◇第一話
明治七年、信三は二年近くに及ぶ英国留学を終え横浜港に帰り着いた。
港の風景は、彼が旅立った頃と比べて大きく変わっていた。異国風の建物が以前よりも、さらに数を増して街を行き交う人々の服装にも、洋装の姿が目立つようになっていた。
時代は明治という新しい年号のもと急速に動いていた。廃藩置県、四民平等、そして、学制の発布――これまで信三が知っていた社会の骨格は、根底から組み直されつつあった。
この変化の速さは、信三にとって驚きと同時に深い納得をもたらすものであった。彼が、破邪僧としての任務を負っていた頃、幕府と宗門、そしてヤソ教徒たちとの間の緊張関係は、この国の秩序の大きな一部を占めていた。
しかし今、その秩序そのものがまったく新しい形へと、生まれ変わろうとしている。この変化を目の当たりにしながら、信三は自分がこれまで経験してきた様々な葛藤――信仰、任務、そして、個人的な情の間での苦悩のそれらがこのより大きな時代の変化の中の、一つの小さなしかし確かな一部であったのだということを改めて実感した。
信三は、まず中村正直のもとを訪ね、留学の報告を行った。中村は、信三の話を深い関心を持って聞いた。フレーベルの教育思想、キンダーガルテンで見た子どもたちの姿、それらの報告を聞き終えた中村は、静かにしかし力強く言った。
「お前が持ち帰ったものは、この国にとって大きな種になるだろう。しかし、種を植える土地を見つけねばならぬ」
この言葉は、信三にとってこれまでのフレーベルの思想への理解をさらに一歩、実践的な方向へと進めるものであった。彼は、これまでフレーベルの思想をいわば、理念的な理論的な理解として自分の中に育んできた。しかし、中村の言葉はその理念を実際に、この日本という国の具体的な土地の上に根付かせていくための次の一歩を彼にはっきりと示すものであった。
その言葉の通り、中村は信三のために一つの道を開いてくれた。それは東京女子師範学校――女子の教員を育成するために新たに設立された学校における英語教師としての職だった。この学校は、明治政府が新しい教育制度を築いていく中で特に、これからの日本の教育を担う女性教師たちを育成するために力を入れて設立した機関であった。
信三にとって、この職は単なる生計のための仕事ではなく、これから自分の教育理念を、より広くこの国に、根付かせていくための重要な足がかりとなるものであった。
この帰国の折、中村はもう一つ、信三に静かに語ったことがあった。
「お前はこれまで、あまりに多くのものを一人で、失ってきた。これからは、お前を支える者が傍にいてもよいのではないか」
その言葉を信三は、その時は深く考えることなく聞き流していた。しかしその言葉は、彼の中に静かに、しかし確かに留まり続けることになる。
◇第二話
東京女子師範学校での日々は、信三にとって久しく感じていなかった。安定したしかし、常に新しい挑戦に満ちた時間だった。彼が教える生徒たちは、これからの日本の教育を担う若い女性たちだった。彼女たちの多くは、これまでの時代には教育を受ける機会そのものが極めて限られていた層の出身だった。
この学校に集う生徒たちの背景は、実に様々であった。旧士族の家の娘たちもいれば、比較的開明的な家庭の出身で新しい時代の女性の在り方を自ら求めてこの学校に入学した者もいた。
彼女たちは、これまでの江戸時代における女性の役割についての固定的な考え方から、少しずつ脱却しようとしている時代の最前線に立つ存在であった。
信三は、彼女たちに英語を教える中で、単に文法や語彙を教えるだけでなく西洋の文化、そして西洋における教育というものの捉え方についても幅広く、語りかけるようにしていた。それは、彼自身が英国での留学の中で深く学んだ学問と、その背後にある思想や文化との切り離せない関係についての理解を生徒たちにも伝えたいという願いからであった。
「先生は、英国で何をご覧になったのですか」
授業の合間、ある生徒がそう問うたことがあった。信三はキンダーガルテンで見た幼い子どもたちの姿を丁寧に語った。
「そこでは、子どもたちは遊びを通じて、多くのことを学んでいました。歌を歌い積み木を積み輪になって踊りながら数や言葉を自然に身につけていくのです」
この説明を聞いた生徒たちの反応は、様々であった。ある生徒は深い興味を示し、さらに詳しい説明を求めた。またある生徒は、そのような教育の在り方がこれまで自分が受けてきた教育とはあまりにも異なるため、当初は戸惑いを見せた。だが信三が、丁寧にフレーベルの思想の背景――子どもを自ら育つ力を持つ「種」として捉える人間観を説明していくにつれ、多くの生徒たちが次第にその思想の新鮮さと深さに心を動かされていくようになった。
「日本にも、そのような場所が必要なのでしょうか」
「必要だと、私は思います。子どもたちの中には、それぞれ育つべき種があります。その種を、大切に育てる場所がこの国にもあるべきだと私は考えています」
その言葉を口にする度に、信三の中で、英国で得た確信が、より明確な形を、取り始めていった。この生徒たちとの日々の対話の積み重ねが信三にとって、これから幼稚園という具体的な事業を、この国に根付かせていくための重要な準備の期間となっていったのである。
◇第三話
この頃、信三の身の回りの世話をしていた下宿先の女将が、ある日彼に一つの話を持ちかけた。
「関さん。あなたも、もう三十を過ぎておられます。そろそろ、身を固められてはいかがですか」
信三はその言葉に当初、戸惑いを覚えた。彼は、これまでの人生の中で自分自身の身の上についてそのような形で誰かから率直に意見されることがほとんどなかった。
