君と生きたあの夏を、ひまわりだけが覚えている

十一月二十四日。その日は、残酷なほどによく晴れた冬の朝だった。

「ハルさん、お茶が入ったよ」

サクラがいつも通り、太陽のような笑顔で湯呑みを差し出してくれた。
その手を握り返そうとした、その時だった。

ウゥゥゥゥゥ―――ッ!!

空気を引き裂くような、不気味でけたたましいサイレンの音が、街中に響き渡った。
空襲警報だ。

「サクラ、来た……! 早く逃げるんだ!」
「えっ、あ、でも、お父ちゃんの写真と、お店の権利書を……!」
「そんなのいいから! 早く!!」

僕はサクラの手を強く引き、食堂を飛び出した。
しかし、その瞬間、世界が激しく暗転した。
ヒュルルルルル……と空から降ってくる、無数の金属の風切音。直後、地響きとともに、すさまじい爆発音が鼓膜を震わせた。

ドガァァァァン!!

「きゃあぁぁぁっ!」
悲鳴をあげるサクラを庇うようにして、地面に伏せる。
目の前の木造の家々が、一瞬で炎に包まれていく。教科書で見た通りだ。いや、本物の戦場は、教科書の文字の何百倍も恐ろしかった。

「サクラ、あっちの丘へ逃げるんだ! ひまわり畑の方へ!」

立ち上がろうとした。けれど、僕の身体は一歩も動かなかった。
「う、あ……っ」
胸の奥から、今までにない激痛が突き上げてくる。ハァハァと激しく息が切れ、視界が真っ白に染まっていく。
タイムリミットだ。戦争の炎が僕たちを焼き尽くすより先に、僕の病気が、僕の身体を完全に終わらせようとしていた。

「ハルさん!? どうしたの、しっかりして!」
「サクラ……僕はいいから、一人で、走れ……!」
「いやや! 置いていくわけないやん! 一緒に!そばにいるって約束したやろ!?」

サクラは僕の大きな身体を懸命に引きずろうとする。
周囲はすでに、飛び散った焼夷弾(しょういだん)の炎で、燃え盛る火の海と化していた。あの綺麗だったひまわり畑の枯れ葉が、真っ赤な炎に包まれていく。

このままでは、サクラまで僕と巻き添えになって死んでしまう。
動かない身体。迫る炎。
僕は、サクラを生き残らせるために、人生で最後の、そして一番むごい「嘘」をつくことを決意した。

「……サクラ、聞いて」
「なぁに? お願い、立って、ハルさん!」
「僕は……記憶が戻ったんだ」
「え……?」

僕は冷徹な声を意識して、サクラの温かい手を冷たく振り払った。

「僕は、君のことが好きじゃなかった。記憶を失くして行く当てがないから、ただこの食堂を利用していただけなんだ。重荷になる君を置いて、本当は一人で街を出ていこうと思ってた。だから……もう僕に構わないでくれ。目障りだから、早く消えてよ!」

サクラの瞳が、恐怖とは違うショックで大きく見開かれた。
涙が彼女の白い頬を濡らす。

「嘘……嘘や。ハルさん、そんなこと言う人やない……!」
「嘘じゃない! 僕は君が嫌いだ! 一人で死なせてくれ!」

心臓が張り裂けそうだった。胸の病気の痛みなんてどうでもよくなるくらい、サクラを傷つける言葉を吐き出す口が痛くて、苦しくて、涙が溢れそうだった。
でも、これでいい。僕を憎んででも、サクラには生きてほしかった。

「ハルさん……」

サクラはボロボロと涙をこぼしながら、最後に僕の顔をじっと見つめた。そして、僕の「嘘」の裏にある絶望を察したかのように、悲しく、けれどどこか愛おしそうに微笑んだのだ。

「私、知ってたよ。ハルさんが、いっつも苦しそうに胸を押さえてたこと。私のために、ずっと無理して笑ってくれてたこと……」
「サクラ……っ」
「おおきに、ハルさん。私を助けようとしてくれて。……私、絶対に生き残るから。生きて、ハルさんの分まで、明日を生きるからね!」

サクラは僕の額にそっと自分の額を合わせた。その最後の温もりを遺して、彼女は燃え盛るひまわり畑の向こうへと、振り返らずに走り出した。

「サクラ―――!!」

炎の赤に染まる視界の中で、彼女の浴衣の裾が遠ざかっていく。
それを見届けた瞬間、僕は緊張の糸が切れたように、激しく血を吐きながら地面に倒れ込んだ。

上空を見上げると、トタン屋根の向こうにあったはずの青空は、真っ黒な煙と炎に覆い尽くされている。
意識が遠ざかる中、僕は最後に、心から願った。

(神様、サクラを……僕の愛したサクラを、どうか守ってください。もし生まれ変われるなら、その時は、嘘のない世界で……またあのひまわりの丘で……)

バチバチとひまわりが燃える音を聞きながら、僕の世界は、静かに白い光へと包まれていった。