ける
……
母への深い愛と感謝の気持ちがこめられたこの歌を、依依はお母さんの耳元で何度も何度も歌った。お母さんの愛唱歌だから、もしかしたらこの歌がお母さんの心の琴線に触れて、何か反応が起きるかもしれないと、依依は思っていたからだ。
でもお母さんは相変わらず静かにベッドに横たわって、目をつむったままで、表情には何の変化も見られなかった。死線をさまよっているように感じられた。依依が心をこめて歌った歌がお母さんの心に届いたのだろうか。ぼくはそう思った。
昨夜は、ぼくもアーヤーもなかなか眠れなくて、夜遅くまで起きていた。夜が更けてあたりが静まりかえったころ、ようやく、ぼくもアーヤーも少し眠気を催すようになった。アーヤーは目を開けたり閉じたりしながら、ぼーっとした顔で、クリスマスイブの日に見た夢のことを、思い出そうとしていた。アーヤーは、それからまもなく夢とうつつの間をさまよっているような、おぼつかない足取りで、うちを出て行った。ぼくもアーヤーのあとからついていった。アーヤーは翠湖公園を出て、町のほうに、ふらふらと入っていった。アーヤーの邪魔をしないように声はかけないで、ぼくは少し離れたところから、静かについていった。アーヤーはいくつかの大通りを抜けて、ある大きな病院の前まで来た。そして、足をとめた。
(ここがアーヤーの夢のなかに出てきた病院だったのか)
ぼくはそう思った。
病院の正面玄関のドアは施錠されていたので、なかに入れなかったが、急患用に二十四時間開けてあるドアが裏にあるので、アーヤーと、ぼくは、そこからなかに入っていった。
(夢のなかでも、サンタクロースとアーヤーは裏口から入っていったのだろうか)
ぼくはそう思った。病院のなかの電気はついていたが、ひっそりしていて、人影はなかった。ぼくとアーヤーは気づかれないように話はしないで静かに歩いていった。アーヤーが三階に上がっていったので、ぼくもついていった。病院のなかの廊下の電気は一晩中ついているが、すこしも明るさを感じない。病院のなかには死神が住んでいるように思えるからだろうか。ここは大きい病院なので死に瀕している重傷患者が特に多い。そのために、死神が毎日、出没しているように思える。ひとけが少ない夜間には、死神が幽霊のように、我が物顔で病院のなかを闊歩していて、その気配を感じるので、ぼくはこわくてたまらない。アーヤーはどうなのだろうか。アーヤーは動物病院以外にはまだ行ったことがないので、もしかしたら病院のこわさを知らないかもしれない。ぼくはそう思った。
アーヤーは三〇七号室の前で足をとめた。
「おまえが昨日見た夢のなかに出てきた部屋は、この部屋だったのか」
ぼくはアーヤーに声を抑えながら聞いた。するとアーヤーが、うなずいた。
「確か、この部屋だったと思う」
「そうか」
ぼくは少し緊張ぎみに、そう答えた。
「部屋のなかには、ベッドが一床あって、きれいな女の人が横たわっていた」
アーヤーは昨日、夢のなかに出てきた部屋のことを、もう一度話した。
入口のドアが少しだけ開いていたので、ぼくとアーヤーは、そのすき間から、なかにこっそり入っていった。するとアーヤーが言ったとおりに、部屋のなかにベッドが一床だけあって、ベッドのなかには、きれいな女の人が一人、横たわっていた。ほかに人は誰もいなかった。
ぼくとアーヤーはベッドの横にあるテーブル台の上に飛びのった。白い掛け布団をかけて寝ている女の人の顔が間近に見えた。
(なんてきれいな人なのだろう。眠れる美女とは、こんな人のことを言うのだろうか)
ぼくはそう思った。黒髪が、昆布のように乱れながら長く伸びていて、白い枕や掛け布団の上にかかっていた。顔は真珠のように白くて、皮膚はなめらかで、すべすべしていた。唇は赤いバラのようにあでやかで、眉毛は濃くて形が整っていた。
ぼくとアーヤーは、女の人をじっと見ていたが、女の人はぴくりとも動かなかった。
「もしかしたら、この人は死んでいるのではないの」
アーヤーが、いたわしそうな目で女の人を見ていた。
