香の匂いが鼻腔をくすぐった。軒先で、雨がはじかれるような音がする。
ぼやけた視界のまま、咲耶は、冷たく硬い感触のそこから頬を持ち上げた。

「──やはり、“神力(ちから)”を遣われたか」

当然のことを確認するかのような口調。安堵(あんど)にもとれる物言いだった。
反射的に身体を起こし、声の方向に目をやれば、不動明王像を背にした黒衣の男がいた。

「あなた……道幻!」

あまり大きくは感じられない、仏堂を思わせる造りの室内。
板の間に座禅を組むのは、咲耶たちの前から突如として消え去った壮年の男だ。

「やはりって……まさか本当に、椿ちゃんを利用したの?」

咲耶をここへ、()び寄せるために。
『再生』の“神力”を、遣わせるために。
そのためだけに椿を死に追いやったのだと、いまの道幻の言葉が証明した。

(なんなの……この男! なんなのよっ……!)

爪が食い込むほどに拳を握りしめ、咲耶はわなないた。あまりの怒りに、身体の震えが止まらない。

「『理不尽に命が奪われたのであれば助けたい』。それがぬしの答えであったな。
ならば、九分九厘“神力”を遣うだろうと、我は考えたのだ」
「何が、したいの!?」

怒りにまかせ、咲耶は前のめりに床板をどん、と、叩いた。言ってから、かろうじて冷静な咲耶の脳の一部が、的確に言い換える。

「私に……何を、させたいの」

答えが欲しいわけではなく、翻弄(ほんろう)され続ける自身の現状に、嫌気がさしての言葉だった。

──咲耶の行動の何がいけなかったのか。

椿は助けなければならなかった。いや、本音を言えば助けたかった。理不尽さを感じたかなど、関係ない。

権ノ介はどうだったか?
義憤にかられていたには違いない。助けなければと、心と身体が自然と動いていた。

虎次郎(こじろう)が連れてきた少女はどうだろう?
可哀そうだという憐憫(れんびん)の情から、気づいた時には頬に手が伸びていた──。

(いつも、自分の心の赴くままに“神力”を遣ってきた)