右手には血を滴らせた包丁が握られたままだ。這うように逃げようとする女の髪を掴み、和也は肩口に包丁を突き立てた。
ぎゃっ、という悲鳴を上げた女は腰が抜けていたのが嘘のように、脱兎の如く家の外へ飛び出した。
突き立てた包丁の刃先が折れ曲がっていた為、幸い女の刺し傷は浅かった。砂利道を裸で逃げる女を追い駆け、今度は刺さずに切り付けた。二度、頭部に当たり、転がるように女は倒れた。
丁度、数人の通行人がこの惨劇に気付いた。気丈な通行人達は女を和也から引き離し、取り押さえた。
事件後、殺人と傷害致傷で起訴された和也は、懲役12年の求刑を求められたが、情状酌量を認められ、判決で8年に減刑された。
刑務所に移送された和也は、暫くの間、無気力な日々を過ごしていた。自分の未来はこれで終わったと思ったのだ。
ある日、服役していた和也の元に、家庭裁判所の調査官が面会にやって来た。
そういえば、裁判前に担当の弁護士から、
「出所後の為にも戸籍を作った方がいい。家裁の方に送って上げるから」
と言われたのを思い出した。
父親を殺し、警察に逮捕されて初めて自分と殺した良蔵に戸籍が無い事を知った。
警察側もその件をいろいろと調べてくれたが、結局は本籍地不明のまま書類送検されたのだ。
「稲垣和也さんですね。やっと判りましたよ。貴方のお母さんが」
「……?」
「ビックリするのも無理はありません。貴方の弁護士さんから依頼を受けて、二年近く経ってやっと見つかったのですから。こういうケースからすると、殆ど奇跡に近い」
死んだと聞かされていた母の存在。和也には現実として受け入れるには、余りにも話が突然過ぎた。



