◇第一話
その知らせが横浜に届いたのは、慶応の年号に入って間もない頃だった。
幕府が、ヤソ教に対する取り締まりの方針を大きく緩めるという知らせだった。表向きには、まだ禁教は解かれていない。しかし、開港地における外国人の信仰活動はこれまでのような激しい弾圧の対象からは事実上外れつつあった。
この知らせが横浜の町に広がっていく様子を信三――もはや、この頃には劉太郎という名も、次第にその重みを失いつつあったが、複雑な思いで見つめていた。この数年、幕府と諸外国との間で結ばれた条約の積み重ね、そして国内における攘夷と開国をめぐる政治的な緊張の変化すべてが、少しずつこの一つの方針転換へと、収束していったのである。
かつて、村の男たちが黒船の噂に恐怖と興奮を見せていた頃から既に十年以上が過ぎていた。その間、この国はゆっくりとしかし確実に、これまでとは異なる姿へと変貌を続けていた。
この知らせは、劉太郎の周囲に複雑な波紋を広げた。信徒たちにとっては、長年の恐れから、わずかに解放される喜びの知らせだった。施療所には、これまで隠れて祈っていた者たちが少しずつ、表に姿を見せるようになっていった。バラの表情にも、これまでにはなかった明るい安堵の色が見えた。
施療所の空気そのものが、この知らせによって大きく変わった。以前は、信徒たちが集まる時、常に周囲を警戒するような、緊張した雰囲気があった。しかし、この知らせの後の彼らの祈りの声は、以前よりも幾分大きく幾分自由に、聞かれるようになった。
集会の場にこれまで見かけなかった、新しい信徒たちの顔も次第に加わるようになっていった。バラは、この変化を深い喜びをもって迎えていた。彼は、これまでの苦難の日々が、ようやく少しずつ、報われようとしているのだと感じているようだった。
しかし、劉太郎自身にとって、この知らせはまったく異なる意味を持っていた。彼がこれまで担ってきた任務……その存在意義そのものが、根本から揺らぎ始めたのである。
この任務の意義の揺らぎは、劉太郎にとって単なる仕事上の変化ではなかった。彼が、この数年間、名を変えて故郷を離れ、心を偽りそして、深い葛藤を抱えながら生きてきたその全ての基盤が、根底から崩れ始めているという感覚であった。
もし、ヤソ教がもはや、宗門にとって、深刻な脅威ではなくなるのであれば、彼が長崎で、そして横浜で経験してきたあの苦悩――伝兵衛との対話、お雪との出会い、バラとの問答、そして、幕吏たちとの緊迫した対面――それらの意味は、いったい、どこに位置づけられるべきなのか。
宗海からの連絡は、以前よりも間隔が空くようになった。
そして、ある日届いた手紙にはこれまでにない、乾いた響きの言葉が並んでいた。
【本山は、この任務の縮小を決定した。お前の報告は、これまでよく務めを果たしてきた。しかし、時代が変わりつつある今、この任務が持つ意味も、大きく変わらねばならぬ。追って、次の指示を待て】
劉太郎は、その手紙を何度も読み返した。務めを果たしてきた、という言葉の中に労いと同時に終わりの予感が静かに込められているのを感じた。この手紙には、これまでの宗海からの手紙に見られた任務の詳細への言及や具体的な指示が、ほとんど見られなかった。それは、宗海自身がこの任務の先行きについて既に、明確な方向性を持てなくなっていることの静かな表れであったのかもしれない。
劉太郎は、この手紙を宿の一室で、幾度も読み返した。灯りを落とした部屋の中で、彼は、これまでの数年間を、静かに振り返った。
父の書斎で、この任務を受け入れると答えた日のこと。
了念との、松の木の下での別れ。
母の、涙を見せた最後の夜。
長崎での、名を変えた瞬間の亀裂の感覚。そして、横浜での、お雪との出会い。
それらすべてが、一つの大きな流れの中にあったはずだった。
しかし今、その流れそのものが意味を失いつつあるという事実を、彼はまだ、完全には受け入れることができなかった。
◇ 第二話
この時期の劉太郎の内側には、奇妙な虚脱感が広がっていた。長年、彼を動かしてきた任務という軸が、時代の変化によって急速にその重みを失っていくのを、彼はただ傍観するしかなかった。
この虚脱感は、これまで劉太郎が経験してきた様々な種類の苦悩とは、明らかに異質なものであった。任務の危険性への恐怖、信徒たちへの共感と任務との矛盾、お雪への思いと任務者としての立場との葛藤は、いずれも彼が何かに対して強く向き合っていることから生じる苦悩であった。
しかし今、彼が感じているのは向き合うべき対象そのものが、次第に輪郭を失っていくことへの、より根源的な不安であった。
自分はこれまで何のために名を変え、故郷を離れ、心を偽り続けてきたのか。
任務が意味を失うのであれば、その過程で自分が経験してきたすべては、いったい何だったのか。
劉太郎は、この問いを幾度も、自分自身に投げかけた。しかし、その度に明確な答えを見出すことはできなかった。
ただ、一つだけ、はっきりと感じられることがあった。それは、任務という枠組みがどれほど揺らごうとも、お雪との出会いやバラとの対話、信徒たちとの日々の中で彼自身の内側に育まれた、様々な感情や理解。
それらは、決して無意味なものではなかったということだった。それらは、彼という人間の、確かな一部として既に、彼の内側に深く根を張っていた。
劉太郎は、施療所を訪れる頻度を以前よりも増やしていった。しかし、そこにはもはや、任務としての大義名分はなかった。彼は、ただお雪に会うために、そしてバラの言葉を聞くために、その場所を訪れていた。この変化は、劉太郎自身にとって、ある種の解放であった。彼は、これまで常に、任務という建前を意識の片隅に置きながら、お雪やバラと接していた。しかし今、その建前が失われたことで彼は、初めて純粋に一人の人間として彼らと向き合うことができるようになったのである。
お雪は、この頃劉太郎の変化に気づいていたようだった。
「近頃、あなたは、以前よりも、よく笑うようになりました」
ある日、彼女がそう言った時劉太郎は、驚いた。自分でも気づかないうちに、彼の表情が変わり始めていたのだろう。
「そう見えますか」
「はい。以前は、いつも、何かを考え込んでいるような、硬い表情をされていました。今は、少し違います」
劉太郎は、その言葉に何か答えようとしたが、言葉が出なかった。任務という重荷が、少しずつ軽くなっていくのと同時に、彼の心の中でお雪への思いがこれまでにないほど、はっきりとした形を取り始めていることに彼自身も、気づき始めていたのである。
この頃、劉太郎とお雪の間には、以前にはなかったある種の穏やかな親密さが生まれ始めていた。
二人は、施療所の裏の畑で以前よりも頻繁にそして、以前よりも長く言葉を交わすようになった。会話の内容も、単なる薬草の話や信仰についての抽象的な問答からより個人的な、日々の些細な出来事についての、他愛のない語り合いへと変わっていった。
この変化は、劉太郎にとってこれまでの緊張と葛藤の日々の中では決して味わうことのできなかった、静かな幸福の時間であった。
◇第三話
しかし、その静かな安堵の時間は、長くは続かなかった。
ある夜、劉太郎は横浜の町の外れで、宗海本人と久しぶりに直接会うことになった。宗海の表情には、これまでにない深い疲労が滲んでいた。
宗海は、以前会った時よりも明らかに老け込んでいるように見えた。その姿には、長年、宗門のために様々な任務を統括してきた者としての、重い蓄積がはっきりと表れていた。
「劉太郎。お前に、正直に話さねばならぬことがある」
宗海は、そう切り出した。
「本山は、この任務全体の存在を、内々に、なかったことにしようとしている。禁教の緩和が進む中で、この任務がヤソ教徒たちへの弾圧の準備であったと知られれば、宗門にとって、大きな問題になる。だからこそ、この任務に関わった者たちの記録はすべて、静かに処分されることになった」
劉太郎は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「処分、とは」
