朝。
目を覚ますと、隣には彼がいた。
……正確には、私が彼の家に泊まりに来ている。
大学がある日は自分の家に帰ることもあるけれど、最近は彼の家で過ごす時間の方が長い。
着替えも少し置いてある。洗面所には私の歯ブラシがあり、冷蔵庫には私が買ってきた飲み物が入っている。
もはや「泊まりに来ている」というより、半分住み着いているようなものだった。
「……ん」
隣で彼がスマートフォンを確認している。
その画面を見た瞬間、目が覚めた。
「予備軍?!」
思わず声が出る。
「また軍隊に行くの?!」
彼は笑った。
「うん。でも学生予備軍だから、八時間だけ受ければいいんだよ」
「八時間も!?」
布団の中から身を起こす。
「それって一日中じゃん。大変そう……」
「まあ、一日だね」
今日は軍服を着て、訓練に行く。
普段は家で気ままに過ごしている彼が軍服を着ると思うと、なんだか不思議だった。
「予備軍って、そんなに何年も続くの?」
そう聞くと、彼は少し考えてから答えた。
「僕は今年が最後だよ。除隊してから六年間」
「今年が最後なんだ」
その言葉に、少しだけ安心する。
今年が終われば、もう予備軍として訓練に行くこともなくなる。
そう思ったのに、彼は続けた。
「身体的にはそれほど大変じゃないんだけど、精神教育がちょっと……」
「精神教育?」
「芸能人とかが出てきて、国が呼んだらいつでも来て、一身を捧げて戦えって言うんだよ」
「……え?」
思わず笑ってしまう。
「ちょっと待って。訓練ってそんな感じなの?」
彼も笑った。
「そうだよ」
「私が思ってたのと全然違うんだけど」
私が想像していたのは、軍服を着て、銃を持ち、山の中でひたすら身体を動かす訓練だった。
「軍服を着るから、当然、身体をいっぱい動かす訓練だと思ってた……」
「身体を動かす訓練もあるよ。でも予備軍の訓練は、映像教育もかなり多いんだ」
彼はいつもの調子で笑った。
「みんな不満がすごいから、あまりきついことはさせられないんだよ」
「お金ももらえないのに呼ばれるんだもんね」
「そうそう」
彼は「洗脳映像」だと笑っていた。
「洗脳映像って……」
「本当にそんな感じだよ」
笑いながら、彼は出かける準備を始める。
その後も話を聞いていると、去年は受けられなかった訓練のために五日間通ったことや、スマートフォンを管理するアプリを入れさせられたことを教えてくれた。
銃を持って装備を背負い、山を歩いて捜索する訓練もあるという。夜に山へ入り、地面を掘ってテントを張り、そこで眠ることもあるらしい。
話を聞いているだけなのに、だんだん笑えなくなっていく。
「……夜に山?」
「うん」
「それ、危なくない?」
「まあ、危ない時もあるね」
彼はさらりと続けた。
「夜に山を登る予備軍の訓練で、今年亡くなった人もいるよ」
「……え?」
さっきまで笑っていたのに、もう笑えなかった。
「そんな訓練で、人が亡くなったの……?」
彼によると、その人は現役の軍人と同じような訓練を受けていたらしい。
現役軍人は、もっと大変なことをする。
そう聞くほど、胸の奥がざわついていく。
目の前にいる彼は、いつもと何も変わらない。
寝癖をつけたままスマートフォンを触り、適当に笑っている。出かける前だというのに、まだベッドの上に座っていた。
それなのに、今日は軍服を着て出ていく。
そう思った瞬間、急に怖くなった。
「……危険な訓練は、あまり無理しないでね」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
心配しすぎかもしれない。
けれど、彼は笑わなかった。
「今日は危険な訓練じゃないから大丈夫だよ。ご飯も食べたし、少しゆっくりしてから行く」
「……よかった」
それだけで、胸の奥が少し軽くなった。
