「ヘニング様」

 その日の夕方、私はヘニング様の部屋に再び訪れる。手には一輪のナルキッソス。ジュナに頼んで用意してもらったものだった。

「エレン、どうしたの? こんな時間に」
「この花を渡したくて、あの、昼間の事なのですが……」

 ナルキッソスを見つめたヘニング様は目を見開いた後に「屋敷の庭で話さない?」と誘われる。私は頷くと、ヘニング様と共に庭に向かったのであった。

 昨日、結婚式の後に始めて屋敷を訪れた時も思ったが、ヘニング様の屋敷は公爵位を持つ帝国貴族の中では小さい方だと思う。
 屋敷は必要最低限な部屋数だけを有しており、女主人や令嬢達が社交界で優位に立とうと、贅を尽くしてティーパーティーを開くはずの庭は小さく簡素なものであった。

 ジュナの話によると、これでも結婚が決まってから庭師が慌てて整えた方であり、ヘニング様が一人で暮らしていた頃はガゼボさえ無かったらしい。
 結婚式の日取りが決まり、これでは嫁いでくる女性――それも王族の末姫がショックで倒れてしまうと思い、ガゼボを建てて、庭を整え、帝国中のあちこちから季節の花々を取り寄せ、季節の花々が咲き誇る庭として整えたとの事であった。
 そんな庭に出て、ヘニング様に並んで歩きながら私は口を開く。

「あの、ヘニング様……昼間に話した夢の話です。実はあの話は夢ではなくて、私の前世なのです。信じていただけないかもしれませんが……」

 私は伺う様にヘニング様の顔を見る。私の話に特に驚いた様子もなければ、何かに気づいた様子もなかった。
 表情が変わるどころか眉一つ動かさず、ただ真っ直ぐに夕闇に暮れる庭を見つめていたのだった。

「私は前世でも姫でした。そして私の側にはいつも騎士見習いだった少年がいました。その少年を最初は兄の様に慕っていたんです」

 耳の奥からは前世の幼い私――ヘンリエッタの笑い声と、そんな私に付き添う腰に剣を下げた仏頂面の少年――グラナック卿の声が聞こえてくる。
 前世の幼い頃の私は大層な悪戯姫だった様で、侍女が干していたシーツに泥をつけ、立ち入り禁止と言われていた城の区画に足を踏み入れ、勝手に騎士団の詰め所に出入りしていたらしい。
 それに付き合い、時に諫めてくれたのは、まだ少年だったグラナック卿であった。

「ある時、その少年に庭に咲いていたナルキッソスをプレゼントしました。その花
 を選んだ理由は特に無かったのです。綺麗に咲いていたので、プレゼントしたら喜んでくれると思っただけで……。少年はいつも仏頂面で滅多に笑ってくれなかったから……」

 私は前世の――ヘンリエッタの記憶を思い出しながら話を続ける。

「ナルキッソスを渡した時、少年はとても嬉しそうに笑ってくれたのです。そしてその日からナルキッソスの香りを身に纏う様になりました。『これは姫様からいただいた花と同じ香りです』って言って。私はそれが嬉しかったのです。でもその話を両親にしたら、すごく驚かれました。
 驚いた意味が分からなくて花図鑑を調べたら、ナルキッソスの花言葉が原因だったのです。ナルキッソスには『報われない恋』という意味があります。
 両親が驚くのも当然です。これではまるで少年に『報われない恋』をしているも同然です――」

 そこまで話して、私は一度大きく息を吐く。ナルキッソスを持ってヘニング様の部屋を尋ねた時から、胸は激しく音を立て続けていた。
 もし自分の想像と違っていたらどうしようと不安になる。
 それでも前に進みたい。もしヘニング様がグラナック卿の生まれ変わりなら、自分の想いを打ち明けなければならない。
 もう前世の様な別れを経験したくないから。

「花言葉を知った日から、私はその少年を意識する様になりました。兄では無く、一人の異性として見るようになったのです。その想いは消える事なく、歳を重ねる事に大きくなりました。
 けれども、私達は結ばれませんでした。私達は主と従者の関係だったからです……」

 私はナルキッソスの一輪挿しを両手で握りしめる。
 もし主従の関係だからと我慢したり、決めつけたりしないで、グラナック卿と結婚したいと両親に話していたら、前世でのあの悲劇が起きずに済んだのだろうか。
 両親はグラナック卿を気に入っていた。きっと私がグラナック卿を選んでも否定はしなかっただろう。
 そうすれば、今もソウェル王国は存在しており、私達の子孫が国の統治者となっていたのだろうか。

「前世での私、ヘンリエッタとグラナック卿――エルンストは主従の関係でした。そしてエルンストは最期まで私の騎士でした。私と国を守ろうとした忠国の騎士、私の愛する自慢の騎士です。その方が私が心に決めている方です」

 私の頭の中では前世の幼い私がグラナック卿と共にソウェル王国の城の中を歩いていた。
 侍女や侍従達とすれ違う度に「お散歩ですか?」や「今日もエルンスト様と一緒なんですね!」と声を掛けられる。
 厨房に行けば乳母に内緒で料理長からお菓子を貰え、母が大切にしていた温室の花を勝手に摘み取っても、「困った姫様だ」と言って苦笑こそするものの庭師は怒らなかった。
 ソウェル王国の城で働く使用人達は皆優秀で優しい人達ばかりだった。
 両親やグラナック卿だけではなく、そんな使用人達も家族の様に大切に想っていたし、そんな彼らの主である私達も同じく善人であろうとした。

 対して、クィルズ帝国は主である貴族と使用人は明確に身分によって分かれており、距離があまりにも離れている。
 どこに行くにも数人の侍女を連れて行かねばならず、勝手に厨房に出入りし、庭の花を摘めば、それは料理人や庭師の責任になる。
 それもあって帝国では主人と使用人の間で、はっきりとした棲み分けがなされていた。
 それが時に寂しく感じられる時もあったのだった。

 話し終わった後もヘニング様は黙ったままだった。
 庭の石畳を歩く足は止まる事なく進み続け、私もヘニング様について庭を歩き続けた。広い庭ではないので、すぐに一周して屋敷の前に戻って来たが、ヘニング様は気づいているのかいないのか、また同じ道を歩き続けた。
 今世では成人するまで病弱だった事もあり、今でもあまり体力は無く、本当は長時間の運動は苦しかった。
 それでもヘニング様が何か話してくれるのでないかと、期待は膨らんだままだった。
 ナルキッソスの香水を贈ってきたという事は、私の正体に気づいているはずだから――。
 ヘニング様から離れる事が出来ず、私もその背に続いて同じ道を歩き続けたのであった。

 やがて空が紫色と黒色の中間色に染まり、一番星が輝き始めた頃、ヘニング様は口を開いたのであった。