「お前の安藤劉太郎という名の記録は、すでに本山の文書からは消されている。お前は、もはや、この任務に関わった者としてどこにも記録されていない」
その言葉は、劉太郎の胸に深い衝撃を与えた。数年間、命がけで務めてきた任務がまるで、最初から存在しなかったかのように消し去られようとしている。
この事実を聞いた瞬間、劉太郎の中に幾つもの感情が同時に押し寄せてきた。
一つは、深い怒りであった。彼が、命の危険を冒しながら忠実に遂行してきた任務が宗門の都合によって、あっさりと存在そのものを否定されるという不当さへの怒り。
もう一つは、奇妙な安堵であった。もし、記録が完全に消されるのであれば、任務の中で行った、様々な逸脱――お雪の名を報告書に記さなかったこと、幕吏たちへの慎重な報告などのそれらもまた、誰にも問われることなく静かに、闇の中に消えていくのだということ。
「では、私は、これから、どうすればよいのですか」
「お前次第だ。安藤劉太郎という名を捨て、猶龍という名に戻り故郷の寺に帰るのも良いだろう。あるいは……別の道を選ぶことも、できるだろう」
宗海のその言葉の奥に、劉太郎はある種の含みを感じ取った。それは、暗に劉太郎がお雪や信徒たちとの関わりを、宗海が既に見抜いていることを示唆しているように思えた。
「宗海様は、私が、あの人々のもとに留まることを、お許しになるのですか」
宗海は、しばらく黙っていた。それから静かに、しかし重い声で答えた。
「わしが許すも許さぬも、もう関係のないことだ。この任務そのものが、なかったことになるのだ。お前がこれから何を選ぶのかそれは、もはや宗門の関わることではない。お前自身の、人生の問題だ」
その言葉を最後に、宗海は劉太郎の前から姿を消した。
劉太郎が、宗海と直接顔を合わせたのは、これが最後だった。
宗海が去っていった後、劉太郎はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
宗海という人物との、これまでの関係を彼は、静かに振り返った。宗海は、彼にとって、単なる任務の上司ではなかった。
長崎での日々、宗海が語った自らの若き日の疑いの経験、そして鏡を見て自分の顔を確かめよという、あの忘れがたい言葉たちは、劉太郎の内側に深く刻まれていた。宗海との別れは、劉太郎にとって、もう一つの大きな喪失であった。
◇第四話
任務が消滅したという事実は、劉太郎に奇妙な自由と同時に、深い虚無をもたらした。彼は、もはや誰からの命令によっても動かされていない。
しかし、その自由の中で彼は、自分が本当に何を望んでいるのか、初めて正面から向き合わねばならなくなった。
この自由は、劉太郎にとってこれまで経験したことのない種類のものであった。
少年時代、彼は寺の子として父の期待の中で生きてきた。得度を経て、僧としての務めの中で生きてきた。そして、任務を受けてからは、宗門と幕府の意向の中で、名を変え、身を偽りながら生きてきた。
常に、彼の人生には、何らかの外側から与えられた枠組みが存在していた。しかし今、その枠組みが完全に取り払われた時、彼は、初めて自分自身の意志だけで、これからの人生を選び取らなければならない立場に置かれたのである。
彼は、お雪への思いをこれ以上隠すことができなくなっていた。
「お雪さん」
ある夜、施療所の裏の畑で劉太郎は、ついに、その名を、これまでとは違う響きで呼んだ。お雪は、その声の変化に気づき静かに彼を見つめた。
「私は、これまで、あなたに、正直ではありませんでした」
劉太郎は、そう切り出した。長い沈黙の後、彼は、自分の本当の名前――猶龍という名、そして、自分が、かつて、信徒たちを探る任務を負っていたことを、静かに語った。
この告白は、劉太郎にとってこれまでの人生の中で、最も困難な行為の一つであった。彼は、この告白によってお雪との関係が、完全に崩れ去ってしまう可能性を痛いほど自覚していた。しかし、任務が既に消滅した今、彼女に対して、これ以上偽りを続けることは、彼自身の人としての誠実さを、根本から損なうものであると彼は考えていた。
お雪の表情は、その告白の間、大きく変化することはなかった。ただ、彼女の目には、静かな、しかし深い驚きと、そして、それ以上に深い悲しみが浮かんでいた。
「では、私と出会ったのも、あの任務のためだったのですか」
「最初は、そうでした。しかし……」
「しかし、何ですか」
劉太郎は、言葉を選びながら、しかし、真剣に答えた。
「いつからか、それは、任務ではなくなりました。私は、あなたに、そして、バラ先生や、この場所に集う人々に、心から惹かれるようになったのです。それは、任務のためではありません。私自身の、本当の心からのものです」
お雪は、しばらく何も言わなかった。夕闇が、二人の周りを静かに包んでいった。この沈黙の中で、劉太郎はこれまでの人生で経験した、様々なこれまでの沈黙――それらすべてとは、明らかに異なる緊張と不安に満ちた沈黙を、経験していた。
「私は、あなたを、信じたいと思います」
長い沈黙の後、お雪はそう言った。しかし、その声には以前のような、迷いのない明るさは感じられなかった。
「しかし、あなたが、これまで私に隠してきたことの重さを、私は、すぐには受け入れることができません。少し、時間をください」
劉太郎は、その言葉に、静かに頷いた。彼は、これ以上、彼女に何かを求めることはできないと、はっきりと理解していた。
ただ、彼女が求める時間を、静かにしかし誠実に与え続けることだけがこの時、彼にできる唯一のことであった。
◇第五話
その後、劉太郎とお雪の間には以前にはなかった、ぎこちない距離が生まれた。お雪は、劉太郎を完全に拒絶することはなかったが、以前のような無邪気な親しみを見せることもなくなっていった。
この距離は、目に見える形ではっきりと現れるものではなかった。二人は、以前と同じように施療所で顔を合わせ、時には言葉を交わすこともあった。
しかし、その会話には以前あった、自然な流れが失われていた。お雪の言葉は、以前よりも幾分、慎重なものになり劉太郎もまた、彼女に対して以前のような、率直な物言いを控えるようになっていった。
劉太郎は、その距離を痛みとともに感じていた。しかし、彼にはその距離を、無理に縮めようとする権利はないと、自らに強く戒めていた。彼が長年、彼女を欺いてきたという事実は、消えるものではなかった。
この自制は、劉太郎にとって、これまでの人生の中で最も困難な種類の忍耐であった。彼は、お雪への思いを日々、強く感じながらも、その思いを性急に、彼女に押し付けることを、意識的に避け続けた。
冬の初め、施療所に思いがけない知らせが届いた。お雪の遠縁にあたる家から、彼女に、正式な婚姻の話が持ち込まれたのである。
相手は、開港地で貿易を営む、日本人商人の息子だという。
この婚姻話の背景には、お雪のこれまでの孤独な生い立ちが、深く関わっていた。両親を早くに失い、親戚の家を渡り歩いてきたお雪にとって正式な婚姻を通じて、確かな家庭を持つということは彼女の遠縁の家族にとって、彼女の将来を少しでも安定させたいという、切実な願いから、勧められたものであった。相手の商人の息子は開港地での貿易によって、確かな財を築いており、お雪にとって経済的にも社会的にも安定した将来を約束するものであった。
劉太郎がこの知らせを聞いたのは、バラからだった。
「お雪は、まだ、迷っているようだ」
バラは、そう言った。
「あなたは、彼女に、何か伝えたいことはあるのか」
劉太郎は、その問いに長く答えられなかった。伝えたいことは、確かにあった。
しかし、それを伝える資格が自分にあるのかどうか彼には、確信が持てなかった。
結局、劉太郎はお雪に直接会うことを選んだ。施療所の裏の畑――かつて幾度も、二人が言葉を交わした場所で、彼は、お雪と対峙した。
「私は、あなたに婚姻の話が来ていると聞きました」
「はい」
「あなたは、どうするおつもりですか」
お雪は、しばらく畑の土を見つめていた。それから、静かにしかし確かな声で答えた。
