迷宮の魂


 110番通報センターから連絡を受けた八王子署では、同時刻に警邏中の署員が保護した男性の件と関係しているとし、浪岡芳子の住むアパートに捜査員達を急行させた。

 その場で浪岡芳子から事情聴取すると、

「谷口という昔の知り合いを刺しました」

 と供述し、使用した包丁を捜査員に渡した。

 取り乱したところは微塵も無く、署へ同行を求めた際も、動揺の色は少しも見せなかった。

 任意同行で連行したが、この時点での容疑は殺人未遂だった。

 犯行現場で押収した包丁から、浪岡芳子の指紋が検出されたのと、着いていた血痕が被害者谷口敬三の血液型と一致した為、事情聴取中に緊急逮捕となった。

 この時、警察は重大なミスを犯していた。

 被害者を保護した際に、角田巡査長が聴き取った事件内容と、浪岡芳子の供述に食い違いがあるのを然程重要視しなかったのである。ただ、これも若干同情の余地があって、角田巡査長が被害者から状況を聴いていた際、怪我と出血でかなり動転していたのか、何度か意味不明な言葉を発していたらしく、詳しい事は病院で、という判断だったようだ。

 被害者である谷口が、男に刺されたと言ったのは、錯乱した為のものではないか。自ら110番通報した容疑者が居り、指紋も採取された。とにかく、詳しい事は被害者の意識が回復してからの事だと捜査に当たった誰もが思っていたが、その願いは空しい期待で終わってしまった。

 被害者谷口敬三は、病院に搬送された10時間後、死亡した。

 事件は殺人未遂から殺人事件へと変わり、捜査当局は改めて容疑者浪岡芳子を取調べる事とし、同時に事件現場のアパートを本格的に検証し始めた。

 室内に残された血痕を調べたところ、谷口敬三と浪岡芳子のものとは別の血液型の血痕が検出され、更には室内の各所から、前科登録のある人間の指紋が検出された。そこで、押収した凶器の包丁を再度精密鑑定に回したところ、拭い残された僅かな指紋が検出され、それが室内から採取されたものと同一であると判明した。