午前中の仕事を終え、ウィルは塔にいるアリスのもとへ向かおうとしていた。
本来なら、今日は午後から休みの予定だった。
アリスのもとで過ごすつもりでいたのだが、急遽、夕方から会議が入ってしまった。
――ゆっくりできると思ったんだが。
内心ため息をついていると、後ろから声がかかった。
「おじさま」
振り返ると、ナタリアとルーカスが並んでこちらへ歩いてくるところだった。
ナタリアと軽く目礼を交わす。
「こんにちは」
ルーカスがウィルを見上げる。
「ああ。勉強は終わったのか?」
「うん。さっき終わったところ。おじさまは、お仕事の途中?」
「いや、午後は休みだ」
「じゃあ、剣のお稽古してくれる?」
期待に満ちた目を向けられ、ウィルは一瞬返答に迷った。
「今から、アリスのところへ行こうと思っていた」
「そうなんだ」
ルーカスは少し考える。
「僕も行っていい? アリス様にも会いたいし」
「ルーカス」
それまで二人のやり取りを見守っていたナタリアが口を開いた。
「お二人の邪魔をしてはだめよ」
「……分かった」
ルーカスは残念そうな表情を浮かべる。
「じゃあ、剣のお稽古はまた今度でいいや」
素直に引き下がるルーカスを見て、ウィルは声をかけた。
「……一緒に行くか?」
ルーカスがぱっと顔を上げる。
「いいの?」
「ああ。塔で稽古をすればいい」
「行く!」
先ほどまでの残念そうな表情が嘘のように明るくなる。
ナタリアはそんな息子を見てから、ウィルへ視線を向けた。
「よろしいのですか? アリス様にもご迷惑にならないかしら」
「ええ。アリスは喜ぶと思います」
ウィルが答えると、ナタリアは微笑んだ。
「では、よろしくお願いいたします」
「夕方には会議があるので、連れて戻ります」
ルーカスはすぐにウィルの隣へ並ぶ。
「早く行こう」
「ああ」
ナタリアに見送られながら、二人はアリスの居る塔へと向かった。
ーーーーーー
その頃、塔の台所では、アリスとリリスが料理をしていた。
今日は珍しく、ウィルが午後から休みを取れたらしく、塔へ来ることになっている。
いつもより長く一緒にいられると思うと、それだけで朝から心が弾んでいた。
「上手くできましたね」
「えぇ」
オーブンから取り出したばかりのアップルパイを前に、アリスとリリスは顔を見合わせる。
こんがりと焼き色のついた生地から、甘い香りが漂っていた。
「あら、もうこんな時間」
アリスは時計へ目を向ける。
「そろそろ、応接間でお待ちしてはいかがですか?」
「えぇ。でも、間に合ってよかったわ」
アリスは焼き上がったアップルパイへもう一度目を向けた。
少し離れた鍋では、朝から時間をかけて煮込んだシチューが出来上がっている。
――夕食をご一緒できたら、嬉しいのだけれど……。
「ご夕食は、これにサラダとパンをお付けしますね」
「お願いね」
アリスは頷いてから、アップルパイを見る。
「アップルパイは、護衛の騎士の方にもお裾分けしようかしら」
「余った分を、分けておきますね」
「えぇ。お願い」
その時だった。
「アリス」
聞き慣れた声に、アリスはすぐに振り返る。
「ウィル様」
台所の入り口にウィルが立っていた。
思わず口元が緩む。
けれど次の瞬間、ウィルの後ろから誰かが顔を覗かせた。
「こんにちは、アリス様」
「……ルーカス様!?」
思いもよらない姿に、アリスは目を見開く。
「こんにちは」
驚きながらも挨拶を返し、ウィルとルーカスを交互に見て、首を傾げる。
「どうしてルーカス様が?」
「途中で会って、剣の稽古を頼まれた。ここで稽古をしてもいいか?」
「えぇ、もちろん」
「ありがとうございます、アリス様」
ルーカスが笑顔を見せる。
アリスは二人を見る。
「あの、私も見ていていいですか?」
「ああ」
ウィルは頷く。
「いい匂い!」
突然のルーカスの声に、アリスは目を瞬いた。
どうやら、焼き上がったばかりのアップルパイの香りに気づいたらしい。
思わず笑みがこぼれる。
「アップルパイを作ったんです。お稽古が終わったら、一緒に食べましょうね」
「うん!」
「では、行くか」
ウィルはルーカスへ視線を向ける。
「先に庭へ行って、準備運動をしていろ」
「分かった」
ルーカスは返事をすると、一足先に台所を出ていった。
その背中を見送ってから、ウィルはアリスへ視線を戻す。
「突然連れてきて、悪かったな」
「そんな」
アリスは首を横に振る。
「ルーカス様にお会いできて、嬉しいですから」
「……そうか」
ウィルはわずかに表情を緩めた。
そのまま二人も、ルーカスの待つ庭へと向かった。
ーーーーーー
庭へ出ると、ルーカスはすでに準備運動を終え、木剣を手にウィルを待っていた。
ウィルも用意してきた木剣を手に取る。
少し離れた場所では、二名の塔の護衛騎士が周囲へ目を配っていた。
アリスはベンチに腰掛け、二人の様子を見守ることにした。
「準備はいいか?」
「うん!」
ルーカスは木剣を構える。
「では、始める」
その言葉と同時に、ルーカスが地面を蹴った。
勢いよく振り下ろされた木剣を、ウィルは難なく受け止める。
乾いた音が庭に響いた。
ルーカスはすぐに木剣を引き、今度は角度を変えて打ち込む。
けれど、それも簡単に受け流された。
「踏み込みが甘い」
「はい!」
「もう一度」
ルーカスはすぐに距離を取り、構え直した。
もう一度打ち込む。