「私は、まだ、あなたへの思いを完全に消すことはできていません。しかし、あなたと私の間には、もう簡単には越えられない何かがあることも、分かっています」
「その何かとは」
「あなたは、これからどこへ向かうのですか。あなたの中の、あの、遠くを見る目は、まだ、答えを見つけていません。私は、迷いのない場所で生きたいのです。あなたと共に生きることが、迷いのない道になるとは私には、まだ思えません」
その言葉は、劉太郎の胸に深く刺さった。彼女の言葉は、正しかった。彼自身、まだ、自分がこれから何を為すべきなのか、はっきりとした答えを持っていなかった。
お雪のこの言葉は、劉太郎にとってこれまで、了念や母、そして智源が、彼の性分について語った様々な言葉と、深く共鳴するものであった。
彼は、生まれつき答えを求め続ける性分を持っていた。その性分は、彼にとって時に大きな知的な喜びをもたらすものであったが、同時に彼と関わる人々にとっては、常に不安定さと、迷いをもたらすものでもあったのかもしれない。
「私は、あなたを、止める権利を持ちません」
劉太郎は、そう答えるしかなかった。
その数週間後、お雪は正式に婚姻の話を受け入れた。彼女が施療所を離れる日、劉太郎は、遠くからその姿を見送った。彼女は、劉太郎に気づいたのかどうか分からなかった。ただ、彼女の背中は以前と変わらぬ、静かなしかし確かな足取りで施療所の門を出ていった。
◇第六話
お雪との別れは、劉太郎の内側に深い空洞を残した。しかし、その空洞は単に、恋を失った悲しみだけではなかった。それは、彼が、これまで自分を支えてきたあらゆるもの――任務、信仰、そして、お雪への思い――それらすべてが、同時に崩れ去っていく感覚だった。
お雪が施療所を去った後、劉太郎はしばらくの間、その場所を訪れることを避けるようになった。彼にとって、施療所はこれまで多くの重要な出会いと理解が生まれた場所であった。しかし、お雪の不在はその場所を、彼にとって痛みを伴う記憶の集積地へと変えてしまった。
この頃、劉太郎は故郷の了念に久しぶりに、直接会う機会を得た。了念は、宗門の使いとして横浜近郊の寺への連絡のためこの地を訪れていたのである。
この偶然の再会は、劉太郎にとってこれまでの人生の中で最も重要な、そして最も痛みを伴う対話の一つをもたらすことになった。
二人が再会したのは、横浜の外れにある小さな茶屋だった。
了念は、以前よりも僧としての落ち着きを増していた。彼の僧衣の着方、所作の一つ一つに長年の修行を経た者の確かな威厳が感じられた。
しかし、劉太郎を見た時、その顔には、深い驚きが浮かんだ。
「お前は……ずいぶんと、変わったな」
「そう見えるか」
「見える。お前の目が……以前よりも、疲れている。だが、それだけではない。何か、大きなものを、失った目をしている」
劉太郎は、了念にこれまでの日々の概要を、静かに語った。任務の消滅、お雪との出会いと別れ、そして、自分の中で、仏門への信仰が、以前とは違う形に変わりつつあること。
この告白の間、劉太郎は幾度も言葉を選び、そして、言葉を止めた。彼は、了念にこれまでの日々の重みを、正確に伝えたいと願っていた。しかし、その重みの多くは言葉にすることが、極めて難しいものであった。お雪との出会いによって生まれた、深い喜びとその後の別れによって生まれた、深い痛み。信徒たちとの交流を通じて育まれた、仏門の教義への、新たな疑問。それらすべてを、了念に正確に理解してもらうことは、非常に困難な作業であった。
了念は、その話を、長い間、黙って聞いていた。話が終わった後、了念は静かにしかし厳しい声で言った。
「お前は、仏門を捨てたのか」
「捨てた、というのとは、違う」
「では、何だ。お前の話を聞く限り、お前はもう、この仏門の教えを、心から信じてはいないように思える」
劉太郎は、その指摘に即座には答えられなかった。了念の言葉は、正しかった。彼の中で、長年育ってきた「なぜ」という問いは、もはや仏門の教義だけでは、満たされない場所まで、彼を連れてきていた。
「俺は、まだ、自分が何を信じているのか、分からない」
「分からないのなら、なぜ、僧衣を着ているのだ。お前は、この寺の子として、猶龍という法名を授かった。それは遊びではない」
了念の声には、これまでにない強い怒りが滲んでいた。それは、単に劉太郎の変化への非難ではなく、彼自身が、長年、迷いなく信じてきたものを、劉太郎が揺るがしているように感じられたからかもしれない。
◇第七話
「了念、俺は……」
「もう、いい」
了念は、劉太郎の言葉を遮った。
「俺は、お前を、これ以上、理解しようとは思わない。お前が選ぶ道が何であれ、それは、お前自身のものだ。だが、俺の前では、二度と、猶龍という名を語るな。お前は、もう、猶龍ではない」
その言葉を最後に、了念は茶屋を去っていった。劉太郎は、その背中をいつまでも見つめていた。松の木の下で、あれほど親しく過ごした日々が遠い、しかし確かに存在した過去として、彼の胸の中に、痛みを伴って残った。
了念の「お前は、もう、猶龍ではない」は、劉太郎の胸にこれまでのどの言葉よりも、深く、鋭く刺さった。それは、単に了念という一人の友人からの拒絶ではなかった。
それは、劉太郎自身の内側にある猶龍という核――彼がこれまで、様々な名を纏いながらも、常にその内側に留めておこうとしてきた、その核そのものの存在を、否定するような響きを持っていた。
了念が去った後、劉太郎は茶屋の片隅に、長い間、座り続けていた。窓の外には、横浜の町の、変わらぬ喧騒が続いていた。
しかし、劉太郎の内側にはこれまで経験したことのない、深い静寂とそして、痛みが広がっていた。
彼はこの時、これまでの人生における様々な別れを、静かに振り返った。
故郷を出た朝の霧の中に消えていった了念の姿。お雪との最後の対話。そして今、その了念自身との決別。
これらの別れは、それぞれ異なる質を持っていたが共通して劉太郎に、深い孤独をもたらしていた。
智源が、かつて少年の猶龍に語った言葉である「問い続けるという生き方は、時に、大きな孤独を伴う」――その言葉の本当の重みを、劉太郎はこの夜、初めて身をもって理解したように感じた。
◇第八話
お雪との別れ、了念との決別――それらを経た劉太郎は、ついに、自分の中で、大きな決断を下すことになる。
彼は僧としての身分を正式に離れることを決めた。還俗――僧衣を脱ぎ、俗人としての生活に戻るという選択だった。それは、彼がこれまでの自分のすべてを一度、白紙に戻すことを意味していた。
この決断に至るまでの数日間、劉太郎は深い苦悩の中にいた。僧としての身分を離れるということは単に、外見上の変化を意味するだけではなかった。それは、彼が少年時代から、長い年月をかけて積み重ねてきた僧としての教育、修行、そして、寺の子として彼のアイデンティティの根幹そのものを、放棄することを意味していた。
しかし、劉太郎はこの決断を、単なる放棄としては捉えていなかった。彼にとって、これは、むしろ自分自身の内側にある本当の問いに、正直に向き合うための必要な一歩であった。仏門の教義の中に、彼は確かに多くの美しさと深い知恵を見出してきた。
それだけでは、もはや彼の内側で育ち続けている「なぜ」という炎を完全に満たすことはできないという事実を彼は、痛みを伴いながらも認めざるを得なかった。
還俗の手続きを終えた夜、劉太郎は鏡に映る自分の姿を、長い間見つめていた。剃られていた頭には、わずかに髪が伸び始めていた。僧衣ではない普通の着物を纏った自分の姿は、彼にとって、奇妙に他人のもののように見えた。
この鏡の前での時間は、劉太郎にとって、深く象徴的な意味を持つものであった。かつて、宗海が語った言葉――「鏡に映る自分の顔を見て、それが誰の顔なのか、自分に問い続けるのだ」――その言葉が、この夜これまでにない切実さを持って、劉太郎の胸に、戻ってきた。
彼は、この時初めて、自分の意志で新しい名を選んだ。
これまでの、猶龍という法名、安藤劉太郎という任務のための仮名――それらとは全く違う、自分自身のこれからの人生のための名前を。
「関信三」