「そんなことはぜったいないよ。死んだ人をここに寝かせておくはずがないよ。死んだ人は霊安室に安置するよ」
ぼくはそう言った。アーヤーはうなずいた。
「お父さん、サンタクロースは、どうして、わたしをこの部屋に連れてきたのかしら」
アーヤーが聞いた。
「もしかしたら、この人はおまえの助けを必要としているのかもしれない」
ぼくがそう言うと、アーヤーが、けげんそうな顔をした。
「えっ、わたしの?」
ぼくは、うなずいた。
「わたしは医者じゃないのに、どうやって、この人を助けることができるのよ」
アーヤーは合点がいかない顔をした。
そのとき、廊下から、人が近づいてくる足音がした。
「あっ、誰か来た。早く隠れよう」
ぼくとアーヤーは、カーテンの陰に隠れた。部屋のなかに入ってきた人は、看護師だった。看護師は患者の様態に変化がないことを確認すると、部屋から出ていった。ぼくとアーヤーは幸い、見つからないですんだので、ほっとした。それからまもなく、ぼくとアーヤーは病室を出て、病院の裏口のドアから出て、うちへ帰っていった。夜が明けてから、もう一度、ここに来ることにした。
うちへ帰ってからしばらく休んでいると、空がだんだん明るくなってきた。朝ご飯を食べたあと、ぼくはアーヤーを公園の西門に行かせて、お年寄りの新聞売りを手伝わせた。ぼくも一緒についていって、少し離れたところからアーヤーを見守りながら、アーヤーに不測の事態が起きた場合に備えていた。
それからまもなく、老いらくさんが、ぼくの前に姿を現した。いつものように朝の散歩に来たのだ。
ぼくはすぐに老いらくさんに、昨夜のことを話した。
「そうか。その人は呼吸をしていたか。心臓は動いていたか」
老いらくさんが、女の人の様態について聞いてきた。
「分かりません」
ぼくは首を横に振った。
「そうか。その人が呼吸をしていたり、心臓が動いていたら、生きていることになる。でも寝ているときに、いびきをかかず、体がぴくりとも動かなかったら、もしかしたら、その人は意識をいつも失っていて、植物人間になっているのかもしれない」
老いらくさんが高い見識に基づいて、そう言った。
「植物人間?」
初めて聞く言葉だったので、ぼくは聞き返した。
「知らないのか?」
「知りません」
ぼくはそう答えた。
「じゃあ、教えてあげよう」
老いらくさんは、そう言って話を始めた。
「生きてはいるものの、意識も知覚も活動能力もない人がいる。それが植物人間だ」
老いらくさんがそう答えた。
「そうですか。そのような人もいるのですね。でも生きていくためには食べなければなりません。意識がなかったら食べることができないのに、どうやって生命を維持しているのですか」
ぼくは疑問に思って、聞き返した。
「その人のベッドの近くに、管が下がっている器具がなかったか」
老いらくさんが聞いた。
「ありました」
昨夜のことを思い出しながら、ぼくはそう答えた。
「医者がその管を通して、生命を維持していくための栄養を、その人の体のなかに入れているのだ」
老いらくさんが、そう説明した。
「なるほど、そういうわけだったのですか」
ぼくにはようやく合点がいった。
それからまもなく、アーヤーがこちらに近づいてくるのが見えた。老いらくさんは、それに気がついて、さっと、どこかへ消えて行った。アーヤーはネズミを見ると、本能的に飛びかかろうとするかもしれないからだ。
「お父さん、今日も新聞を全部売り上げることができたわ」
アーヤーが満足そうな顔で、そう言った。
「そうか。お疲れ様」
ぼくは、いつものように、アーヤーをねぎらってあげた。
「お父さん、これから、うちへ帰って昼ご飯を食べてから、あの病院に行くのだよね」
アーヤーが聞いてきた。
「そうだよ」
ぼくはうなずいた。
それからまもなく、ぼくとアーヤーは翠湖公園を出て、うちへ帰った。昼ご飯を食べて昼寝をしてから、病院へ向かった。