僧としての身分にあった頃は、婚姻という概念そのものが彼の人生の外にあった。任務者としての日々の中では、名を変えて身を偽ることに常に追われ続けていた。
そしてお雪との別れ以来、彼は自分自身の私的な生活について深く考えることを意識的に避け続けてきたのである。
しかし、女将の言葉にはある種の率直で温かい配慮があった。
「あなたはいつも忙しく働いておられます。しかし家に帰った時、誰かがあなたを迎えてくれる場所があってもよいのではないでしょうか」
この言葉は、信三の中で静かに響いた。彼は、これまでの人生の中で幾度も深い孤独を、経験してきた。痛みの中で、彼は常に一人でそれらに向き合ってきた。中村が、帰国の折に語ったあの言葉が思い出される。
「これからは、お前を、支える者が、傍にいてもよいのではないか」
――その言葉が、この時再び信三の胸に静かに浮かび上がってきた。
女将が、信三に紹介したのは旧幕臣の家に生まれた、はると名乗る女性であった。はるの父は、旧幕府の下級役人であったが明治維新によってその職を失い、家は決して豊かではなかった。はる自身は、この時代の急激な変化の中で多くの旧幕臣の娘たちがそうであったように自らの将来について多くの不安を抱えながらも静かにしかし確かな芯を持って日々を過ごしていた。
初めての見合いの席で信三は、はるにこれまでの自分の人生についてどこまで語るべきか、幾度も迷った。これまでの複雑な経緯を初対面の相手にどのように伝えるべきか彼には簡単な答えがなかった。
結局信三ははるに、これまでの経緯の大まかな輪郭だけを静かに語った。
「私は、これまで幾度も名前を変え、幾度も生きる場所を変えてきました。今の私は、その果てにようやく見出した一つの仕事に専心しています」
はるは、その話を静かにしかし、深い関心を持って聞いていた。
「その仕事とは、どのようなものですか」
「幼い子どもたちのための新しい教育の場を、この国に作ることです。まだ、多くの人には理解されていない仕事です」
はるは、その言葉にしばらく考え込むような表情を見せた。それから、静かに答えた。
「理解されないことを恐れずに、進めるということは簡単なことではないと私は思います。そのようなお仕事に心を尽くしておられるあなたを私は、支えたいと思います」
その言葉は、信三の胸に深く静かに響いた。彼は、はるの、この静かでしかし、確かな言葉にはこれまで経験したことのないある種の安らぎがあった。それは、彼の「なぜ」という問いそのものに、深く踏み込んでくるものではなく、むしろ、その問いを抱えながら生きる彼という一人の人間そのものをそのまま受け入れようとする、静かな在り方だったのである。
そして明治七年の秋。信三とはるは、正式に夫婦となった。式は、決して大掛かりなものではなかったが中村もその場に姿を見せ二人の門出を静かに祝福した。
◇第四話
結婚から半年ほど経った、明治八年四月十五日、信三とはるの間に初めての子どもが生まれた。男の子だった。
この子の誕生は、信三にとってこれまでの人生の中で経験したことのない種類の深い、そして静かな喜びをもたらすものであった。彼はこれまで、幾度も自分自身の内側にある「なぜ」という問いに向き合い続けてきた。しかし、このまだ何も語ることのできない、小さな命を初めて抱いた時彼の中に湧き上がってきたのは問いではなく、ただ深い言葉にならない慈しみの感情であった。
この子に、どのような名を与えるべきか信三は幾日も考え続けた。はるは信三に名付けを任せた。
「あなたが、この子の父です。あなたがこの子にどのような願いを込めたいか、それを名前にしてください」
信三は、幾晩も灯りの下で思いを巡らせた。彼の脳裏には、幾度も少年時代の記憶が思い出された。
安休寺の本堂や父が読む経典、そして灯明の火が浮かび上がってきた。彼は、僧としての身分を既に失っていた。しかし、彼の内側には依然として少年時代に触れた、あの仏の教えの一部が静かに消えることなく残っていた。
その中でも、彼の心に、特に深く残っていたのが、阿弥陀仏の「四十八願」という教えであった。それは、阿弥陀仏がすべての人々を救うために立てたとされる、四十八の誓いであり、少年時代に彼が経典の中で幾度も目にしてきた言葉であった。あの頃の彼は、この教えの意味を深くは理解していなかった。しかし、四十八という数字の中に込められたすべての人を一つも取り残さずに救おうとするその広大な願いの姿には、幼い頃から心を動かされるものがあった。
信三は、この自分がかつて生きた世界の静かな、しかし確かな敬意を込めてこの子に四十八という名を、与えることにした。
「四十八……珍しい名ですね」
はるが、そう言った時信三は静かに微笑んだ。
「私がかつて、離れた場所からの静かな贈り物のようなものです。この子がいつかこの名の意味を自分自身で見つけてくれればと私は、願っています」
はるは、その説明を完全には理解できなかったかもしれない。しかし、彼女は信三がこの名に深くそして、静かな思いを込めていることをはっきりと感じ取っていた。
「良い名だと思います。この子がその名の重みに恥じない人間に育ってくれることを私も願います」
四十八は、健やかに育っていった。信三は、幼稚園創設というこれから始まる大きな事業への準備の中で日々、忙しく過ごしていた。だが、家に帰り我が子の顔を見る時間は、彼にとってこれまでの人生では経験したことのなかった静かな安らぎの時間となっていった。
彼は四十八のまだ言葉を持たない、しかし確かな意志を持った小さな手の動きを見つめながら、子どもの内側にある育つべき種という考えをこの我が子という最も身近な存在の中で、改めて実感するようになっていった。