その名を彼は静かに、しかし確かな声で口にした。関という姓は彼の故郷の遠い先祖に由来するものだった。信三という名には彼が、これから何を信じ何を為すべきかを、自分自身で探し続けるという、静かな決意が込められていた。
鏡に映る、関信三と名乗ることになった男の顔を、彼はいつまでも見つめていた。それは、猶龍の顔でも安藤劉太郎の顔でもなかった。しかし、それが本当に彼自身の顔なのかどうか――その答えは、まだ、彼にも、分からなかった。
すべてを失った後に残された、この新しい名前だけを手に、関信三はこれから、自分の人生を、もう一度、築き直していかねばならない。彼の前には、まだ何も見えていなかった。しかし、その見えない道の先にいつか、彼自身が心から信じられるものが見つかるだろうという微かな、しかし消えることのない予感だけが彼の胸の中に静かに灯り続けていた。
◇第九話
還俗した後の日々は、信三にとってこれまでのどの時期よりも、輪郭のはっきりしない、漂うような時間だった。僧としての身分もなく、任務という使命もなく、そしてお雪との未来も了念との友情もすべてが手の中からこぼれ落ちていった後、彼は横浜の町の片隅でただ、時間だけが流れていくのを感じていた。
この時期の信三の生活は、極めて質素なものであった。還俗によって、彼は寺からの支援を失った。
宗門との関わりも、事実上、断たれていた。彼は、これまで貯めてきたわずかな金と、身の回りの品だけを持って横浜の町の安い長屋に一室を借りて暮らしていた。
生活のために信三は、しばらくの間外国商館で通詞の下働きのような仕事を得た。
異国の言葉を、片言ながら学んでいたことがわずかながら、彼の身を助けた。しかし、その仕事は彼の内側にある「なぜ」という炎を、満たすものではなかった。
日々の帳簿を整理し、荷の受け渡しの記録を取るその作業の中に、彼が長年求めてきた生きる意味の手触りはどこにも見当たらなかった。
この仕事は、単調でしかし、正確さを要求される作業であった。信三は、その正確さの中にかつて、僧としての勤行の所作を身体で覚えていった時とどこか似た感覚を見出すこともあった。しかし、経を読む時に感じていた身体的な安らぎとは異なり、この帳簿仕事にはそうした精神的な充足感は、伴っていなかった。それは、ただ、生活のために必要な、機械的な労働であった。
夜になると、信三はしばしば横浜の海辺を一人で歩いた。波の音だけが、彼の周りを満たしていた。かつて、松の木の下で了念と過ごした沈黙、施療所の畑でお雪と語った時間――それらの記憶が、波の音に混じって、幾度も、彼の胸の中に浮かび上がってきた。
これらの記憶は、信三にとって時に、深い痛みを伴うものであった。しかし、同時に彼は、それらの記憶を完全に振り払うことも望んでいなかった。それらは、彼がこれまでの人生の中で、確かに深く生きた証であった。たとえ、それらの経験の多くが痛みや失望をもって終わったとしてもその経験の中で育まれた、様々な理解――信仰の多様な形、人間の心の脆さと強さ、そして、自分自身の中に、消えることなく存在する「なぜ」という問い――それらは、彼という人間の、確かな一部として、残り続けていた。
「俺は、何を間違えたのだろう」
そう自問する夜が、幾度もあった。
しかし、その問いに、明確な答えを見出すことはできなかった。彼は、任務に忠実であろうとし、同時に自分の心にも忠実であろうとした。
その二つが、最終的に、両立できないものであったという事実だけが、静かに、彼の胸に残っていた。
◇第十話
冬が深まる頃、信三は横浜の町で偶然、一人の老学者と出会った。名を、藤田という蘭学と英学を学んだ、初老の男だった。
藤田は、信三が商館で見せる異国の言葉への理解の早さに興味を持ったようだった。
藤田との出会いは、極めて偶然のものであった。ある日、商館の仕事の中で信三は、ある英文の書状の翻訳に他の通詞たちが手間取っているのを見かけた。信三は、まだ完全な翻訳の技術を持っていなかったがそれまでの独学で得た知識をもってその書状の要点を大まかに理解することができた。
その様子を、偶然商館を訪れていた藤田が目にしたのである。
「お前は、どこで、その言葉を学んだのか」
藤田にそう問われた時、信三はこれまでの経緯を、詳しくは語らなかった。ただ、独学で、少しずつ学んだんだと簡潔に答えた。
「独学とは、大したものだ。しかし、独学には、限りがある。お前が、もっと本格的に学びたいのであれば、江戸に、そうした学問を教える場がある」
その言葉は、信三の中に久しく忘れていた、知ることへの飢えを、再び、静かに呼び起こした。かつて、寺の書庫で蘭学の書物を盗み見るように読んでいた少年の頃の感覚――それが、深い虚脱の底から微かに、しかし確かに頭を持ち上げてきたのである。
この瞬間、信三はこれまでの数ヶ月間、彼が経験してきた深い虚脱の中に、初めて小さな、しかし確かな光を見出したように感じた。それは、単に新しい学問への興味という以上の意味を持っていた。それは、彼が、これまでの人生の中で、繰り返し経験してきた「なぜ」という問いが、まだ彼の内側で、完全に消え去っていないことの確かな証であった。
「その場は、誰が、教えておられるのですか」
「中村正直という学者だ。幕府の洋学の教授として知られているが、近頃は、私塾のような形で、志ある若者たちに、英学を教えているという」
中村正直――その名を、信三は、この時初めて聞いた。しかし、この名が彼の今後の人生に、どれほど大きな意味を持つことになるのか……彼はまだ、知らなかった。
藤田は、その後も信三と幾度か言葉を交わす機会を持った。藤田自身も、若い頃に様々な苦労を経て、蘭学の道に入ったという経歴を持っていた。
彼は、信三の中に自分自身の若い頃と、どこか似た知への飢えとそして、ある種の満たされない性分を感じ取っていたのかもしれない。
◇第十一話
信三は、しばらくの間、藤田の言葉を、心の中に留めたまま行動に移すことができなかった。お雪との別れ、了念との決別の傷は、まだ、深く残っていた。新しい何かに向かって歩き出す気力を、彼はなかなか取り戻すことができなかった。
この停滞の時期、信三は幾度も、自分自身に問い続けた。江戸へ向かい、新しい学問の道に進むことに、本当に、意味があるのだろうか。
それは、単に、これまでの失敗から逃げるための、もう一つの新しい仮面に過ぎないのではないか。
ある日、信三は施療所の近くを、久しぶりに歩いた。特に、目的があったわけではなかった。ただ、足が自然と、その方向に向かった。
施療所は、以前と変わらず、そこにあった。バラの姿も見えた。しかし、お雪の姿は、もう、そこにはなかった。彼女は、婚姻を経てこの町の別の場所で新しい生活を始めているはずだった。
バラは信三の姿に気づき、静かに近づいてきた。
「久しいな」
「はい」
「お前の顔は、以前よりも、老けたように見える」
信三は、その言葉に苦い笑みを浮かべた。
「色々なことがありました」
「知っている。お雪から、いくつかのことは、聞いていた」
その言葉に信三は、驚いた。
「彼女は、私のことを、何と言っていましたか」
バラはしばらく、考えるような顔をした。
「彼女は、お前を、恨んではいなかった。ただ、お前がこれから、何を信じ、何を為すのか――それを、遠くから、見守りたいと言っていた」
その言葉は、信三の胸に深く、しかし温かく沈み込んだ。恨まれていない、という事実は、彼にとって想像していたよりも、大きな救いだった。この言葉を聞いた瞬間、信三はこれまで、彼の胸の奥深くに重く沈んでいた。お雪への罪悪感の一部がわずかに、しかし確かに、軽くなるのを感じた。
「バラ先生。私は、これから、何を為せばよいのでしょうか」
その問いは、信三がこれまで、誰にもはっきりと口にすることのなかった問いだった。バラは、その問いにすぐには答えなかった。ただ、静かに信三の肩に手を置いた。
「それを探すために、お前は、これからも、生きていくのだ。答えは、探し続ける者にしか、いずれ、姿を見せない」
その言葉は、かつて、智源が語った言葉である「問いを持つ者は、問いに導かれる場所へ行くしかない」――と、遠く、しかし確かに響き合っていた。
