「いってらっしゃい」

 妻にそう言われて家を出るのも、今日で終わりだな、というような感傷は、前嶋には湧いて来なかった。

 定年の朝を迎えるというのは、もっと厳かな感慨が湧いて来るものだと思っていたのだが。

 満員電車に揺られ、最後のお勤めをする四谷署へ向かった。

 高校を卒業して警察学校に入り、以来42年間、前嶋は警察官として勤め上げて来た。

 刑事になったのは、30歳になる少し前で、結婚して直ぐの頃だった。新婚気分など味わう暇も無く、毎日夜遅く迄駆けずり、そして這いずり回って来た。

 ただそれだけの事だ。それだけの事だったんだ。

 自分の中に、妙に冷めた感情がある。そういう心持ちにさせられているものの正体を、前嶋は十数年もの間、追って来た。

 最後迄、奴の尻尾を掴めなかった……

 積年の後悔。

 一番最初に奴を捕まえていれば……

 そういう思いで自分を責め続けて来た。

 もしも……、たら……、だったら……、れば……、

 そういう言葉達が何の慰めにも、解決にもならない事など、重々承知している。しかし、どうしてもそう思いたくなる。

 自分が奴に初めて関わった時に、もしも、そこで捕らえる事が出来ていれば、その後、何人もの人間が命を落とす事は無かった筈だ。

 命もそうだが、奴と関わりを持ったが為に、その後の人生を変転させてしまった人間も数多い。

 俺もその内の一人かも知れない……

 和也本人もそうではないか。最初の時に捕まえていれば、奴自身の人生だってきっと違ったものになっていた筈だと思う。

 11年前を境に、奴の姿は影も形も消えてしまった。

 自分の警察人生の中で、奴だけが取り逃がした犯人ではない。他にも居るが、もし、という思いに駆られる相手は奴だけだ。

 前嶋のポケットには、今でも一枚の写真がある。角が破れ皺になり、古くなった写真には、佐多和也が暗い目をして写っていた。