迷宮の魂


 敬子は流しの引き戸を開け、寝酒用の焼酎を取り出した。

 昔は一滴も飲めなかったアルコールだが、十年位前から少しずつ口にするようになった。今では睡眠薬代わりになり、飲まないと眠れない。

 和也の父親である良蔵と知り合ったのは、市内の洋裁学校に通っていた時だった。

 早くに父親を亡くし、母子家庭で育った敬子は、どちらかと言えば何事にも奥手な方で性格も引っ込み思案の方だった。目立つ事が苦手で、物事を楽観的に捉えられず、常に悲観的な考え方ばかりしてしまう。46歳になった今もそれは変わらない。

 日曜日のある日、友人と映画を観に行き、その帰り道、良蔵が声を掛けてきたのである。

「釧路は初めてなんだけどさ、何処か面白そうな所を教えてくれないかな」

 幾ら友人と一緒だったからとはいえ、こういった声の掛けられ方をされて普通なら立ち止まる敬子ではなかった。敬子自身、後になっていろいろ思い返してみても不思議でならない。とにかく、この時は声を掛けられた敬子の方が一目惚れだった。

 倍近く歳が離れていたが、それまで見てきた男達には無い魅力を感じたのである。

 ちょっと不良な大人、遊び慣れた雰囲気、何処か都会的な匂いに幻惑されたのかも知れない。友人と一緒だった事から、知らぬ間に警戒心を解いていた。敬子の知らない東京の話をずっとし、憧れの大都会を想像させてくれた。

 仕事は、宝石や舶来物の高級腕時計を扱うブローカーをしていると言った。仕立ての良い背広、手首には素人目にもかなりの高級品だと判る時計。細身のネクタイにピンホール。ズボンにはサスペンダー。まるで映画スターのようなスタイル。

 一緒に居るだけで夢心地にさせてくれた。

 別れ際、連れの友人に判らないように、

「明日、二人でお茶でも飲まないか」

 と誘われた。有頂天になった敬子は二つ返事でオーケーした。

 その翌日、待ち合わせ場所に現れた良蔵は、

「ドライブしよう」

 と言って来た。当時、自家用車を持っている人間は数える程しかいなかった。昨日からの夢の続きを見れると敬子は舞い上がった。