君を好きだと知った日-あの日、恋だと知らなかった――忘れた頃に、もう一度。

楽しい時間ほど、終わるのが早い。

気づけば、空はもう少しずつ色を変え始めていた。

昼間の明るさが薄れて、街の灯りが目立つようになる。

「もうこんな時間なんだ」

そう言ってスマートフォンを確認する。

帰りの飛行機の時間。

頭では分かっていたはずなのに、数字を見た瞬間、急に現実味が増した。

もうすぐ帰らなければならない。

そう思った。

ただ、それだけのはずだった。

なのに。

胸の奥が、ほんの少しだけ沈んだ。



今日一日のことを思い返す。

初めて会ったこと。

写真で見るより、ずっと柔らかかったこと。

思っていたよりぽやぽやしていて、時々びっくりするくらい無邪気だったこと。

くだらないことで笑ったこと。

日本語を聞かれたこと。

私の韓国語を直されたこと。

自転車が来たとき、さっと引き寄せられたこと。

そして。

カフェで見た、あの笑顔。

目尻がくしゃっと下がって、口元が大きく開く。

あの顔が、ずっと頭に残っていた。

写真では分からなかった。

DMでも分からなかった。

実際に会って初めて知った彼の顔だった。

「……また見たいな」

ふと、そう思った。

でも、その言葉の意味を深く考えることはしなかった。

また会えたらいい。

それだけ。

友達だって、また会いたいと思う。

仲良くなった人なら、そう思う。

だから。

やっぱり、これも普通のことだ。

そう思った。



しばらく歩いていると、会話が少なくなった。

疲れているのかもしれない。

それでも気まずくはなかった。

隣を歩いているだけで、不思議と落ち着く。

時々、彼が何か話す。

私が笑う。

私が話す。

彼が笑う。

そんな時間が続いた。

でも。

時計を見るたびに、残された時間が少なくなっていく。

「そろそろ……」

そう言いかけて、言葉を止める。

帰らなければならない。

分かっている。

なのに。

もう少しだけ、このままでいたかった。



駅が近づいてくる。

人の流れも増えてきた。

私は何となく彼の隣を歩く。

今日一日で、ずいぶん彼のことを知った気がした。

でも。

考えてみれば、まだ一度会っただけだ。

DMではずっと話していたのに。

実際に会ったのは、今日が初めて。

そして。

今日が終われば、またいつもの生活に戻る。

今までのように、画面越しの関係になる。

そう思うと。

少しだけ寂しい。



ふと、彼がこちらを見る。

「今日は楽しかった?」

「うん」

私はすぐに答えた。

「すごく楽しかった」

彼は少し笑った。

その笑顔を見て。

また胸の奥が、小さく跳ねる。

やっぱり。

この笑い方、好きだな。

そう思った。

でも。

その「好き」が何を意味するのかは、まだ分からなかった。



駅に着く。

いよいよ、本当に帰る時間だった。

私は荷物を持ち直した。

「じゃあ……」

そこまで言って。

少しだけ迷う。

「またね」

彼も笑って、

「うん、またね」

と言った。

それだけ。

たったそれだけだった。

なのに。

その言葉が、妙に心に残った。

また。

その言葉が本当に叶うのかどうかなんて、分からない。

韓国と日本。

簡単に会える距離ではない。

でも。

「またね」

と言われたことが、少し嬉しかった。



私は彼に背を向けた。

数歩進む。

そして。

なぜか、もう一度振り返った。

彼がいる。

まだこちらを見ている。

目が合う。

彼が小さく手を振った。

私も手を振り返した。

それだけで。

胸が少し温かくなった。

そして私は、今度こそ歩き出した。



帰りの飛行機に乗るまで、まだ少し時間があった。

空港へ向かう途中。

私はスマートフォンを眺めた。

今日のDM。

今日撮った写真。

何度も見返す。

彼の笑顔。

自分でも分かるくらい、そこばかり見ていた。

「……ほんと、なんだろ」

小さく笑う。

今日一日。

何度も思った。

この人、いいな。

もっと話したい。

また会いたい。

もう少し一緒にいたい。

でも。

それでもまだ。

「好き」という言葉には結びつかなかった。



空港に着く。

残り時間を確認する。

もうすぐ日本へ帰る。

そう思ったとき。

スマートフォンが震えた。

彼からだった。

今日のことについての短いメッセージ。

私は思わず笑った。

すぐに返信する。

少しだけ会話が続く。

今日一日の余韻みたいなやり取り。

その文字を眺めながら。

私はふと思った。

これからも、こうやって話せるのかな。

帰国してからも。

今までみたいに。

そうだったらいい。

そう思った。



搭乗時間が近づく。

私は最後にもう一度、スマートフォンを見た。

彼とのDMを閉じる。

画面が暗くなる。

そこに映った自分の顔を見て。

少しだけ笑った。

今日、楽しかった。

本当に。

また会いたい。

その気持ちは、確かにあった。

でも。

私はまだ知らなかった。

この日の終わりが。

自分の中にあるものを、全部ひっくり返すことになるなんて。

このときはまだ。

ただ、「また会えたらいい」と思っていただけだった。

それが恋なのかどうかなんて。

まだ、分からなかった。

そして。

このあと彼から告げられる言葉が。

そんな「分からない」を、一瞬で終わらせることになる。

私はまだ、そのことを知らないまま。

搭乗手続きを済ませた。