しばらくして、彼が立ち上がる。
軍服に着替えた姿は、いつもの彼なのに、どこか遠く見えた。
玄関で靴を履く。
「じゃあ、行ってくる」
「うん。気をつけてね」
「うん」
ドアが閉まる。
部屋に、一人きりになる。
さっきまで隣にいた彼がいなくなっただけなのに、急に部屋が広く感じた。
私はソファに座り、スマートフォンを眺める。
今日は危険な訓練ではない。彼もそう言っていた。
だから大丈夫。
そう思いながらも、何度もスマートフォンを手に取ってしまう。
新しいメッセージはない。
当然だ。訓練中なのだから。
それでも、気になってしまった。
午前中は、大学の課題を進めようとした。
けれど、文字を目で追っても内容が頭に入ってこない。机の上に置いたスマートフォンが少し振動するだけで顔を上げるが、通知は彼からではなかった。
画面を伏せ、また課題に戻る。
それでも、彼が出ていく前に置いていった水のペットボトルへ、何度も目が向いた。
いつもなら、彼がそこにいる。
ソファに座ってスマートフォンを触り、テレビをつけたまま、内容も見ずに笑っている。私が課題をしている隣で、何度も話しかけてくる。
そんな姿が、今日はどこにもなかった。
昼になっても、彼は帰ってこない。
一人分の昼食を用意する。
いつもなら彼の分も自然に作るのに、今日は何をどれだけ作ればいいのか分からなかった。
結局、簡単なものを一人分だけ用意した。
向かいの椅子は空いたまま。
食器を置く音だけが、やけに大きく響く。
「今頃、ご飯食べてるかな」
呟いてみても、返事はない。
彼の家なのに、彼がいないだけで、知らない場所のように感じた。
午後になった。
課題を終えても、彼が帰ってくる気配はない。
洗濯物を畳み、床を掃除し、冷蔵庫の中を整理する。普段なら彼と話しながらしていることを、今日は一人で繰り返した。
彼の服を畳んでいると、指が止まる。
いつもなら、脱ぎっぱなしの服を見つけて「ちゃんと片づけて」と言う。彼は笑いながら、「あとでやる」と答える。
その「あとで」が、今日は来ない。
畳んだ服を彼の部屋の端に置く。
そこに彼がいないことが、急に現実味を持った。
夕方になっても、玄関は静かなままだった。
窓の外が少しずつ暗くなっていく。部屋の明かりをつけても、空間は広く、冷たく感じられた。
彼の家に泊まり始めてから、こんなに長い時間を一人で過ごしたことはなかった。
大学へ行っている間は、彼が家にいるかどうかなんて考えない。自分の家に帰れば、彼のいない生活に戻る。
けれど、ここにいるときは違った。
私はいつの間にか、彼がいることを前提にしていた。
朝、隣にいること。
帰れば、部屋のどこかに彼の気配があること。
冷蔵庫を開ければ、彼が買ったものが入っていること。
夜になれば、同じベッドに入ること。
それらを、いつの間にか「いつものこと」にしていた。
でも、彼がいないだけで、こんなにも落ち着かなくなる。
私の歯ブラシも、着替えも、ブランケットも、ここにある。
それでも、彼がいなければ、ここは私の居場所ではないように思えた。
夜になった。
訓練が終わる時間は、もう過ぎている。
それでも、彼から連絡はなかった。
スマートフォンを手に取り、「終わった?」と打つ。
送信する前に、指が止まった。
訓練中かもしれない。疲れているかもしれない。邪魔をしたくない。
そう思って画面を閉じる。
けれど、数分後にはまたスマートフォンを開いていた。
何度見ても、新しい通知はない。
「もう終わったかな」
「ちゃんと帰ってくるかな」
そんなことばかり考えていた。
窓の外を車が通るたびに、帰ってきたのかと思う。
廊下で足音がするたびに、玄関の方を見る。
けれど、鍵が回る音はしない。
部屋の中には、私の呼吸と時計の音だけが残っていた。
