迷宮の魂


 その浮浪者についての苦情が寄せられたのは、数日前の事であった。

「子供が薄気味悪がっているんです」

 さすがにそれだけの理由では、警察が介入する訳にも行かず、その時は話を聴くだけで終わった。

 釧路署警邏課に勤務する小野田巡査がその浮浪者を見たのは、勤務中ではなく、旭町のアパートへ帰る途中での事であった。

 釧路川に掛かる幣舞橋(ぬさまいばし)を自転車で渡っていた時、河原沿いにある児童公園へ行こうとしている男を見た。

 職業柄、仕事を離れても、見掛けない人間や、挙動の不自然な人間に目が行く。

 その時もそうだった。橋の袂で自転車を止め、じっと目を凝らしてその男を見ていた。

 黒いよれよれのコート。髪を何日も洗っていないのが、遠目にも判る。

 男は公園のベンチにもたれるように座り込み、暫くするとそのまま身体を横たえた。

 防寒ジャンパーを着込んでいても寒さに震えが来るこの季節に、そうやってベンチに横たわる者など、浮浪者位しか居ない。

 勤務時間外ではあったが、何日か前に市民からの苦情があったのを思い出し、小野田巡査はその男に声を掛けてみる事にした。

 警察学校を出て一年にも満たない小野田巡査は、警察官の仕事に大きな誇りと使命感を持っていた。

 市民の公僕。

 純粋にその意識から出た行動であった。

 土手下の児童公園に近付くと、男は小野田巡査に気付いたのか、横たえていた身体を起こし、顔を向けた。

 自分の方に向いた男の顔を見た瞬間、小野田巡査は凍り付いたように立ち止まってしまった。

 顔の左半分が、火傷の痕で醜くケロイド状になっている。そのせいか、左の目は光を失っている。鼻の半分と左耳は肉が無く、赤茶けた色になっていて、頭髪も左半分が無い。遠目には髪の毛だと思っていた頭の黒さは、こびり付いた汚れであった。

「ここで何をしている?」

 つい、きつい口調になっていた。

 男は無言で首を振り、ベンチを立ち上がった。