泣きながら、敬子はどうしてあんな言い方をしてしまったのだろうと後悔していた。

 もっと優しく諭して上げた方がいいと頭では判っている。

 一緒に暮らし始めた頃はこんなふうではなかった。互いにぎこちない接し方ではあったが、少なくとも今と違って笑顔があった。

 和也の父親と別れてから、ただの一度として息子の事を忘れた事は無い。二度と逢える事は無いのかも知れないと諦めていた時に、突然埼玉の家庭裁判所から、貴女の息子さんは稲垣和也といいませんか?と連絡が入った。

 稲垣という苗字には記憶が無い。だが、自分が産んだ子には確かに和也と名前を付けた。別れた和也の父親の苗字は原田といった。

 何処かに養子にでも貰われ、苗字が変わったのだろうか?

 電話でその事を言うと、それなら間違いありませんとの答えが返って来た。

 それが、今から5年前のことである。数日後、家庭裁判所の調査官から、大人になった我が子の写真と手紙が届いた。

 3歳の頃の顔を思い出し、成人した写真に重ね合わせた。

 ちゃんと面影が残っていた。特に目の辺りなど変わっていない。

 手紙に目を通すと、声を失う位に愕く事が書かれてあった。

 20年振りに知った息子の消息が書かれた手紙には、殺人という文字が何度も出て来た。