その静けさの中で、私は初めてはっきりと感じた。
彼がいる生活は、当たり前ではない。
彼が毎日ここにいることも。
私が彼の隣で眠れることも。
帰ってきた彼に「おかえり」と言えることも。
すべて、彼が無事に帰ってきてくれるから成り立っている。
彼がいない時間は、ただ寂しいだけではなかった。
私は彼の存在を、どれだけ頼りにしていたのか。
彼がいることを、どれだけ当たり前のように受け取っていたのか。
静かな部屋の中で、思い知らされていた。
大切な人が今日も無事に帰ってくる。
私はそれを、いつの間にか当然だと思っていた。
けれど、本当は当たり前なんかじゃない。
夜が深くなっても、彼は帰ってこなかった。
私はソファに座ったまま、玄関の方を見つめていた。
眠ろうとしても眠れない。
ベッドに入っても、隣が空いていることが気になってしまう。
いつもなら、彼の寝返りの音や寝息が聞こえる。
今日は何も聞こえない。
その静けさが、怖かった。
日付が変わる頃、ようやく玄関の方から音がした。
鍵が回る。
ガチャリ。
その瞬間、胸が跳ねる。
ドアが開いた。
「ただいま」
その声を聞いた瞬間、身体の奥に入っていた力が、すべて抜けていくようだった。
「……おかえり」
声が少し震えた。
彼がこちらを見る。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
そう答えたけれど、笑うことはできなかった。
彼が靴を脱ぎ、家の中へ入ってくる。
いつもの足音。
いつもの声。
いつもの顔。
それなのに、今日はそれがどうしようもなく嬉しかった。
「無事に終わってよかった」
「うん。遅くなってごめん」
「ううん……」
彼が軍服を脱ぐ。
その姿を見ているだけで、胸の奥がいっぱいになる。
「ご飯食べた?」
「うん」
「疲れた?」
「ちょっと」
「じゃあ、今日はもうゆっくりして」
彼の隣に座る。
肩が触れる。
それだけなのに、朝からずっと張りつめていたものが、ようやくほどけた。
彼が隣にいる。
ただそれだけのことが、こんなにも安心する。
ふと、思う。
毎朝「いってらっしゃい」と言えて。
帰ってきたら「おかえり」と言えて。
一緒にご飯を食べて。
くだらないことで笑って。
眠る前に「おやすみ」と言える。
そんな毎日を、私はずっと続いていくものだと思っていた。
でも、彼がいない時間を過ごして、初めて分かった。
大切な人が今日も無事に帰ってきてくれることは、決して当たり前ではない。
明日も会えること。
また話せること。
同じ部屋で笑えること。
隣で眠れること。
そして、「おかえり」と言えること。
そのすべてが、本当はとても大切なものだった。
隣にいる彼が、ふっとこちらを見る。
「なんでそんなに見るの?」
「……ううん」
少しだけ笑う。
「今日、帰ってきてくれてよかったなって」
彼は一瞬きょとんとした。
それから、いつもの柔らかな笑顔を浮かべる。
「僕、いつも家に帰ってくるじゃん」
「……うん」
そうだね。
いつも帰ってきてくれる。
でも、その「いつも」は、決して約束されたものではない。
彼が帰ってきてくれること。
私がここで待っていられること。
また同じ時間を過ごせること。
それは、毎日少しずつ与えられているものなのだと思う。
だから私は、その「いつも」を大切にしたい。
いつかなくなるかもしれないから怖がるのではなく、今日ここにあるものを、ちゃんと幸せだと思えるように。
私は彼の肩にそっと寄りかかる。
「……オソワ(おかえり)」
もう一度、呟く。
彼は何も言わず、私の頭を軽く撫でた。
それだけでよかった。
今日も、この人が帰ってきてくれた。
長い一日を越えて、私のいる場所へ帰ってきてくれた。
――それだけで、十分幸せな一日だった。