信三は、その響き合いの中にこれから自分が進むべき、微かな方向を初めて、感じ取ることができた。
◇第十二話
その夜、信三は、藤田の言葉――中村正直という学者の名を、再び思い出した。彼は、これまでの人生の中で幾度も、名を変え、身分を変えてきた。しかし、その度に彼を動かしてきたのは、常に知らないことへの飢え、そして、「なぜ」という、消えることのない問いだった。
お雪を失い、了念を失い、仏門での身分を失った今、彼に残されているのは、この問いだけだった。そして、その問いを追い求める先に江戸で学問を学ぶという道が、微かに、しかし確かに、開かれているように見えた。
信三はその夜、久しぶりに、深く眠ることができた。
これまでの数ヶ月間、彼を苦しめ続けてきた様々な後悔と、答えのない自問――それらがこの夜、初めて静かに彼の中で、一つの方向へと収束していくのを感じた。翌朝、彼は藤田のもとを訪れ、中村正直への紹介を正式に頼んだ。
「お前は、変わったな」
藤田は、信三の目を見て、そう言った。
「以前は、どこか、諦めたような目をしていた。今は、少し違う」
「そうでしょうか」
「そうだ。何かを、また、求め始めている目をしている」
その指摘に、信三は静かに頷いた。彼の中で、長く消えていた炎が再び小さくしかし確かに、灯り始めていたのである。
江戸へ向かう準備をしながら、信三は、これまでの日々を、静かに振り返った。三河の寺での少年時代、破邪僧としての任務、長崎と横浜での日々、お雪との出会いと別れ、了念との決別、そして、還俗という選択。
これらすべての経験が、今の彼を形作っている。もし、任務に忠実であり続けていたら、もし、お雪との関係が違う結末を迎えていたら、もし、了念と決別しなかったら――そうした「もし」を考えることは、もはや、意味を持たなかった。
彼は、今、ここに立っている。
そして、これから江戸という新しい場所で、新しい何かを探し始めようとしている。
出発の朝、信三は、もう一度、施療所の前を通った。バラの姿は見えなかったが、施療所の庭に咲く小さな野草が、風に揺れているのが見えた。それは、かつて、故郷の庭で、母が指し示した野草と、よく似た花だった。
「この花は、雨が近づくと、少しだけ首を垂れるのよ」
母の声が、遠い記憶の中から、静かに、彼の胸に響いた。理由が分からなくても、そうであることを受け入れる、という母の在り方を信三は今、少しずつ理解し始めているように感じた。すべての答えを今、この場所で得る必要はない。ただ、問い続け、歩き続けること――それこそが、彼に残された、唯一の確かな道だった。
信三は、その野草に静かに一礼した。それから、江戸へ向かう道を一歩、また一歩と歩き始めた。
すべてを失った後に残された、この新しい名前だけを手に関信三は、これから自分の人生を、もう一度築き直していかねばならなかった。
彼の前には、まだ何も見えていなかった。しかし、その見えない道の先にいつか、彼自身が心から信じられるものが見つかるだろうという、微かなしかし消えることのない予感だけが、彼の胸の中に静かに灯り続けていた。
その知らせが横浜に届いたのは、慶応の年号に入って間もない頃だった。
幕府が、ヤソ教に対する取り締まりの方針を大きく緩めるという知らせだった。表向きには、まだ禁教は解かれていない。しかし、開港地における外国人の信仰活動はこれまでのような激しい弾圧の対象からは事実上外れつつあった。
この知らせが横浜の町に広がっていく様子を信三――もはや、この頃には劉太郎という名も、次第にその重みを失いつつあったが、複雑な思いで見つめていた。この数年、幕府と諸外国との間で結ばれた条約の積み重ね、そして国内における攘夷と開国をめぐる政治的な緊張の変化すべてが、少しずつこの一つの方針転換へと、収束していったのである。
かつて、村の男たちが黒船の噂に恐怖と興奮を見せていた頃から既に十年以上が過ぎていた。その間、この国はゆっくりとしかし確実に、これまでとは異なる姿へと変貌を続けていた。
この知らせは、劉太郎の周囲に複雑な波紋を広げた。信徒たちにとっては、長年の恐れから、わずかに解放される喜びの知らせだった。施療所には、これまで隠れて祈っていた者たちが少しずつ、表に姿を見せるようになっていった。バラの表情にも、これまでにはなかった明るい安堵の色が見えた。
施療所の空気そのものが、この知らせによって大きく変わった。以前は、信徒たちが集まる時、常に周囲を警戒するような、緊張した雰囲気があった。しかし、この知らせの後の彼らの祈りの声は、以前よりも幾分大きく幾分自由に、聞かれるようになった。
集会の場にこれまで見かけなかった、新しい信徒たちの顔も次第に加わるようになっていった。バラは、この変化を深い喜びをもって迎えていた。彼は、これまでの苦難の日々が、ようやく少しずつ、報われようとしているのだと感じているようだった。
しかし、劉太郎自身にとって、この知らせはまったく異なる意味を持っていた。彼がこれまで担ってきた任務……その存在意義そのものが、根本から揺らぎ始めたのである。
この任務の意義の揺らぎは、劉太郎にとって単なる仕事上の変化ではなかった。彼が、この数年間、名を変えて故郷を離れ、心を偽りそして、深い葛藤を抱えながら生きてきたその全ての基盤が、根底から崩れ始めているという感覚であった。
もし、ヤソ教がもはや、宗門にとって、深刻な脅威ではなくなるのであれば、彼が長崎で、そして横浜で経験してきたあの苦悩――伝兵衛との対話、お雪との出会い、バラとの問答、そして、幕吏たちとの緊迫した対面――それらの意味は、いったい、どこに位置づけられるべきなのか。
宗海からの連絡は、以前よりも間隔が空くようになった。
そして、ある日届いた手紙にはこれまでにない、乾いた響きの言葉が並んでいた。
【本山は、この任務の縮小を決定した。お前の報告は、これまでよく務めを果たしてきた。しかし、時代が変わりつつある今、この任務が持つ意味も、大きく変わらねばならぬ。追って、次の指示を待て】
劉太郎は、その手紙を何度も読み返した。務めを果たしてきた、という言葉の中に労いと同時に終わりの予感が静かに込められているのを感じた。この手紙には、これまでの宗海からの手紙に見られた任務の詳細への言及や具体的な指示が、ほとんど見られなかった。それは、宗海自身がこの任務の先行きについて既に、明確な方向性を持てなくなっていることの静かな表れであったのかもしれない。
劉太郎は、この手紙を宿の一室で、幾度も読み返した。灯りを落とした部屋の中で、彼は、これまでの数年間を、静かに振り返った。
父の書斎で、この任務を受け入れると答えた日のこと。
了念との、松の木の下での別れ。
母の、涙を見せた最後の夜。
長崎での、名を変えた瞬間の亀裂の感覚。そして、横浜での、お雪との出会い。
それらすべてが、一つの大きな流れの中にあったはずだった。
しかし今、その流れそのものが意味を失いつつあるという事実を、彼はまだ、完全には受け入れることができなかった。
◇ 第二話
この時期の劉太郎の内側には、奇妙な虚脱感が広がっていた。長年、彼を動かしてきた任務という軸が、時代の変化によって急速にその重みを失っていくのを、彼はただ傍観するしかなかった。
この虚脱感は、これまで劉太郎が経験してきた様々な種類の苦悩とは、明らかに異質なものであった。任務の危険性への恐怖、信徒たちへの共感と任務との矛盾、お雪への思いと任務者としての立場との葛藤は、いずれも彼が何かに対して強く向き合っていることから生じる苦悩であった。
しかし今、彼が感じているのは向き合うべき対象そのものが、次第に輪郭を失っていくことへの、より根源的な不安であった。
自分はこれまで何のために名を変え、故郷を離れ、心を偽り続けてきたのか。
任務が意味を失うのであれば、その過程で自分が経験してきたすべては、いったい何だったのか。
劉太郎は、この問いを幾度も、自分自身に投げかけた。しかし、その度に明確な答えを見出すことはできなかった。
