誰でもいい、にはなれなかった

部屋の静けさが、妙に耳についた。

さっきまで聞こえていたシャワーの音もない。

二人とも、もう準備はできている。

私はベッドの端に座ったまま、なんとなく手元を見ていた。

「……」

相手が近づいてくる。

その気配に気づいて顔を上げる。

目が合う。

そして。

次の瞬間。

身体がベッドに沈んだ。

「……っ」

驚いて、息が止まる。

相手の手が伸びてくる。

服に触れる。

そのまま、何かが始まりそうになる。



その瞬間だった。

胸の奥が。

一気にざわついた。

さっきまでの比じゃない。

「……」

嫌だ。

そう思った。

はっきりと。

初めて。

迷いなく。



伸びてきた手を。

私は反射的に払いのけた。

「……やっぱ」

声が震える。

「……無理だ」

相手が止まる。

「え?」

私は起き上がる。

心臓が、ものすごい速さで鳴っていた。

でも。

今度は逃げなかった。



「ごめんなさい」

息を整える。

何を言えばいいのか分からない。

でも。

これだけは。

言わなきゃいけない。

「……私」

喉が詰まる。

それでも。

口にする。

「好きな人がいるんです……」

自分で言った瞬間。

胸の奥が。

ずしんと重くなった。



好きな人。

その言葉を。

私は今まで。

自分から認めたことがなかった。

ずっと。

「別に好きじゃない」

「タイプでもない」

「ただ仲良くなっただけ」

そう思っていた。

いや。

そう思おうとしていた。



なのに。

今。

誰かに触れられそうになって。

初めて。

分かった。

私は。

この人としたくない。

じゃあ。

どうして?



答えは。

もう。

分かってしまった。



頭に浮かんだのは。

一人の人だった。

名前を呼ぶことすら。

今はできない。

ただ。

笑った顔。

話しているときの声。

ふとした仕草。

何気ない優しさ。

一緒に歩いた時間。

そういう。

どうでもよさそうな一つ一つが。

突然。

鮮明になった。



「……ごめんなさい」

もう一度謝る。

相手も少し戸惑いながら。

「分かりました」

と言った。

責めることも。

怒ることもなかった。

そのことに。

少しだけ救われた。



私は荷物をまとめた。

ホテルを出る。

夜の空気が。

少し冷たかった。

隣を歩く人と。

駅まで向かう。

さっきまであんなに近かったのに。

今は。

もう。

何も話すことがなかった。



駅で別れる。

「今日はありがとうございました」

そう言うと。

相手も。

「こちらこそ」

と返した。

それだけだった。

私は一人で歩き出す。



帰り道。

スマホを見る。

画面には。

昨日までと変わらない日常がある。

通知。

SNS。

メッセージ。

何も変わっていない。

なのに。

私の中だけ。

何かが変わっていた。



電車の窓に映る自分を見る。

「……好きな人がいる」

さっき自分で言った言葉を。

もう一度思い出す。



私は。

誰でもいいわけじゃなかった。

ただ。

暇だったから。

誰かと遊びたかった。

寂しかったから。

誰かと一緒にいたかった。

そう思っていた。

でも。

本当は。

違ったのかもしれない。



恋人が欲しかったわけでもない。

最初から性的な関係を求めていたわけでもない。

ただ。

自分を、自分として見てくれる人に出会いたかった。

プロフィールに並んだ写真でも。

年齢でも。

条件でも。

「女性」というだけでもなく。

まして。

身体だけでもなく。



くだらない話をして。

一緒に笑って。

自分の好きなものを覚えていてくれて。

変なところは笑ってくれて。

知らないことを教えてくれて。

私が私でいることを。

そのまま受け止めてくれる。

そんな人。



ふと。

思い出す。

以前。

何気なく話していたとき。

私が変な言葉を使ったら。

「それはこうですよ」

と教えてくれた。

私も。

分からない日本語を聞かれたら答えた。

どちらか一方が教えるのではなく。

どちらも相手を一人の人間として見ていた。

あの感じが。

私は好きだった。



今になって。

ようやく分かった。

私は。

恋愛そのものが嫌だったわけじゃない。

出会い方が嫌だったわけでもない。

ただ。

最初から誰かの「恋愛対象」になること。

最初から誰かの「遊び相手」になること。

そのどちらにも。

どうしても馴染めなかったのだ。



「……私、面倒くさいな」

電車の中で。

小さく笑う。

誰かと出会いたい。

でも。

誰でもいいわけじゃない。

好かれたい。

でも。

ただ女だから好かれたいわけじゃない。

触れられたい。

でも。

身体だけを見られたいわけじゃない。



結局。

私は。

私を見てほしかった。

それだけだった。



スマホを開く。

今日会った人とのやり取りを見る。

しばらく眺めて。

アプリを閉じる。

そして。

SNSを開く。

そこには。

ずっと気になっていた人の投稿があった。

何気ない写真。

何気ない文章。

それを見ただけで。

胸が少しだけ痛くなる。



「……やっぱり、好きなんだ」

今度は。

否定しなかった。



恋に落ちた瞬間なんて。

もしかしたら。

ずっと前だったのかもしれない。

自分では気づかなかっただけで。

笑顔を見て。

声を聞いて。

何気ない会話をして。

一緒に歩いて。

そういう小さなものが。

少しずつ積み重なって。

いつの間にか。

その人は。

「誰か」ではなくなっていた。



だから。

今日。

別の誰かと一緒にいて。

初めて分かった。

私が求めていたものは。

「誰かと付き合うこと」でも。

「誰かに求められること」でもなかった。



私自身を見つけてもらうこと。

そして。

私も。

相手自身を見ること。

その先に。

恋愛があるのなら。

きっと。

私はそれがいい。



夜道を歩く。

もうホテルへ戻る必要もない。

誰かに会う必要もない。

ただ。

自分の家へ帰る。

その足取りは。

来たときより。

少しだけ軽かった。



そして私は。

もう一度だけ。

スマホの画面を見る。

そこにいる人の名前を。

今度は。

ちゃんと。

好きな人として。

見つめた。



「誰でもいい」なんて。

最初から。

思っていなかったのだ。