第五話
明治九年。東京女子師範学校に附属幼稚園を開設するという計画が正式に立ち上がった。これは、日本において初めての幼稚園の設立という歴史的な事業だった。
この計画が立ち上がった背景には、明治政府自身の教育制度への強い関心があった。政府は、この国を西洋列強に伍する近代的な国家へと急速に発展させることを強く求めていた。そのためには、教育制度そのものを根本から近代化していく必要があると政府内の開明的な人々は考えていた。
幼児教育という、これまでこの国には存在しなかった概念を正式な制度として導入することはその近代化の重要な一環として位置づけられていたのである。
この計画において、信三は、初代の監事――幼稚園全体の運営を統括する役割に任命された。その知らせを受けた時に信三はこれまでの人生で経験してきた様々なこと、破邪僧としての任務や通詞としての仕事、そして教師としての日々が、この一つの役目に向かって収斂していくような感覚を覚えた。
この任命は信三にとって単なる一つの職務の拝命という以上の深い意味を持つものであった。彼はこれまでの人生の中で常に何らかの外側から与えられた枠組みの中で、自分自身の在り方を模索し続けてきた。しかし、この監事という役目は、彼が、英国での学びを通じて、自らの意志で見出した確かな信念を直接、実践するための初めての本格的な機会であった。
この知らせを信三は家に帰り、はるに伝えた。生後一年になろうとする四十八を抱いたはるはその知らせを静かにしかし、深い喜びをもって受け止めた。
「あなたがずっと、追い求めてきたものがようやく形になるのですね」
「そうだ。しかし、これから多くの困難が待っているだろう」
「それでも、あなたは進むのでしょう」
信三は、静かに頷いた。はるは、その頷きにこれまでの幾度もの対話の中で、信三から聞かされてきた、彼の長い彷徨の歴史を改めて重ね合わせていた。彼女は、信三の過去のすべてを詳細に理解しているわけではなかった。しかし、彼がこの一つの事業にこれまでの人生の、すべての意味を賭けようとしていることははっきりと感じ取っていたのである。
しかし、幼稚園の開設には多くの困難が伴った。まず、幼児教育という概念そのものが、当時の日本社会において、ほとんど理解されていなかった。多くの人々は幼い子どもに遊びを通じた教育を施すという考え方に懐疑的だった。
「子どもは家で母親が育てればよいのではないか。なぜ、わざわざ学校のような場所に通わせる必要があるのか」
そうした声は、政府内部にも社会全体にも少なからず存在していた。
この懐疑の根底には、当時の日本社会における子育てについての伝統的な考え方である子どもの教育は、あくまで家庭の中で家族によって母親が担われるべきものであるという考え方が深く根を張っていたことだ。この考え方を、幼稚園という新しい制度がどのように乗り越えていくべきか、それは信三にとって避けることのできない大きな課題であった。
信三はこうした懐疑に対し、幾度もフレーベルの思想と英国で見た実践の意義を丁寧に説明しなければならなかった。彼は政府の役人たちとの会合、そして社会の様々な階層の人々との対話の中で繰り返し繰り返し幼児教育の意義を説き続けた。
さらに、資金と人材の不足も大きな課題だった。幼稚園の運営には、専門的な訓練を受けた保育者が必要だったが、当時の日本にはそうした人材はほとんど存在していなかったのだ。
◇ 第六話
この課題を解決するために政府は、ドイツからフレーベル教育を実際に学んだ経験を持つ松野クララを招聘することを決定した。クララはドイツで生まれ、フレーベルの創立した保母学校でフレーベルの思想を学び卒業している女性でドイツで知り合った日本人の松野礀と国際結婚した女性だった。
クララの招聘は、政府にとってこの幼稚園の開設事業を確かな専門性のもとに進めていくための重要な決定であった。クララは、ドイツでフレーベル自身が創設した保育者養成機関で正式な訓練を受けた経験を持っており、当時の日本においてフレーベル教育について最も深い、実践的な知識を持つ人物の一人であった。
信三が松野クララと初めて対面したのは、幼稚園開設の準備が本格化した頃だった。
クララは、これまで信三が接してきた日本人女性とはまた違う種類の確固とした自信と明るさを持つ人物だった。
「あなたが監事の関さんですね」
クララは、流暢な日本語でそう声をかけてきた。その声には、これから始まる大きな事業への静かなしかし確かな熱意が滲んでいた。
「英国で、フレーベルの教育を実際にご覧になったと伺いました」
「はい。まだ、多くを学んだとは言えませんがあの子どもたちの姿は今も、深く胸に残っています」
クララは、その言葉に大きく頷いた。
「私も、同じ思いです。子どもたちの中にはそれぞれ、育つべき種があります。私たちの役目は、その種を無理に急かすことなく丁寧に育てる庭を整えることです」
その言葉は、信三が英国で自ら見出した確信と、まったく同じものだった。二人は、この瞬間、互いの中に深い共鳴を見出した。この最初の対面において、信三とクララは互いが、この事業に対して、同じ深い理念的な基盤を共有していることをはっきりと確認することができた。それは、これから始まる幾多の困難を伴う事業に、共に力を合わせて取り組んでいくための確かな出発点となった。
この頃、信三は家庭においては四十八の父として、そして幼稚園の準備においては、監事として、二つの異なる、しかし、根底で深く繋がった役目を、同時に生きるようになっていた。