ただ、一つだけ、はっきりと感じられることがあった。それは、任務という枠組みがどれほど揺らごうとも、お雪との出会いやバラとの対話、信徒たちとの日々の中で彼自身の内側に育まれた、様々な感情や理解。
それらは、決して無意味なものではなかったということだった。それらは、彼という人間の、確かな一部として既に、彼の内側に深く根を張っていた。
劉太郎は、施療所を訪れる頻度を以前よりも増やしていった。しかし、そこにはもはや、任務としての大義名分はなかった。彼は、ただお雪に会うために、そしてバラの言葉を聞くために、その場所を訪れていた。この変化は、劉太郎自身にとって、ある種の解放であった。彼は、これまで常に、任務という建前を意識の片隅に置きながら、お雪やバラと接していた。しかし今、その建前が失われたことで彼は、初めて純粋に一人の人間として彼らと向き合うことができるようになったのである。
お雪は、この頃劉太郎の変化に気づいていたようだった。
「近頃、あなたは、以前よりも、よく笑うようになりました」
ある日、彼女がそう言った時劉太郎は、驚いた。自分でも気づかないうちに、彼の表情が変わり始めていたのだろう。
「そう見えますか」
「はい。以前は、いつも、何かを考え込んでいるような、硬い表情をされていました。今は、少し違います」
劉太郎は、その言葉に何か答えようとしたが、言葉が出なかった。任務という重荷が、少しずつ軽くなっていくのと同時に、彼の心の中でお雪への思いがこれまでにないほど、はっきりとした形を取り始めていることに彼自身も、気づき始めていたのである。
この頃、劉太郎とお雪の間には、以前にはなかったある種の穏やかな親密さが生まれ始めていた。
二人は、施療所の裏の畑で以前よりも頻繁にそして、以前よりも長く言葉を交わすようになった。会話の内容も、単なる薬草の話や信仰についての抽象的な問答からより個人的な、日々の些細な出来事についての、他愛のない語り合いへと変わっていった。
この変化は、劉太郎にとってこれまでの緊張と葛藤の日々の中では決して味わうことのできなかった、静かな幸福の時間であった。
◇第三話
しかし、その静かな安堵の時間は、長くは続かなかった。
ある夜、劉太郎は横浜の町の外れで、宗海本人と久しぶりに直接会うことになった。宗海の表情には、これまでにない深い疲労が滲んでいた。
宗海は、以前会った時よりも明らかに老け込んでいるように見えた。その姿には、長年、宗門のために様々な任務を統括してきた者としての、重い蓄積がはっきりと表れていた。
「劉太郎。お前に、正直に話さねばならぬことがある」
宗海は、そう切り出した。
「本山は、この任務全体の存在を、内々に、なかったことにしようとしている。禁教の緩和が進む中で、この任務がヤソ教徒たちへの弾圧の準備であったと知られれば、宗門にとって、大きな問題になる。だからこそ、この任務に関わった者たちの記録はすべて、静かに処分されることになった」
劉太郎は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「処分、とは」
「お前の安藤劉太郎という名の記録は、すでに本山の文書からは消されている。お前は、もはや、この任務に関わった者としてどこにも記録されていない」
その言葉は、劉太郎の胸に深い衝撃を与えた。数年間、命がけで務めてきた任務がまるで、最初から存在しなかったかのように消し去られようとしている。
この事実を聞いた瞬間、劉太郎の中に幾つもの感情が同時に押し寄せてきた。
一つは、深い怒りであった。彼が、命の危険を冒しながら忠実に遂行してきた任務が宗門の都合によって、あっさりと存在そのものを否定されるという不当さへの怒り。
もう一つは、奇妙な安堵であった。もし、記録が完全に消されるのであれば、任務の中で行った、様々な逸脱――お雪の名を報告書に記さなかったこと、幕吏たちへの慎重な報告などのそれらもまた、誰にも問われることなく静かに、闇の中に消えていくのだということ。
「では、私は、これから、どうすればよいのですか」
「お前次第だ。安藤劉太郎という名を捨て、猶龍という名に戻り故郷の寺に帰るのも良いだろう。あるいは……別の道を選ぶことも、できるだろう」
宗海のその言葉の奥に、劉太郎はある種の含みを感じ取った。それは、暗に劉太郎がお雪や信徒たちとの関わりを、宗海が既に見抜いていることを示唆しているように思えた。
「宗海様は、私が、あの人々のもとに留まることを、お許しになるのですか」
宗海は、しばらく黙っていた。それから静かに、しかし重い声で答えた。
「わしが許すも許さぬも、もう関係のないことだ。この任務そのものが、なかったことになるのだ。お前がこれから何を選ぶのかそれは、もはや宗門の関わることではない。お前自身の、人生の問題だ」
その言葉を最後に、宗海は劉太郎の前から姿を消した。
劉太郎が、宗海と直接顔を合わせたのは、これが最後だった。
宗海が去っていった後、劉太郎はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
宗海という人物との、これまでの関係を彼は、静かに振り返った。宗海は、彼にとって、単なる任務の上司ではなかった。
長崎での日々、宗海が語った自らの若き日の疑いの経験、そして鏡を見て自分の顔を確かめよという、あの忘れがたい言葉たちは、劉太郎の内側に深く刻まれていた。宗海との別れは、劉太郎にとって、もう一つの大きな喪失であった。
◇第四話
任務が消滅したという事実は、劉太郎に奇妙な自由と同時に、深い虚無をもたらした。彼は、もはや誰からの命令によっても動かされていない。
しかし、その自由の中で彼は、自分が本当に何を望んでいるのか、初めて正面から向き合わねばならなくなった。
この自由は、劉太郎にとってこれまで経験したことのない種類のものであった。
少年時代、彼は寺の子として父の期待の中で生きてきた。得度を経て、僧としての務めの中で生きてきた。そして、任務を受けてからは、宗門と幕府の意向の中で、名を変え、身を偽りながら生きてきた。
常に、彼の人生には、何らかの外側から与えられた枠組みが存在していた。しかし今、その枠組みが完全に取り払われた時、彼は、初めて自分自身の意志だけで、これからの人生を選び取らなければならない立場に置かれたのである。
彼は、お雪への思いをこれ以上隠すことができなくなっていた。
「お雪さん」
ある夜、施療所の裏の畑で劉太郎は、ついに、その名を、これまでとは違う響きで呼んだ。お雪は、その声の変化に気づき静かに彼を見つめた。
「私は、これまで、あなたに、正直ではありませんでした」
劉太郎は、そう切り出した。長い沈黙の後、彼は、自分の本当の名前――猶龍という名、そして、自分が、かつて、信徒たちを探る任務を負っていたことを、静かに語った。
この告白は、劉太郎にとってこれまでの人生の中で、最も困難な行為の一つであった。彼は、この告白によってお雪との関係が、完全に崩れ去ってしまう可能性を痛いほど自覚していた。しかし、任務が既に消滅した今、彼女に対して、これ以上偽りを続けることは、彼自身の人としての誠実さを、根本から損なうものであると彼は考えていた。
お雪の表情は、その告白の間、大きく変化することはなかった。ただ、彼女の目には、静かな、しかし深い驚きと、そして、それ以上に深い悲しみが浮かんでいた。
「では、私と出会ったのも、あの任務のためだったのですか」
「最初は、そうでした。しかし……」
「しかし、何ですか」
劉太郎は、言葉を選びながら、しかし、真剣に答えた。
「いつからか、それは、任務ではなくなりました。私は、あなたに、そして、バラ先生や、この場所に集う人々に、心から惹かれるようになったのです。それは、任務のためではありません。私自身の、本当の心からのものです」
お雪は、しばらく何も言わなかった。夕闇が、二人の周りを静かに包んでいった。この沈黙の中で、劉太郎はこれまでの人生で経験した、様々なこれまでの沈黙――それらすべてとは、明らかに異なる緊張と不安に満ちた沈黙を、経験していた。
