智恵美は暫くカウンターの椅子から立ち上がれなかった。
誰も居なくなった店内は急に寒々として来た。思わずぶるっと身震いし、現実に引き戻される。はあ、と溜め息にも似た息を吐く。
自分の中に女の部分がまだ残っていた。その事を和也のお陰で知った。
結婚して丁度10年、21歳で現在の夫である河村篤と一緒になった。以来、8歳と6歳になる二人の娘の母親として家庭を切り盛りし、妻としても、夫である篤を支え続けて来た。
結婚を決めた当初、周りから早過ぎないかと心配された事もあったが、此処までは大きな波風も立たずにやって来れた。
7歳年上の篤に、特に不満を感じた事は無い。結婚してから浮気の話も聞かないし、マイホームも建ててくれた。子供達の面倒も良く見てくれる。
広告代理店の営業マンだった篤が、友人達とライブハウスをオープンしたいと言い出した時も、智恵美は反対せず夫の好きにさせた。
その後、共同経営者だった友人達が店の運営から手を引く事となり、今は篤が単独でオーナーになっている。
『リバーサイド』と名付けられた店の利益は余り出ていなかったが、親子四人何とか食べて行く事は出来た。
篤に変化が現れ出したと感じるようになったのは、今年に入った辺り位からだった。
『リバーサイド』の他にもう一軒店を出したいと言い出したのだ。今度はカラオケスナックだという。
ライブハウスだけでは売り上げが少ないから、カラオケスナックの方で大きく利益を出したいと言い、話はもう決めて来たと言った。
話を詳しく聞くと、広告代理店時代の知り合いから条件の良い居抜きの物件があるからと勧められたようだ。憮然とした表情で聞いていた智恵美の顔を見て、昔、いろいろ世話になった人からの話だから無下に断る事も出来ない。それに、場所は好いのだから間違い無いと、気乗りのしない智恵美を篤は必死に説得した。



