「沙希さん、VIPルームのお客様に着いて頂けますか」
沙希は芳子の源氏名。
ホール主任に促され、芳子はそれまで着いていた客に挨拶をし、VIPルームへ向かった。
開店時から指名客が続いたものだから、VIPルームに案内された客をはっきりと見ていなかった。
一人は何日か前にヘルプで着いた事のある客だとは判っていたが、一緒に来店した客の顔は見ていなかった。
黒服にエスコートされ、
「いらっしゃいませ。沙希といいます」
何時ものように挨拶をし、客達に笑顔をと思った瞬間、芳子は凍り付いたように押し黙ってしまった。
「なんや、芳子やないか」
谷口が目と鼻の先にいる。
既に何処かで飲んで来たのか、目は充血し、呂律が怪しい。
口許を歪め、下卑た笑みで芳子を見つめている。
「タニちゃん、彼女、知ってるの?」
「大阪時代にね。まあ、訳ありなんやけど」
「なんだ、そりゃお安くないじゃない」
呆然と立ち尽くしている芳子を見て、先に席に着いていたホステスが心配して声を掛けようとした。
「その顔、恥ずかしくも無く、よおうちの前に出せたな」
そう言うや否や、芳子は谷口の目の前にあったグラスを掴み、半分ばかり残っていた水割りをそのままぶっ掛けた。そして、振り返らずに控え室に戻り、帰り支度をした。
何事かと飛んで来たマネージャーに理由も告げず、
「すいません、今日でお店、上がります」
と言って、慌てるマネージャーを振り切り、店を後にした。
普段より早く帰って来た芳子を見て、和也は店で何かあったのかと聞いて来た。
芳子は一言も喋らない。余程の事があったのだろう。和也はそっとして置く事にした。
彼女は、着替えもせず、じっと膝を抱えたまま俯いていた。
それから暫くの間、芳子は部屋にこもり切りになり、四六時中、布団に包まったままの日々を過ごしていた。
そして、その日がやって来た。
あの男とともに……



