「んっ……」

 明け方近くに目を覚ますと、隣には熟睡している楓さんの姿があった。カーテン越しに差し込む光の下で見る楓さんの寝顔は初めて出会った日に見た時よりも穏やかそうで、何よりもいつも以上に柔和な表情を浮かべていた。
 そっとベッドから降りると、足音を立てないようにしてベッドルームを後にする。
 お手洗いを借りて、バスルームの洗面台で手を洗っていると、備え付けの鏡に映る自分の姿に気づく。帰宅してすぐ氷で冷やしたからか、時間が経っても目は腫れる事は無く、あの後、シャワーを浴びた際に顔を洗っていたので、涙の跡さえ残っていなかった。
 頬に触れていると、鏡越しに左手の指輪が目立っている様な気がして、じっと自分の手を見つめる。右手の掌には楓さんに貼ってもらった絆創膏があるので、どちらの手からも楓さんを感じて不思議な気持ちになる。
 絆創膏が貼られた手で左手の指輪に触れていると、今日の楓さんの言葉が思い返される。
 楓さんに嫌われてなかったと安堵で胸が温かくなる反面――少しずつ、不安が募っていく。

(楓さんが私の裁判に責任を感じていたなんて――知らなかった)

 楓さんは私の裁判に敗訴した事で顔を合わせづらくなり、逃げる様にニューヨークに来たと言っていた。ニューヨークに来たものの、ずっと私の存在が気掛かりだったとも。
 知らず知らずのうちに、私の存在が楓さんを責めていた。私が呑気に笑っている間も、楓さんは苦しんでいた。
その事実に気づいてから、燃える様に熱かったはずの身体から熱が引いていき、やがてじわじわとした痛みが身体中を満たしていった。心なしか息苦しい様な気がして、こうしていつもより早い時間帯に起きてしまった。

(もし、これからまた同じ事が起こったら、また楓さんに迷惑を掛けちゃう。それだけは――絶対に嫌)

 日本に帰って、仕事を再開して、もしまた裁判になる様な事が起こったら、また楓さんを巻き込んでしまう。その裁判で敗訴したら、ますます楓さんを苦しめて、傷つけてしまう。
 これでは楓さんの役に立つどころじゃない。ただ楓さんの足を引っ張っているだけに過ぎない。
 楓さんはこれからも弁護士として活躍していくだろう。キャリアを積んで、テレビに出る様な有名人になるかもしれない。そんな楓さんにとって、迷惑を掛ける私の存在は――ただ邪魔になる。
 迷惑、邪魔、という単語と共に、かつてその言葉を言われ続けていた職場での日々を思い出して、息が荒くなる。何度か深呼吸を繰り返して、気持ちが落ち着いてくると、蛇口を捻る。

「楓さんの邪魔になりたくない。だって、楓さんの事が……!」

 好きだから、という呟きは蛇口から出てきた水と共に流れていく。
 初めて出会った橋の上、その後の二度目の飛び降りの時に泣いた時から、少しずつ想いは蓄積されていた。たとえすれ違っていても、楓さんを怖いと思っていても、楓さんを心底嫌いにはならなかった。初めて会った日、私を橋の上から地面に降ろして、私の代わりに上司に激昂してくれた優しさを知っていたから。
 そんな楓さんが私と離婚したいというのならどうにかして納得しようと思った。ただ許される事なら、最後に夫婦らしい事だけでもして、これまで楓さんが与えてくれた恩に対するお礼だけでもしたいと飛行機に乗った。
 けれども、このニューヨークで過ごした数日を得て、楓さんを慕う気持ちはますます募っていた。指輪を貰った時もこれまでの人生で一番嬉しかった。初めてデートをした日も。
 でも、そうやって楽観的に考えて、幸せに満たされている間も楓さんは苦しみ、傷ついていた。
 それに気づけなかった自分が許せなかった。