病院に着くと、診察室の前には、たくさんの人たちが椅子に座って、問診の順番を待っていた。でも入院病棟のなかは、ひっそりとしていた。ぼくとアーヤーは、首尾よく、誰にも見つからないで、三〇七号室の前まで行くことができた。ドアが少し開いていたので、すき間を通って、ぼくとアーヤーは部屋のなかに忍び込んだ。部屋のなかには、昨日と同じようにベッドが一つだけあって、ベッドに横たわっている女の人以外は誰もいなかった。
女の人は昨夜と同じように、目をかたく閉じたままで、ぴくりとも動かなかった。ぼくはそれを見て、老いらくさんが教えてくれた植物人間という言葉を思い出した。
「あっ、誰か来る」
アーヤーが、そう言った。
「えっ、本当か」
ぼくはびっくりして、耳を立てた。確かに、誰かが、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。ぼくとアーヤーは慌てて厚いカーテンの後ろに隠れて見つからないようにした。
部屋の入口のドアをそっと開けて、なかに入ってきたのは、医者や看護師ではなくて、小さな女の子だった。女の子は背中にランドセルを背負っていた。
「お母さん、来たわよ」
女の子は部屋に入ると、そう言った。女の子のほおは、リンゴのように赤かった。
「お母さん、依依が来たわよ」
女の子が、ベッドのそばに寄ってきて、横たわっている女の人の顔を、心配そうな目で見ていた。
(『依依』というのが、この女の子の名前だろうか)
ぼくはそう思った。
「お母さん、髪が乱れているから、わたしがすいてあげるわ」
依依はそう言うと、ベッドの横にあるテーブル台の引き出しのなかから、くしを取り出して、女の人の長い髪を、すき始めた。
「これまではお母さんが、いつも、わたしに髪を結ってくれたよね。ポニーテールや、おさげ髪に結ってくれた。今日は担任の童先生が、お姫様のような髪型に結ってくださったわ。どう、似合う?」
依依は、女の人の乱れた長い髪をすきながら、話しかけていた。
女の人は依然として、ぴくりとも動かなかった。顔の表情も無表情のままだった。
依依は女の人の髪をすき終わると、今度は引き出しのなかから口紅を取り出して、女の人の口にうっすらと塗った。女の人の顔はますますきれいになった。
「お母さん、わたしはいつも、お母さんのことを思っているわ。いつも、いつも思っているわ。はやく目を覚まして。お父さんは遠いところに行ってしまったけど、お母さんはぜったいに行かないで。わたしを置き去りにしないで」
依依はそう言いながら、涙をぽろぽろこぼしていた。
ぼくはそれを見て、いたわしくなった。
(ああ、なんてかわいそうな女の子なのだろう。お父さんを亡くして、お母さんまで亡くそうとしている)
ぼくはそう思うと、胸が張り裂けそうになった。
「わたしは悲しくてたまらないわ。でも泣いたら、お母さんが悲しむと思うから、もう泣かないことにするわ。お母さんが教えてくれた歌『鲁冰花(ルピナス)の花)』を歌ってあげるわ。聞いて」
依依はそう言うと、涙をぬぐってから、お母さんの耳元に顔を寄せて、心をこめて声を歌い始めた。
♪
毎晩、母の言葉を思い出す
懐かしくて涙が出る
涙はルピナスの花のように
きらきらと輝きながら
ほおを伝わって流れる
夜空の星を見上げながら
母に語りかける
星は何も答えないが
降り注ぐ星の光に
母の深い愛を感じる
母の愛はルピナスの花のように
きらきらと輝いている
故郷の茶畑にルピナスの花が咲くころ
母とともに過ごした母の日
あー、あの日がとても懐かしい
母の愛は永遠に輝き続け
永遠にわたしを見守り続ける
……
母への深い愛と感謝の気持ちがこめられたこの歌を、依依はお母さんの耳元で何度も何度も歌った。お母さんの愛唱歌だから、もしかしたらこの歌がお母さんの心の琴線に触れて、何か反応が起きるかもしれないと、依依は思っていたからだ。
でもお母さんは相変わらず静かにベッドに横たわって、目をつむったままで、表情には何の変化も見られなかった。死線をさまよっているように感じられた。依依が心をこめて歌った歌がお母さんの心に届いたのだろうか。ぼくはそう思った。