目を覚ますと、隣には彼がいた。
……正確には、私が彼の家に泊まりに来ている。
大学がある日は自分の家に帰ることもあるけれど、最近は彼の家で過ごす時間の方が長い。
着替えも少し置いてある。洗面所には私の歯ブラシがあり、冷蔵庫には私が買ってきた飲み物が入っている。
もはや「泊まりに来ている」というより、半分住み着いているようなものだった。
「……ん」
隣で彼がスマートフォンを確認している。
その画面を見た瞬間、目が覚めた。
「予備軍?!」
思わず声が出る。
「また軍隊に行くの?!」
彼は笑った。
「うん。でも学生予備軍だから、八時間だけ受ければいいんだよ」
「八時間も!?」
布団の中から身を起こす。
「それって一日中じゃん。大変そう……」
「まあ、一日だね」
今日は軍服を着て、訓練に行く。
普段は家で気ままに過ごしている彼が軍服を着ると思うと、なんだか不思議だった。
「予備軍って、そんなに何年も続くの?」
そう聞くと、彼は少し考えてから答えた。
「僕は今年が最後だよ。除隊してから六年間」
「今年が最後なんだ」
その言葉に、少しだけ安心する。
今年が終われば、もう予備軍として訓練に行くこともなくなる。
そう思ったのに、彼は続けた。
「身体的にはそれほど大変じゃないんだけど、精神教育がちょっと……」
「精神教育?」
「芸能人とかが出てきて、国が呼んだらいつでも来て、一身を捧げて戦えって言うんだよ」
「……え?」
思わず笑ってしまう。
「ちょっと待って。訓練ってそんな感じなの?」
彼も笑った。
「そうだよ」
「私が思ってたのと全然違うんだけど」
私が想像していたのは、軍服を着て、銃を持ち、山の中でひたすら身体を動かす訓練だった。
「軍服を着るから、当然、身体をいっぱい動かす訓練だと思ってた……」
「身体を動かす訓練もあるよ。でも予備軍の訓練は、映像教育もかなり多いんだ」
彼はいつもの調子で笑った。
「みんな不満がすごいから、あまりきついことはさせられないんだよ」
「お金ももらえないのに呼ばれるんだもんね」
「そうそう」
彼は「洗脳映像」だと笑っていた。
「洗脳映像って……」
「本当にそんな感じだよ」
笑いながら、彼は出かける準備を始める。
その後も話を聞いていると、去年は受けられなかった訓練のために五日間通ったことや、スマートフォンを管理するアプリを入れさせられたことを教えてくれた。
銃を持って装備を背負い、山を歩いて捜索する訓練もあるという。夜に山へ入り、地面を掘ってテントを張り、そこで眠ることもあるらしい。
話を聞いているだけなのに、だんだん笑えなくなっていく。
「……夜に山?」
「うん」
「それ、危なくない?」
「まあ、危ない時もあるね」
彼はさらりと続けた。
「夜に山を登る予備軍の訓練で、今年亡くなった人もいるよ」
「……え?」
さっきまで笑っていたのに、もう笑えなかった。
「そんな訓練で、人が亡くなったの……?」
彼によると、その人は現役の軍人と同じような訓練を受けていたらしい。
現役軍人は、もっと大変なことをする。
そう聞くほど、胸の奥がざわついていく。
目の前にいる彼は、いつもと何も変わらない。
寝癖をつけたままスマートフォンを触り、適当に笑っている。出かける前だというのに、まだベッドの上に座っていた。
それなのに、今日は軍服を着て出ていく。
そう思った瞬間、急に怖くなった。
「……危険な訓練は、あまり無理しないでね」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
心配しすぎかもしれない。
けれど、彼は笑わなかった。
「今日は危険な訓練じゃないから大丈夫だよ。ご飯も食べたし、少しゆっくりしてから行く」
「……よかった」
それだけで、胸の奥が少し軽くなった。