けれど、今度はウィルの木剣が先に動いた。
ルーカスの木剣が弾かれ、体勢が大きく崩れる。
「あっ」
どうにか踏みとどまったルーカスに、ウィルは淡々と告げた。
「力任せに振るな。相手の動きをよく見ろ」
「……もう一回、お願い!」
アリスは二人の様子を眺めながら、目を瞬いた。
もちろん、ウィルがルーカスに怪我をさせるようなことはない。
けれど、子供相手なので、もう少し手加減をするものだと思っていた。
何度打ち込んでも、簡単には通してもらえない。時には剣をたたき落とされることさえある。
アリスは近くにいたジョンへ視線を向けた。
「……いつも、あのようにきちんとお相手されるんですか?」
「そうですね」
ジョンにとっては見慣れた光景なのだろう。
特に驚いた様子もなく頷く。
「団長は、何事にも手を抜かない方ですから」
「そうなのですね……」
木剣のぶつかる音が響く。
「それに、ルーカス様はいずれこの国を背負われるお方です。自分の身を守れるというのは、大切なことですから」
アリスは頷きながら、二人へ視線を戻した。
ルーカスがウィルへ打ち込む。
「焦るな。相手から目を逸らすな」
「はい!」
木剣を構え直し、今度はウィルの動きをよく見ながら踏み込んでいく。
二本の木剣がぶつかった。
「今のは悪くない」
ルーカスの表情がぱっと明るくなる。
「だが、姿勢が崩れている。もう一度」
「うん!」
すぐに距離を取り、木剣を構える。
何度止められても、諦める様子はない。
――ルーカス様って、負けず嫌いなのね。何より、楽しそう。
アリスは思わず笑みを浮かべた。
ジョンも二人の様子を見ながら口を開く。
「なかなか、筋もいいですよ」
「そうなのですか?」
「はい。団長も、教え甲斐があるんじゃないですかね」
「もう一回!」
ルーカスの元気な声が庭に響く。
「来い」
ウィルも木剣を構えた。
青空の下、二人の剣の稽古は、それから一時間ほど続いた。
ーーーーーー
「おいしい!」
アップルパイを一口食べたルーカスが、声を上げる。
「よかったです。王宮のお菓子みたいに綺麗ではないですけど」
「でも、すごくおいしいよ」
ルーカスはもう一口食べると、隣に座るウィルへ顔を向けた。
「ねぇ、そう思うでしょ?」
「ああ。美味しい」
いつも通りの短い返事に、アリスは笑みを浮かべる。
「剣のお稽古、とても頑張っているんですね」
「うん! もっと強くなりたいんだ」
ルーカスは隣に座るウィルを見る。
「だって、おじさまはとても強くて、みんなを守れるでしょ? 僕も、そうなりたい」
「そうなんですね」
アリスは微笑ましそうにルーカスを見る。
「ルーカス」
ウィルが口を開いた。
「前にも言ったが、強さだけがすべてではない」
「うん、分かってる」
先ほどまで楽しそうに話していたルーカスも、今度は真面目な表情で頷いた。
「なら、いい」
ウィルはルーカスの頭にポンと触れる。
ルーカスはウィルを見て、へへッと笑みを浮かべた。
そして、何気なく自身の手首を見てから、思い出したように顔を上げる。
「そうだ、アリス様。これ」
ルーカスは手首に巻かれた守り紐をアリスへ見せた。
「この前、友達に見せたんだ。そしたら、こんなの作れるのすごいって言われた」
どこか誇らしそうな様子に、アリスも笑みを浮かべる。
「まあ。それは良かったですね」
「うん! 教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
ルーカスは再びアップルパイを口へ運ぶ。
三人でしばらく和やかな時間を過ごしていると、ウィルが口を開く。
「アリス」
「はい?」
「夕方から急遽会議が入った。すまないが、そろそろ戻る」
「そうなのですか?」
アリスは一瞬だけ動きを止めた。
「ゆっくりする予定だったんだが」
――少し、残念だけれど、お仕事だもの、仕方がないわ。それに……。
「お忙しいのに、来てくださったんですね」
「約束していたからな」
ウィルは短く答えると、ふと何かを思い出したようにアリスを見る。
「……夕食を準備していたんじゃないのか?」
「え?」
「台所にシチューがあっただろう」
「あ……」
アリスは一瞬言葉に詰まった。
「えぇ。でも、お気になさらないでください。シチューなので、明日も食べられますから」
「会議が終われば、また来る」
思いがけない言葉に、アリスは目を見開いた。
「でも、お疲れになりませんか?」
「いや、問題ない」
本当に戻ってきてくれるつもりなのだと分かり、嬉しくなる。
だけど……。
「遅くなりますし、あまりご無理なさらないでください」
アリスはウィルを見つめる。
「また、いつでも作れますから」
ウィルはしばらく考えてから、頷いた。
「……分かった。すまないな」
「大丈夫です」
二人の話を黙って聞いていたルーカスが、そこで口を開いた。
「ねぇ、アリス様」
「はい?」
「僕もアリス様のシチュー、食べてみたい」
「シチューですか?」
「うん!」
アリスは少し驚いたあと、笑みを浮かべる。
「では、今度いらした時に作りますね」
「本当?」
「えぇ」
ルーカスは嬉しそうに笑った。
「エレナも来たいって言うかも」
「では、お二人でいらしてください」
「うん!」
そしてすぐに、隣にいるウィルへ顔を向ける。
「シチューを食べるときは必ず、連れてきてね」
「ああ」
ウィルは短く頷いた。



