(……やっぱり、一日でいろいろ【にわか知識】をつめこんでも、そりゃ処理しきれるもんじゃないか……)

赤虎・茜の屋敷を後にする頃には、辺りはすっかり夕闇につつまれていた。

咲耶にこの世界の常識を教えるべく、茜は達筆な文字を書き連ね──現在それは、ハクコと咲耶の忠実な下僕(しもべ)・犬貴の小脇に抱えられた漆塗りの箱に、収められていた。

「また、いつでもいらっしゃいな。アタシも美穂も、大歓迎よ」

茜は、ときおり美穂に茶々を入れられ脱線しつつも、おおよそ咲耶の知りたいことは話し聞かせてくれた。
そして、情報量に処理が追いつかなくなりつつある咲耶に、
「細かいことは、ハクに訊いたらいいわ」
と、諭しもした。

「……咲耶様。大分お疲れのようですが……」

迎えに来た犬貴が心配し、咲耶を担いで帰ろうとしてくれたが、丁重に辞退した。
疲れているのは肉体でなく、平均的な処理能力しか持ち合わせていない、頭脳のほうなのだから。

(帰る、か……)

犬貴と歩いてきた道を、咲耶は【また】歩いている。わずかな残照に染まる道をたどるなか、ふと、美穂の言葉を思いだした。

「あんたさぁ、元の世界に帰る方法はないのかって、尋ねないの?」

帰りたくないといえば嘘になる。家路につくなか『こちら』に喚ばれたのだから。だがそれは、積極的な「戻りたい」という意思に、付随した気持ちではなかった。

「……不思議なんだけど、どうしても戻りたいっていう気には、ならないんだよね。あれかな、私ってばまだ違う世界にいるっていう実感がなくて、観光気分でいるのかも」

おどけて笑ってみせる咲耶に、美穂のほうも、どこか秘密めいた微笑みを浮かべた。

「だから、あたしもあんたも、喚ばれたのかもね」
『向こうの世界』に未練がない存在ってコトで──。
付け加えられたひとことに、咲耶はどきっとした。確かに自分には、『あちら』に未練がなかった。
仕事を無くし、結婚もしておらず子供も彼氏もいない。そんな咲耶と似通った状況だった友人も、すでに違う道に進もうとしていた。