我が子の成長を見守る日々の中で得られる、細やかな観察は信三がこれから作り上げようとする幼稚園という場所の最も根源的で実践的な手本となっていったのである。
◇第七話
幼稚園の開設に向けた準備は信三とクララを中心に、急速に進められていった。園舎の設計、教材となる積み木や遊具の調達、そして保育に携わる保母たちの育成のそれらすべてを、一から築き上げていく作業だった。
園舎の設計にあたっては、信三は英国で見たキンダーガルテンの構造を、詳細に思い出しながら日本の建築様式に合わせた独自の工夫を、随所に取り入れていった。広い庭を備え、子どもたちが自由に身体を動かして遊べる空間を確保すること。
教室の中には子どもたちの目線に合わせた低い棚やテーブルを配置すること。それらの、細かな配慮の一つ一つが子どもの自然な成長をそっと支える環境を整えるというフレーベルの理念を具体的な形に、翻訳していく作業であった。
「日本の子どもたちには、日本の風土に合った独自の工夫も必要でしょう」
クララは、そう提案した。
フレーベルが考案した教材の恩物と呼ばれる様々な形をした積み木や、編み紐などの遊具をそのまま輸入するだけでなく、日本の伝統的な遊びの要素も取り入れていくべきだという考えだった。
「例えば、この国には古くから折り紙という遊びがあります。これも、子どもたちの手指の巧みさを育て想像力を育てる優れた教材になるのではないでしょうか」
この提案は、信三にとって深い納得をもたらすものであった。折り紙というこの国に古くから伝わる紙を折る遊びにはフレーベルの恩物の思想と驚くほど似た教育的な価値があった。一枚の紙を様々な形に折っていく過程には子どもたちの手指の巧みさ、そして空間的な想像力を育む確かな教育的な意義が既にこの国の伝統の中に静かに存在していたのである。
信三は、その提案に深く感銘を受けた。それは、単に西洋の教育をそのまま輸入することではなく、以前に中村が語った「学問を、この国の土壌に、どのように植え直すか」という課題への具体的な答えの一つだった。
この夜、信三は家に帰った後、四十八のために一枚の紙を試しに折ってみた。まだ、生後一年ほどの四十八には、折り紙そのものを理解する力はなかったが父の手の中で、紙が次第に船の形へと変わっていく様子をじっと、見つめていた。その幼い子の真剣な眼差しの中に、信三はこれから作る幼稚園の教材が確かに子どもたちの興味を引くはずだという静かな確信を、改めて深めていった。
◇第八話
開設の準備が進む中、信三は旧知の了念に久しぶりに手紙を書いた。
これまで幾年もの間、二人の間には何の連絡もなかった。しかし、この幼稚園の事業に取り組む中で信三は了念のことを幾度も思い出していた。
この手紙を書くという決断に至るまで、信三は、幾度も、逡巡した。了念と最後に会ったのはあの茶屋で「お前はもう、猶龍ではない」というあの厳しい言葉を掛けられたあの時の記憶は長い年月を経ても、信三の中で完全に消えることはなかった。
もし、了念がこの手紙にも返事をくれなかったら……その恐れが、信三の筆を幾度も止めさせた。
しかし幼稚園というこの新しい事業に全身全霊で取り組む中で信三は、これまでの人生の苦しかった経験も、喜びに満ちた経験のそれらすべてが今の自分を、形作っているのだということを深く実感するようになっていた。
その実感の中で、了念という少年時代からの最も大切な友人の存在をこれ以上放置しておくことに彼は耐えられなくなっていったのである。
手紙には、これまでの経緯を丁寧に記していた。信三は、この手紙の中で初めて了念へはると四十八の存在についても静かに触れることにした。
【俺は、かつてお前に猶龍という名を二度と語るな、と言われた。俺は、その言葉を今も、忘れていない。しかし、俺は今、この事業の中で、猶龍という名を持っていた頃の少年時代の自分自身と、改めて向き合っている。あの頃、俺の中にあった『なぜ』という問い……それを今、俺は子どもたちのために育てる場所を作ろうとしている】
【了念、お前がこの手紙を読んで何を感じるかは俺には分からない。ただ俺はお前との日々を、忘れることはできない。あの松の木の下で過ごした時間が今の俺を、確かに形作っている】
【もう一つ、お前に伝えておきたいことがある。俺はこの地で、はるという女性と夫婦になった。そして四十八という名の息子が生まれた。この名は少年時代、俺たちが共に経の中で目にしたあの四十八願からとったものだ。お前が、この名の由来を誰よりも正しく理解してくれるだろうと、俺は思っている」
この手紙は了念のもとに届いたかどうか。了念はこの手紙を読んだのか――それを、信三が知ることはなかった。
しかし、この手紙を書くという行為そのものが信三にとって自分自身の過去との静かな和解の一つの形だった。
◇第九話
明治九年十一月、東京女子師範学校附属幼稚園がついに、正式に開設された。
日本において、初めての幼稚園の誕生だった。
開設のこの日を迎えるまでの数ヶ月間、信三とクララ、そして彼らを支える保姆(※)たちはまさに寝る間も惜しんで準備を進めてきた。
(※戦前までの保育士・幼稚園教諭の呼称。戦後に学校教育法と児童福祉法の制定により幼稚園教諭、保母となる。その後、児童福祉法の改定により保育士となる)
園舎の最終的な整備、教材の配置、そして開設式の準備の作業は開設の前日まで続けられていた。
信三は開設の前夜、ようやく静まった園舎の中を一人で最後まで見回った。
整然と並べられた積み木、壁に飾られた、子どもたちの目を楽しませるための、様々な絵――それらすべてを見つめながら、彼はこれまでの長い、長い道のりを静かに振り返っていた。