しばらくして、彼が立ち上がる。
軍服に着替えた姿は、いつもの彼なのに、どこか遠く見えた。
玄関で靴を履く。
「じゃあ、行ってくる」
「うん。気をつけてね」
「うん」
ドアが閉まる。
部屋に、一人きりになる。
さっきまで隣にいた彼がいなくなっただけなのに、急に部屋が広く感じた。
私はソファに座り、スマートフォンを眺める。
今日は危険な訓練ではない。彼もそう言っていた。
だから大丈夫。
そう思いながらも、何度もスマートフォンを手に取ってしまう。
新しいメッセージはない。
当然だ。訓練中なのだから。
それでも、気になってしまった。
午前中は、大学の課題を進めようとした。
けれど、文字を目で追っても内容が頭に入ってこない。机の上に置いたスマートフォンが少し振動するだけで顔を上げるが、通知は彼からではなかった。
画面を伏せ、また課題に戻る。
それでも、彼が出ていく前に置いていった水のペットボトルへ、何度も目が向いた。
いつもなら、彼がそこにいる。
ソファに座ってスマートフォンを触り、テレビをつけたまま、内容も見ずに笑っている。私が課題をしている隣で、何度も話しかけてくる。
そんな姿が、今日はどこにもなかった。
昼になっても、彼は帰ってこない。
一人分の昼食を用意する。
いつもなら彼の分も自然に作るのに、今日は何をどれだけ作ればいいのか分からなかった。
結局、簡単なものを一人分だけ用意した。
向かいの椅子は空いたまま。
食器を置く音だけが、やけに大きく響く。
「今頃、ご飯食べてるかな」
呟いてみても、返事はない。
彼の家なのに、彼がいないだけで、知らない場所のように感じた。
午後になった。
課題を終えても、彼が帰ってくる気配はない。
洗濯物を畳み、床を掃除し、冷蔵庫の中を整理する。普段なら彼と話しながらしていることを、今日は一人で繰り返した。
彼の服を畳んでいると、指が止まる。
いつもなら、脱ぎっぱなしの服を見つけて「ちゃんと片づけて」と言う。彼は笑いながら、「あとでやる」と答える。
その「あとで」が、今日は来ない。
畳んだ服を彼の部屋の端に置く。
そこに彼がいないことが、急に現実味を持った。
夕方になっても、玄関は静かなままだった。
窓の外が少しずつ暗くなっていく。部屋の明かりをつけても、空間は広く、冷たく感じられた。
彼の家に泊まり始めてから、こんなに長い時間を一人で過ごしたことはなかった。
大学へ行っている間は、彼が家にいるかどうかなんて考えない。自分の家に帰れば、彼のいない生活に戻る。
けれど、ここにいるときは違った。
私はいつの間にか、彼がいることを前提にしていた。
朝、隣にいること。
帰れば、部屋のどこかに彼の気配があること。
冷蔵庫を開ければ、彼が買ったものが入っていること。
夜になれば、同じベッドに入ること。
それらを、いつの間にか「いつものこと」にしていた。
でも、彼がいないだけで、こんなにも落ち着かなくなる。
私の歯ブラシも、着替えも、ブランケットも、ここにある。
それでも、彼がいなければ、ここは私の居場所ではないように思えた。
夜になった。
訓練が終わる時間は、もう過ぎている。
それでも、彼から連絡はなかった。
スマートフォンを手に取り、「終わった?」と打つ。
送信する前に、指が止まった。
訓練中かもしれない。疲れているかもしれない。邪魔をしたくない。
そう思って画面を閉じる。
けれど、数分後にはまたスマートフォンを開いていた。
何度見ても、新しい通知はない。
「もう終わったかな」
「ちゃんと帰ってくるかな」
そんなことばかり考えていた。
窓の外を車が通るたびに、帰ってきたのかと思う。
廊下で足音がするたびに、玄関の方を見る。
けれど、鍵が回る音はしない。
部屋の中には、私の呼吸と時計の音だけが残っていた。
