『本当の幸せであれば、二兎を追っても良いんだ』


野村が餞別の言葉として、港で言ってくれたそれが思い浮かんだ。


「僕は・・・」


彼がそう言いかけた瞬間、彼の腕に、温かい重みがあった。


この感覚。


いつか、2人きりで歩いた土手でも、覚えたそれが、


今もう一度、この腕にある。


もう2度と、感じることはないと思っていた。


この船に乗った時に、全てを手放したつもりだった。


それなのに、どうしてこんなに、


胸に熱いものがこみあげてくるのだろう。


彼の視界は、靄がかかっていて、よく見えていなかった。


愛おしい、


世界で1番愛おしい、愛する人の顔さえも。


手が震える。


緊張でも、怒りでも、恐怖でもなく。


喜びで、


彼の手が震えている。


「壮介さん」


その声は、罪だ。


彼は、我を忘れていた。


その言葉が自身の耳に届いた瞬間、


考えるより先に、


彼の手は、勝手に彼女の体を抱きよせていた。


「幸花さん」


ぎゅう、と彼女の体を、思い切り抱きしめた。


もう2度と離れないように。


決して、傍から離れないように。