この前夜、信三は珍しく、早く家に帰った。はるは、既に一歳半ほどになった四十八を、寝かしつけていた。信三は、静かに眠る我が子の顔を、しばらく見つめていた。
「明日、いよいよ開園式だ」
「あなたがこれまで、ずっと目指してきた場所ですね」
「そうだ。しかし、俺一人の力ではない。お前がこの家をいつも静かに支えてくれたからこそ俺はこの事業に専心することができた」
はるはその言葉に、静かに微笑んだ。
「それが私にできる、あなたへの支えです」
開設の日、園舎には幼い子どもたちが母親や乳母に連れられて次々と訪れた。彼らの多くは、これまで家の中だけで過ごしてきた子どもたちだった。
園舎の中に足を踏み入れた時、彼らの目には戸惑いとそして強い興味の色が入り混じって浮かんでいた。
信三はその日園舎の入り口に立ち、子どもたちを迎える役目を務めた。一人一人の子どもの顔を見る度に、彼はかつて英国のキンダーガルテンで見た蟻の行列を見つめていた子どもの姿を思い出した。
「アリさんたちが、どこに行くのか、知りたいの」
あの子どもの言葉が、信三の耳に今も鮮明に響いていた。この園舎に集う日本の子どもたちの中にもそれぞれ、同じように育つべき種が、確かに宿っているはずだ。
彼の脳裏には家で眠る四十八の顔も、静かに重なり合っていた。この園舎に集う子どもたちの一人一人が、いつかその中に宿る種を、確かに育てていってくれることを信三は静かに願っていた。
クララと保姆たちは子どもたちを輪になって座らせ、歌を歌い始めた。
最初は戸惑っていた子どもたちも次第にその歌声に引かれ、小さな声で共に歌い始めた。その光景を信三は園舎の隅から静かに見つめていた。
◇第十話
幼稚園の運営が始まってからも信三とクララは、日々新たな課題に向き合い続けた。子どもたちの年齢や個性に応じた遊びの工夫、保姆たちの育成、そして社会全体の幼児教育への理解を広げていくための努力のそれらは、一つも容易な仕事ではなかった。
保姆たちの育成は、特に大きな課題であった。当時の日本にはフレーベルの教育思想について体系的に学んだ経験を持つ者はクララを除いてほとんど存在しなかった。信三とクララは、幼稚園の運営と並行して保姆となる女性たちのための教育プログラムを一から構築していかねばならなかった。
この作業にはフレーベルの理論を日本語に翻訳し、日本の女性たちにも理解しやすい形で体系化していくという地道なしかし重要な仕事が含まれていた。
しかし、信三はこの日々の中にこれまでの人生では経験したことのなかった深い充実感を見出していた。それは任務のための使命感でもなく、消えることのない疑問の炎でもなく目の前の、一人一人の子どもたちの成長を直接、見守ることができるという地に足のついた確かな喜びだった。
ある日、園舎の庭で、一人の少女が積み木を使って何かを組み立てようとしていた。
しかしうまく組み立てられず、少女は次第に苛立った表情を見せ始めた。
「先生、できません」
少女がそう言った時、信三はすぐに手を貸そうとはしなかった。代わりに静かに少女の隣に座り問いかけた。
「どんな形を作りたいのですか」
「お家を作りたいの」
「では、まずどの積み木を下に置けば、しっかりと立つと思いますか」
少女は、しばらく考えてそれから、大きな積み木を、慎重に下に置いた。その上に、少しずつ、他の積み木を積み重ねていく。何度か崩れながらも、少女は諦めることなく試行を繰り返した。ついに小さなお家が完成した時、少女の顔にはこれまでにない、誇らしげな笑顔が広がった。
その光景を見つめながら、信三はフレーベルの思想の実際の姿を初めて完全な形で実感することができた。この少女との、小さなしかし確かな一つの出来事は、信三にとってこれまでの、理論としての理解を実践という生きた経験へと深く根付かせる重要な機会となったのである。
◇第十一話
幼稚園の存在が次第に社会に知られるようになるにつれ、信三のもとには他の地域からも幼稚園設立への協力を求める声が届くようになっていった。信三は、これらの依頼に可能な限り応じ、日本各地への幼児教育の理念の普及に力を尽くしていった。
これらの依頼の多くは、東京女子師範学校附属幼稚園の成功の噂を聞いた地方の教育関係者や開明的な役人たちからのものであった。信三は時に直接、地方へ足を運びその土地の実情に応じた幼稚園設立の助言を行った。また、時には東京女子師範学校で学んだ卒業生たちを地方の幼稚園の保姆として送り出すという形での支援も行った。
この頃、信三はしばしば深夜まで幼稚園の運営に関する書類を整理し、またフレーベルの思想をより多くの人々に伝えるための講演の準備に時間を費やした。
その働きぶりを見てクララは時に信三の健康を気遣った。
「関さん。あなたは、少し無理をしすぎているのではありませんか」
クララがそう言った時、信三は静かに笑った。
「私は長い間、拠り所のない日々を過ごしてきました。今、ここに確かな拠り所を見出せたことが、私には何よりも大きな喜びなのです。多少の無理をしても、この喜びを他の場所にも広げて……種を蒔いていきたいのです」
その言葉にはこれまでの幾度もの彷徨を経て、ようやく見出した使命への深いそして静かな覚悟が、込められていた。信三は、これまでの人生の中で幾度も自分の拠り所を失う経験をしてきた。しかし、それらの痛みを経てようやく見出したこの幼稚園という拠り所を彼は、これ以上ないほどの熱意をもって育てようとしていたのである。