その静けさの中で、私は初めてはっきりと感じた。
彼がいる生活は、当たり前ではない。
彼が毎日ここにいることも。
私が彼の隣で眠れることも。
帰ってきた彼に「おかえり」と言えることも。
すべて、彼が無事に帰ってきてくれるから成り立っている。
彼がいない時間は、ただ寂しいだけではなかった。
私は彼の存在を、どれだけ頼りにしていたのか。
彼がいることを、どれだけ当たり前のように受け取っていたのか。
静かな部屋の中で、思い知らされていた。
大切な人が今日も無事に帰ってくる。
私はそれを、いつの間にか当然だと思っていた。
けれど、本当は当たり前なんかじゃない。
夜が深くなっても、彼は帰ってこなかった。
私はソファに座ったまま、玄関の方を見つめていた。
眠ろうとしても眠れない。
ベッドに入っても、隣が空いていることが気になってしまう。
いつもなら、彼の寝返りの音や寝息が聞こえる。
今日は何も聞こえない。
その静けさが、怖かった。
日付が変わる頃、ようやく玄関の方から音がした。
鍵が回る。
ガチャリ。
その瞬間、胸が跳ねる。
ドアが開いた。
「ただいま」
その声を聞いた瞬間、身体の奥に入っていた力が、すべて抜けていくようだった。
「……おかえり」
声が少し震えた。
彼がこちらを見る。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
そう答えたけれど、笑うことはできなかった。
彼が靴を脱ぎ、家の中へ入ってくる。
いつもの足音。
いつもの声。
いつもの顔。
それなのに、今日はそれがどうしようもなく嬉しかった。
「無事に終わってよかった」
「うん。遅くなってごめん」
「ううん……」
彼が軍服を脱ぐ。
その姿を見ているだけで、胸の奥がいっぱいになる。
「ご飯食べた?」
「うん」
「疲れた?」
「ちょっと」
「じゃあ、今日はもうゆっくりして」
彼の隣に座る。
肩が触れる。
それだけなのに、朝からずっと張りつめていたものが、ようやくほどけた。
彼が隣にいる。
ただそれだけのことが、こんなにも安心する。
ふと、思う。
毎朝「いってらっしゃい」と言えて。
帰ってきたら「おかえり」と言えて。
一緒にご飯を食べて。
くだらないことで笑って。
眠る前に「おやすみ」と言える。
そんな毎日を、私はずっと続いていくものだと思っていた。
でも、彼がいない時間を過ごして、初めて分かった。
大切な人が今日も無事に帰ってきてくれることは、決して当たり前ではない。
明日も会えること。
また話せること。
同じ部屋で笑えること。
隣で眠れること。
そして、「おかえり」と言えること。
そのすべてが、本当はとても大切なものだった。
隣にいる彼が、ふっとこちらを見る。
「なんでそんなに見るの?」
「……ううん」
少しだけ笑う。
「今日、帰ってきてくれてよかったなって」
彼は一瞬きょとんとした。
それから、いつもの柔らかな笑顔を浮かべる。
「僕、いつも家に帰ってくるじゃん」
「……うん」
そうだね。
いつも帰ってきてくれる。
でも、その「いつも」は、決して約束されたものではない。
彼が帰ってきてくれること。
私がここで待っていられること。
また同じ時間を過ごせること。
それは、毎日少しずつ与えられているものなのだと思う。
だから私は、その「いつも」を大切にしたい。
いつかなくなるかもしれないから怖がるのではなく、今日ここにあるものを、ちゃんと幸せだと思えるように。
私は彼の肩にそっと寄りかかる。
「……オソワ(おかえり)」
もう一度、呟く。
彼は何も言わず、私の頭を軽く撫でた。
それだけでよかった。
今日も、この人が帰ってきてくれた。
長い一日を越えて、私のいる場所へ帰ってきてくれた。
――それだけで、十分幸せな一日だった。