「私は、あなたを、信じたいと思います」
長い沈黙の後、お雪はそう言った。しかし、その声には以前のような、迷いのない明るさは感じられなかった。
「しかし、あなたが、これまで私に隠してきたことの重さを、私は、すぐには受け入れることができません。少し、時間をください」
劉太郎は、その言葉に、静かに頷いた。彼は、これ以上、彼女に何かを求めることはできないと、はっきりと理解していた。
ただ、彼女が求める時間を、静かにしかし誠実に与え続けることだけがこの時、彼にできる唯一のことであった。
◇第五話
その後、劉太郎とお雪の間には以前にはなかった、ぎこちない距離が生まれた。お雪は、劉太郎を完全に拒絶することはなかったが、以前のような無邪気な親しみを見せることもなくなっていった。
この距離は、目に見える形ではっきりと現れるものではなかった。二人は、以前と同じように施療所で顔を合わせ、時には言葉を交わすこともあった。
しかし、その会話には以前あった、自然な流れが失われていた。お雪の言葉は、以前よりも幾分、慎重なものになり劉太郎もまた、彼女に対して以前のような、率直な物言いを控えるようになっていった。
劉太郎は、その距離を痛みとともに感じていた。しかし、彼にはその距離を、無理に縮めようとする権利はないと、自らに強く戒めていた。彼が長年、彼女を欺いてきたという事実は、消えるものではなかった。
この自制は、劉太郎にとって、これまでの人生の中で最も困難な種類の忍耐であった。彼は、お雪への思いを日々、強く感じながらも、その思いを性急に、彼女に押し付けることを、意識的に避け続けた。
冬の初め、施療所に思いがけない知らせが届いた。お雪の遠縁にあたる家から、彼女に、正式な婚姻の話が持ち込まれたのである。
相手は、開港地で貿易を営む、日本人商人の息子だという。
この婚姻話の背景には、お雪のこれまでの孤独な生い立ちが、深く関わっていた。両親を早くに失い、親戚の家を渡り歩いてきたお雪にとって正式な婚姻を通じて、確かな家庭を持つということは彼女の遠縁の家族にとって、彼女の将来を少しでも安定させたいという、切実な願いから、勧められたものであった。相手の商人の息子は開港地での貿易によって、確かな財を築いており、お雪にとって経済的にも社会的にも安定した将来を約束するものであった。
劉太郎がこの知らせを聞いたのは、バラからだった。
「お雪は、まだ、迷っているようだ」
バラは、そう言った。
「あなたは、彼女に、何か伝えたいことはあるのか」
劉太郎は、その問いに長く答えられなかった。伝えたいことは、確かにあった。
しかし、それを伝える資格が自分にあるのかどうか彼には、確信が持てなかった。
結局、劉太郎はお雪に直接会うことを選んだ。施療所の裏の畑――かつて幾度も、二人が言葉を交わした場所で、彼は、お雪と対峙した。
「私は、あなたに婚姻の話が来ていると聞きました」
「はい」
「あなたは、どうするおつもりですか」
お雪は、しばらく畑の土を見つめていた。それから、静かにしかし確かな声で答えた。
「私は、まだ、あなたへの思いを完全に消すことはできていません。しかし、あなたと私の間には、もう簡単には越えられない何かがあることも、分かっています」
「その何かとは」
「あなたは、これからどこへ向かうのですか。あなたの中の、あの、遠くを見る目は、まだ、答えを見つけていません。私は、迷いのない場所で生きたいのです。あなたと共に生きることが、迷いのない道になるとは私には、まだ思えません」
その言葉は、劉太郎の胸に深く刺さった。彼女の言葉は、正しかった。彼自身、まだ、自分がこれから何を為すべきなのか、はっきりとした答えを持っていなかった。
お雪のこの言葉は、劉太郎にとってこれまで、了念や母、そして智源が、彼の性分について語った様々な言葉と、深く共鳴するものであった。
彼は、生まれつき答えを求め続ける性分を持っていた。その性分は、彼にとって時に大きな知的な喜びをもたらすものであったが、同時に彼と関わる人々にとっては、常に不安定さと、迷いをもたらすものでもあったのかもしれない。
「私は、あなたを、止める権利を持ちません」
劉太郎は、そう答えるしかなかった。
その数週間後、お雪は正式に婚姻の話を受け入れた。彼女が施療所を離れる日、劉太郎は、遠くからその姿を見送った。彼女は、劉太郎に気づいたのかどうか分からなかった。ただ、彼女の背中は以前と変わらぬ、静かなしかし確かな足取りで施療所の門を出ていった。
◇第六話
お雪との別れは、劉太郎の内側に深い空洞を残した。しかし、その空洞は単に、恋を失った悲しみだけではなかった。それは、彼が、これまで自分を支えてきたあらゆるもの――任務、信仰、そして、お雪への思い――それらすべてが、同時に崩れ去っていく感覚だった。
お雪が施療所を去った後、劉太郎はしばらくの間、その場所を訪れることを避けるようになった。彼にとって、施療所はこれまで多くの重要な出会いと理解が生まれた場所であった。しかし、お雪の不在はその場所を、彼にとって痛みを伴う記憶の集積地へと変えてしまった。
この頃、劉太郎は故郷の了念に久しぶりに、直接会う機会を得た。了念は、宗門の使いとして横浜近郊の寺への連絡のためこの地を訪れていたのである。
この偶然の再会は、劉太郎にとってこれまでの人生の中で最も重要な、そして最も痛みを伴う対話の一つをもたらすことになった。
二人が再会したのは、横浜の外れにある小さな茶屋だった。
了念は、以前よりも僧としての落ち着きを増していた。彼の僧衣の着方、所作の一つ一つに長年の修行を経た者の確かな威厳が感じられた。
しかし、劉太郎を見た時、その顔には、深い驚きが浮かんだ。
「お前は……ずいぶんと、変わったな」
「そう見えるか」
「見える。お前の目が……以前よりも、疲れている。だが、それだけではない。何か、大きなものを、失った目をしている」
劉太郎は、了念にこれまでの日々の概要を、静かに語った。任務の消滅、お雪との出会いと別れ、そして、自分の中で、仏門への信仰が、以前とは違う形に変わりつつあること。
この告白の間、劉太郎は幾度も言葉を選び、そして、言葉を止めた。彼は、了念にこれまでの日々の重みを、正確に伝えたいと願っていた。しかし、その重みの多くは言葉にすることが、極めて難しいものであった。お雪との出会いによって生まれた、深い喜びとその後の別れによって生まれた、深い痛み。信徒たちとの交流を通じて育まれた、仏門の教義への、新たな疑問。それらすべてを、了念に正確に理解してもらうことは、非常に困難な作業であった。
了念は、その話を、長い間、黙って聞いていた。話が終わった後、了念は静かにしかし厳しい声で言った。
「お前は、仏門を捨てたのか」
「捨てた、というのとは、違う」
「では、何だ。お前の話を聞く限り、お前はもう、この仏門の教えを、心から信じてはいないように思える」
劉太郎は、その指摘に即座には答えられなかった。了念の言葉は、正しかった。彼の中で、長年育ってきた「なぜ」という問いは、もはや仏門の教義だけでは、満たされない場所まで、彼を連れてきていた。
「俺は、まだ、自分が何を信じているのか、分からない」
「分からないのなら、なぜ、僧衣を着ているのだ。お前は、この寺の子として、猶龍という法名を授かった。それは遊びではない」
了念の声には、これまでにない強い怒りが滲んでいた。それは、単に劉太郎の変化への非難ではなく、彼自身が、長年、迷いなく信じてきたものを、劉太郎が揺るがしているように感じられたからかもしれない。
◇第七話
「了念、俺は……」
「もう、いい」
了念は、劉太郎の言葉を遮った。
「俺は、お前を、これ以上、理解しようとは思わない。お前が選ぶ道が何であれ、それは、お前自身のものだ。だが、俺の前では、二度と、猶龍という名を語るな。お前は、もう、猶龍ではない」
その言葉を最後に、了念は茶屋を去っていった。劉太郎は、その背中をいつまでも見つめていた。松の木の下で、あれほど親しく過ごした日々が遠い、しかし確かに存在した過去として、彼の胸の中に、痛みを伴って残った。