しかし、この際限のない多忙さは家庭にも静かに影を落としていった。信三の収入は、教師としての俸給に限られており決して豊かなものではなかった。そこに、四十八の成長に伴う費用、そしてまもなく生まれることになる二人目の子どものための費用が重なっていった。はるは信三にその苦労をあからさまに訴えることはなかったが、日々の家計を切り詰める中で静かで確かな重圧を感じ続けていたのである。
◇第十二話
明治十年の春。信三とはるの間に、二人目の子どもが生まれた。女の子であった。信三は、この子に、なつという名を与えた。
なつの誕生は信三とはる、そしてまだ二歳になったばかりの四十八にとって大きな喜びをもたらすものであった。
しかし、この喜びの傍らには次第に重く、深刻な問題が静かにしかし確実に育っていくことになった。
この頃、はるの遠縁にあたる家が長年子どもに恵まれず、養子を求めているという話がはるのもとに届いた。
その家の主人は既に初老に近づいており、家の存続のために早急に跡継ぎとなる子どもを必要としていたのである。
「なつを養女に出してほしいという話が来ています」
ある夜、はるが信三に切り出した時信三は、深い動揺を覚えた。
「なぜ、そのような話が来るのだ」
「あの家は長く、子どもに恵まれませんでした。私の父の代からの深い縁のある家です。あちらは女の子でもよいと、仰っています。もし私たちの家に二人目の男の子が生まれれば、それも良いのでしょうが……」
はるの言葉には、明確には語られない多くの事情が含まれていた。当時の日本において、養子や養女に出すという慣習は、決して珍しいことではなかった。子どもに恵まれない家に跡継ぎを、あるいは家の存続を支える子を他の家から迎え入れるということはこの時代の、社会の在り方の確かな一部であった。
しかし、それが自らの実の娘に関わることとなった時、その重みは、はるにとっても信三にとってもこれまでのどの困難とも異なる、深い痛みを伴うものであった。
信三は、幾晩もこの問題について一人で考え続けた。彼自身の、経済的な状況である幼稚園の監事としての、決して高くはない俸給、そして、日々増えていく、教育の普及のための、様々な、無償の働きなどのそれらを考えると、彼の家が二人の子どもをこれから十分な教育を与えながら、育てていくことには確かに大きな困難が伴うだろうという現実を彼は、痛いほど理解していた。
同時に信三の中には、これまで幾度も大切なものを手放さねばならなかったこれまでの経験の記憶が、静かに蘇っていた。今、我が娘を養女に出すという選択はそれらの過去の別れとは、またまったく異なる深い痛みを伴うものであった。
「はる。俺は、これまでの人生で幾度も大切なものを手放してきた。しかし、この選択は、そのどれよりも辛いものかもしれない」
「私も同じ思いです。この子は……なつは、私が産んだ私の子です。しかし、あの家に行けばなつは、私たちの家よりも豊かな暮らしを得られるでしょう。それが、この子にとって良いことなのかもしれません」
二人は幾晩もの深い静かな対話を重ねた末、この痛みを伴う決断を下すことになった。
なつが、まだ一歳にもならない頃にはるの遠縁の家へ養女になることが決まった。
なつをその家に送った日、信三ははると共にその家の門前で、しばらく立ち尽くしていた。門の中に小さな娘の姿が消えていくのを見送りながら、信三の胸にはこれまでの人生の様々な別れの記憶が静かに重なり合っていった。
「いつか、あの子が大きくなった時、俺たちのことを恨むだろうか」
信三が、そう静かに呟いた時、はるは涙をこらえながら答えた。
「恨まれることを恐れてなつの将来を、狂わせるわけにはいきません。私たちは、なつにとって、最も良いと思う道を選んだのです」
その言葉に信三は静かに頷くしかなかった。
◇第十三話
開設から半年ほど経った頃、信三のもとに一通の手紙が届いた。
差出人の名を見た時、信三の手はしばらく震えた。了念からの返信だった。
封を開ける前、信三は長い間、その手紙を手の中でじっと見つめていた。
手紙の中身は決して長いものではなかった。しかし、そこに記された一つ一つの言葉は信三の胸に、深く静かに染み渡っていった。
【猶龍。いや、今は信三と呼ぶべきだろう。お前の手紙を幾度も読み返した。俺はあの時、お前を強く責めた。お前が仏門の教えを捨てたことを、俺は許すことができなかった】
【しかし、お前が子どもたちのための場所を作ろうとしていると知り、俺の中で何かが変わった。仏門もお前が今、為していることも結局は、人がより良く生きるための道を示すものではないかと俺は思うようになった】
【四十八という名の由来を俺はすぐに理解した。お前は寺を離れても、あの教えを忘れてはいなかったのだな。それを知り、俺はこれまでのお前へのわだかまりが静かに解けていくのを感じた】
【俺は、今もこの寺で経を読み続けている。お前とは、違う道だ。しかし、お前がお前の道を心から信じて進んでいるのなら、俺はそれを遠くから見守りたいと思う。お前の家族の、これからの幸せを俺もこの寺で静かに祈っている。遅くなったが、結婚おめでとう】
この手紙を読み終えた時、信三の目には涙が浮かんでいた。それは悲しみの涙ではなかった。長い間、彼の胸の奥に静かに残っていた了念との決別の痛みが完全に消えたわけではなかったが、少なくとも和解への確かな一歩を踏み出せたことへの深い安堵の涙だった。
この手紙を受け取った夜、夢を見た。
生まれ育った故郷の三河の寺、そしてあの松の木の下には了念がいて一番幸せだったと思う記憶……何も知らなかったあの頃のことを。
◇第十四話
幼稚園の存在が社会に広く知られるようになるにつれ、信三とクララは依然として様々な反発や誤解と向き合わねばならなかった。
