【短編集】闇に潜む影



隣の彼は、少し黙った後、


ゆっくりと、1つ1つ言葉を噛みしめるように喋り始めた。



「よく、辛いことがあったら逃げちゃダメだって言われるけど、


別に逃げたって良いと思うんだ」


穏やかなその表情に、何故か私は親しみを感じていた。


初めて会うのに、とても懐かしい旧友と喋っているような、


そんな感覚さえ、湧き上がってくる。


「逃げることだって、1つの解決方法だよ。


皆が皆、困難に立ち向かえるほど強くなんかないし。


・・・例えば、絶望的な状況になって、もう奇跡すら信じられない状況の人に、


逃げるなよ、頑張れなんて、・・・少なくとも、俺には言えない」


彼の紡ぐ言葉の1つ1つが、私の心にすとん、と音を立てて入ってくる。


そして、なぜかこの時だけは、全てが許されているような気がした。


何をしても、何を言っても。


ずっと隠していた何かを、表に出しても誰にも怒られないのではないかと、


心からそう思えた。


私は彼の瞳を見つめた。


夏の青空のように深く、


それでいて澄み切ったその瞳を見た瞬間に、


私は、正直になりたいと心から願った。


後にも先にも、知らない人に、こんなに自分のことを喋ることはきっと無い。


自分自身をさらけ出すということ。


それは、悲しくて惨めで、恥ずかしい過去をさらけ出すことと同じ。


自分の口で、自分の言葉で、


自分の過去を語ることは、私の心に、きっと更に深く傷をつくる。


それでも、正直になりたいという気持ちの方が、それに勝った。


だって、今更傷ついたところで、終わりの見える人生に、何も残りはしないのだから。