ある新聞は幼稚園の教育を【子どもを甘やかすだけの無駄な事業】と批判する記事を掲載した。
その記事を読んだ時、信三は深い苦悩を覚えた。彼がこれまでの人生の彷徨の末にようやく見出したことを社会の一部からはまったく理解されていないという事実に彼は改めて直面させられた。
この批判は、単に幼稚園という新しい教育機関への懐疑だけでなく、より広く当時の日本社会における教育というものについての伝統的な考え方である【教育とは、規律と、暗記による、知識の伝達であるべきだという考え方】と、フレーベルの思想である【子どもの自発性と、遊びを通じた学びを重視する考え方】との間の深い対立を反映するものであった。
「このような批判は、これからも続くでしょう」
クララは、その記事を読みながら静かにしかし力強く言った。
「新しいことを始める時には、必ず理解されない痛みが伴います。しかし、私たちは子どもたちの姿を、実際に見てきました。彼らが遊びの中で確かに成長していく姿を私たちは、知っています。その事実こそがいつかこうした批判を覆していく力になるはずです」
クララの言葉は信三に、深い勇気を与えた。彼は、この批判に対し直接的な反論を書くことよりも幼稚園での日々の実践をより丁寧に、より着実に積み重ねていくことを選んだ。
ある月、信三は幼稚園の様子を政府の視察団に直接見てもらう機会を設けた。
視察団の中には、当初懐疑的な態度を見せていた役人もいた。しかし、子どもたちが積み木を積み、歌を歌いた、輪になって踊る姿を実際に目にした後、その役人の表情は明らかに、変化していた。
「これは……思っていたよりも、はるかに、意味のある教育のようですね」
その言葉を聞いた時、信三は少しずつ実を結び始めていることを静かに、しかし確かに感じ取ることが出来た。
◇第十五話
幼稚園の運営が、次第に安定していく中で信三とクララの間には単なる同僚としての関係を超えた、深い信頼関係が育まれていった。二人はしばしば、閉園後の静かな園舎でこれからの幼児教育の未来について語り合った。
この閉園後の静かな時間は信三とクララ、双方にとって日々の激務の中で貴重な心の安らぎの時間であった。園舎全体が静寂に包まれる中、二人は時に、フレーベルの著作のより深い解釈について、日々の保育の中で出会った個々の子どもたちの興味深い成長の様子について、様々な話題を静かに語り合った。
「関さん、あなたはなぜこんなにも子どもたちの教育に心を尽くすのですか」
「私は、幼稚園という場所で子どもたちの種を丁寧に育てるべきだと説いています。しかし、私自身の娘についてはその育つ環境を自らの手で決めることができませんでした」
クララは、その話を深い共感をもって聞いていた。
「それは、あなたにとって大きな痛みだったでしょう」
「はい。これまでたくさんの痛みを経験したからこそ、私はこの幼稚園という場所の本当の重みをより深く理解できたのかもしれません。ここに集うすべての子どもたちがそれぞれの家庭の事情の中でこの場所に辿り着いています。その一つ一つの事情の重さを私はこれからも忘れずにいたいと思います」
クララは、その言葉に静かに頷いた。
「あなたの人生は、まるで一つの長い問いの旅のようですね」
「そうかもしれません。私は、少年の頃から常に何かに『なぜ』と問い続けてきました。その問いは多くの拠り所を失う痛みを、私にもたらしました。しかし今、私はその痛みの先に、この場所……子どもたちの問いを、大切に育てる場所を見出すことができました」
「あなたが見出したものは、これから多くの子どもたちの人生を変えていくことになるでしょう」
その言葉に信三は、静かに頷いた。彼の胸の中にはこれまでのどの時期にもなかった深い静かな充実感が確かに根を張り始めていた。
◇第十六話
幼稚園には様々な個性を持つ子どもたちが集まっていた。その中に、他の子どもたちとうまく馴染めず、しばしば一人だけ、部屋の隅で癇癪を起こす少年がいた。名を、清太といった。
清太は他の子どもが積み木で何かを作っているとその積み木を乱暴に崩してしまうことが、幾度もあった。保姆たちの間では清太を一時、幼稚園から遠ざけるべきではないかという声も出始めていた。
この清太という少年の存在は、信三にとってフレーベルの思想の実践における最も困難な、しかし最も重要な試練の一つとなった。理論として子どもの内側にある種を丁寧に育てるべきだと理解することと実際に、日々問題行動を繰り返す一人の子どもに根気強く向き合い続けることとの間には大きな距離があった。
「あの子は、悪い子ではありません」
信三は、そう言って保姆たちをなだめた。
「あの子の中には、まだうまく言葉にできない何かが渦巻いているのでしょう。それを乱暴という形でしか表せていないだけなのです」
この言葉を口にした時、信三はふと自分自身の少年時代を思い出していた。彼自身も幼い頃、自分の内側にある問いをうまく言葉にできず、父や周囲の大人たちを戸惑わせることがあった。清太の乱暴な行動と少年時代の自分の納得できない表情は、表面的には大きく異なるものであったが、その根底には内側に渦巻く何かをうまく表現できないという共通の苦しみがあるのではないかと信三は感じ始めていた。
信三は、清太に特別な時間を割くことにした。他の子どもたちが輪になって歌う時間、信三は清太と共に園庭の隅に座り、静かに木の枝や石を使って何かを作る遊びを一緒に行った。
「お前は、何を作りたいのだ」
信三が問うと、清太は最初は何も答えなかった。しかし、幾日か同じ時間を共にするうちに、清太は少しずつ心を開き始めた。
「僕は……船を作りたい」
「船か。それは、良い考えだ。では、まず、この木の枝を船の底にしてみようか」
二人は、幾日もかけて小さな丁寧な船の模型を作り上げていった。完成した日、清太はその船を他の子どもたちに誇らしげに見せた。それを見た他の子どもたちも、清太をこれまでとは違う目で見るようになっていった。
この出来事を通じて、信三はフレーベルのもう一つの重要な側面である子どもの荒々しい行動の奥にも、必ず、育てるべき何かが、潜んでいるということという思想を深く実感することになった。
◇第十七話
幼稚園に子どもを通わせる母親たちの中にも、当初は幼児教育に強い懐疑を抱く者が少なくなかった。その一人が、清太の母親だった。
「うちの子は、家で私が見ていれば、それで十分なのです。なぜ、わざわざこんな場所に通わせる必要があるのですか」
清太の母親は、幼稚園に子どもを預ける度にそうした不満を幾度も信三やクララにぶつけた。この母親の懐疑には、単なる幼児教育への理解不足だけでなく、清太自身の幼稚園での問題行動――積み木を崩し他の子どもたちとうまく馴染めない様子への深い心配も含まれていた。彼女は、自分の子どもがこの新しい教育の場でうまくやっていけるのかどうか常に不安を抱えていたのである。
しかし、清太が船の模型を作り上げ他の子どもたちと少しずつ、心を通わせるようになっていく姿を実際に見るにつれて彼女の態度は次第に変化していった。
「先生。うちの子が家であんなに落ち着いて何かに取り組む姿を見せたのは初めてです」
ある日、清太の母親は信三にそう語った。その声には、これまでの懐疑とはまったく違う、静かな驚きと感謝の色が滲んでいた。
「あの子の中には、私が知らなかった、大きな力が、あったのですね」
「その力はもともと、清太さんの中にあったものです。私たちは、ただその力が自然に現れる場所を整えただけなのです」
この母親の変化は、幼稚園の意義を社会に広めていく上で大きな力となった。彼女は、その後、周囲の他の母親たちにも幼稚園での経験を熱心に語るようになっていったのである。この、一人の母親の心の変化が周囲の他の懐疑的な母親たちの心にも、少しずつ影響を及ぼしていく様子を信三は、静かにしかし深い喜びをもって見守っていた。
◇第十八話
明治十一年の冬、信三とはるの間に三人目の子どもが生まれた。再び、女の子であった。信三は、この子に「まつ」という名を与えた。
まつの誕生は、なつを養女に出したというあの深い痛みを伴う経験の後、信三とはるにとって複雑な、しかし、確かな慰めをもたらすものであった。信三はこの新しい命を抱いた時、なつのことを幾度も静かに思い出していた。
「まつは、私たちの手で育てることができる」
信三は、はるに静かに確かな決意を込めて言った。
「あなたは、それを恐れていますか」
「恐れている。もし、また同じような事情がこの家に降りかかったら――そう考えると、俺は、まつをしっかりと抱きしめることさえ時に、怖くなる」
はるは、その言葉に静かに、しかし、力強く、答えた。
「その恐れを、抱えながらも、あなたは、まつを、こうして、抱いています。それが、あなたにできる、今の、確かな答えなのだと、私は、思います」
信三は、その言葉に深く、頷いた。彼は、これまでの人生の中で、常に「なぜ」という問いを抱え続けてきた。しかし、この、まつという新しい命を前にして、彼は初めて問いへの答えを、完全に見出すことよりも答えの見えない不安を抱えながらも、目の前のこの小さな命を、大切に育てていくことそのものに深い意味があるのだということを実感するようになっていた。
◇第十九話
幼稚園の運営が三年目に入る頃、信三は、時折これまでにはなかった、身体の疲労を感じるようになっていた。長年の激務だった昼は幼稚園の運営、夜は書類の整理と講演の準備が、彼の身体に負担を積み重ねていたのである。
この疲労は、単に日々の激務の蓄積だけによるものではなかった。長年にわたる、精神的な重圧の蓄積も彼の身体に、静かに、影響を及ぼしていたのかもしれなかった。
「関さん、近頃、少し、顔色が良くないようです」
クララが、そう気遣うことも増えていった。信三は、その度に「大丈夫です」と軽く答えるだけだった。しかし、彼自身、時折胸の奥にこれまでにはなかった重い痛みを感じることがあった。
家に帰った時も、はるは信三の日に日に増していく疲労の色を見逃さなかった。
「あなたは、少し休むべきです。四十八も、まつも、あなたがいつも忙しく疲れた様子で帰ってくることを心配しています」
「分かっている。しかし、俺にはまだ、為さねばならぬことが多く残っている」
それでも、信三は日々の仕事を緩めることはなかった。彼にとってこの幼稚園という場所は、これまでの人生のすべての彷徨の果てにようやく見出した確かな意味の在り処だった。その意味を、少しでも長く多くの子どもたちに届けたいという思いが彼を休むことなく働かせ続けていた。
ある晩、信三は、家族が既に眠りについた後に一人で縁側に座り、夜空を見上げていた。故郷の三河で見た星空、英国の海の上で見た星空が、今目の前に広がる東京の夜空と静かに重なり合った。
「俺は、ようやく、自分の場所を見つけたのだろうか」
その問いを、信三は、自分自身に投げかけた。答えは、はっきりとは見えなかった。しかし、彼の胸の中には、これまでのどの時期にもなかった深い充足感が確かに存在していた。彼は家の中で眠るはると四十八と、まつの、静かな寝息に耳を澄ませながら、この今、自分が守るべき小さなしかし確かな世界の重みを改めて、静かに感じ取っていた。