了念の「お前は、もう、猶龍ではない」は、劉太郎の胸にこれまでのどの言葉よりも、深く、鋭く刺さった。それは、単に了念という一人の友人からの拒絶ではなかった。
それは、劉太郎自身の内側にある猶龍という核――彼がこれまで、様々な名を纏いながらも、常にその内側に留めておこうとしてきた、その核そのものの存在を、否定するような響きを持っていた。
了念が去った後、劉太郎は茶屋の片隅に、長い間、座り続けていた。窓の外には、横浜の町の、変わらぬ喧騒が続いていた。
しかし、劉太郎の内側にはこれまで経験したことのない、深い静寂とそして、痛みが広がっていた。
彼はこの時、これまでの人生における様々な別れを、静かに振り返った。
故郷を出た朝の霧の中に消えていった了念の姿。お雪との最後の対話。そして今、その了念自身との決別。
これらの別れは、それぞれ異なる質を持っていたが共通して劉太郎に、深い孤独をもたらしていた。
智源が、かつて少年の猶龍に語った言葉である「問い続けるという生き方は、時に、大きな孤独を伴う」――その言葉の本当の重みを、劉太郎はこの夜、初めて身をもって理解したように感じた。
◇第八話
お雪との別れ、了念との決別――それらを経た劉太郎は、ついに、自分の中で、大きな決断を下すことになる。
彼は僧としての身分を正式に離れることを決めた。還俗――僧衣を脱ぎ、俗人としての生活に戻るという選択だった。それは、彼がこれまでの自分のすべてを一度、白紙に戻すことを意味していた。
この決断に至るまでの数日間、劉太郎は深い苦悩の中にいた。僧としての身分を離れるということは単に、外見上の変化を意味するだけではなかった。それは、彼が少年時代から、長い年月をかけて積み重ねてきた僧としての教育、修行、そして、寺の子として彼のアイデンティティの根幹そのものを、放棄することを意味していた。
しかし、劉太郎はこの決断を、単なる放棄としては捉えていなかった。彼にとって、これは、むしろ自分自身の内側にある本当の問いに、正直に向き合うための必要な一歩であった。仏門の教義の中に、彼は確かに多くの美しさと深い知恵を見出してきた。
それだけでは、もはや彼の内側で育ち続けている「なぜ」という炎を完全に満たすことはできないという事実を彼は、痛みを伴いながらも認めざるを得なかった。
還俗の手続きを終えた夜、劉太郎は鏡に映る自分の姿を、長い間見つめていた。剃られていた頭には、わずかに髪が伸び始めていた。僧衣ではない普通の着物を纏った自分の姿は、彼にとって、奇妙に他人のもののように見えた。
この鏡の前での時間は、劉太郎にとって、深く象徴的な意味を持つものであった。かつて、宗海が語った言葉――「鏡に映る自分の顔を見て、それが誰の顔なのか、自分に問い続けるのだ」――その言葉が、この夜これまでにない切実さを持って、劉太郎の胸に、戻ってきた。
彼は、この時初めて、自分の意志で新しい名を選んだ。
これまでの、猶龍という法名、安藤劉太郎という任務のための仮名――それらとは全く違う、自分自身のこれからの人生のための名前を。
「関信三」
その名を彼は静かに、しかし確かな声で口にした。関という姓は彼の故郷の遠い先祖に由来するものだった。信三という名には彼が、これから何を信じ何を為すべきかを、自分自身で探し続けるという、静かな決意が込められていた。
鏡に映る、関信三と名乗ることになった男の顔を、彼はいつまでも見つめていた。それは、猶龍の顔でも安藤劉太郎の顔でもなかった。しかし、それが本当に彼自身の顔なのかどうか――その答えは、まだ、彼にも、分からなかった。
すべてを失った後に残された、この新しい名前だけを手に、関信三はこれから、自分の人生を、もう一度、築き直していかねばならない。彼の前には、まだ何も見えていなかった。しかし、その見えない道の先にいつか、彼自身が心から信じられるものが見つかるだろうという微かな、しかし消えることのない予感だけが彼の胸の中に静かに灯り続けていた。
◇第九話
還俗した後の日々は、信三にとってこれまでのどの時期よりも、輪郭のはっきりしない、漂うような時間だった。僧としての身分もなく、任務という使命もなく、そしてお雪との未来も了念との友情もすべてが手の中からこぼれ落ちていった後、彼は横浜の町の片隅でただ、時間だけが流れていくのを感じていた。
この時期の信三の生活は、極めて質素なものであった。還俗によって、彼は寺からの支援を失った。
宗門との関わりも、事実上、断たれていた。彼は、これまで貯めてきたわずかな金と、身の回りの品だけを持って横浜の町の安い長屋に一室を借りて暮らしていた。
生活のために信三は、しばらくの間外国商館で通詞の下働きのような仕事を得た。
異国の言葉を、片言ながら学んでいたことがわずかながら、彼の身を助けた。しかし、その仕事は彼の内側にある「なぜ」という炎を、満たすものではなかった。
日々の帳簿を整理し、荷の受け渡しの記録を取るその作業の中に、彼が長年求めてきた生きる意味の手触りはどこにも見当たらなかった。
この仕事は、単調でしかし、正確さを要求される作業であった。信三は、その正確さの中にかつて、僧としての勤行の所作を身体で覚えていった時とどこか似た感覚を見出すこともあった。しかし、経を読む時に感じていた身体的な安らぎとは異なり、この帳簿仕事にはそうした精神的な充足感は、伴っていなかった。それは、ただ、生活のために必要な、機械的な労働であった。
夜になると、信三はしばしば横浜の海辺を一人で歩いた。波の音だけが、彼の周りを満たしていた。かつて、松の木の下で了念と過ごした沈黙、施療所の畑でお雪と語った時間――それらの記憶が、波の音に混じって、幾度も、彼の胸の中に浮かび上がってきた。
これらの記憶は、信三にとって時に、深い痛みを伴うものであった。しかし、同時に彼は、それらの記憶を完全に振り払うことも望んでいなかった。それらは、彼がこれまでの人生の中で、確かに深く生きた証であった。たとえ、それらの経験の多くが痛みや失望をもって終わったとしてもその経験の中で育まれた、様々な理解――信仰の多様な形、人間の心の脆さと強さ、そして、自分自身の中に、消えることなく存在する「なぜ」という問い――それらは、彼という人間の、確かな一部として、残り続けていた。
「俺は、何を間違えたのだろう」
そう自問する夜が、幾度もあった。
しかし、その問いに、明確な答えを見出すことはできなかった。彼は、任務に忠実であろうとし、同時に自分の心にも忠実であろうとした。
その二つが、最終的に、両立できないものであったという事実だけが、静かに、彼の胸に残っていた。
◇第十話
冬が深まる頃、信三は横浜の町で偶然、一人の老学者と出会った。名を、藤田という蘭学と英学を学んだ、初老の男だった。
藤田は、信三が商館で見せる異国の言葉への理解の早さに興味を持ったようだった。
藤田との出会いは、極めて偶然のものであった。ある日、商館の仕事の中で信三は、ある英文の書状の翻訳に他の通詞たちが手間取っているのを見かけた。信三は、まだ完全な翻訳の技術を持っていなかったがそれまでの独学で得た知識をもってその書状の要点を大まかに理解することができた。
その様子を、偶然商館を訪れていた藤田が目にしたのである。
「お前は、どこで、その言葉を学んだのか」
藤田にそう問われた時、信三はこれまでの経緯を、詳しくは語らなかった。ただ、独学で、少しずつ学んだんだと簡潔に答えた。
「独学とは、大したものだ。しかし、独学には、限りがある。お前が、もっと本格的に学びたいのであれば、江戸に、そうした学問を教える場がある」
その言葉は、信三の中に久しく忘れていた、知ることへの飢えを、再び、静かに呼び起こした。かつて、寺の書庫で蘭学の書物を盗み見るように読んでいた少年の頃の感覚――それが、深い虚脱の底から微かに、しかし確かに頭を持ち上げてきたのである。
この瞬間、信三はこれまでの数ヶ月間、彼が経験してきた深い虚脱の中に、初めて小さな、しかし確かな光を見出したように感じた。それは、単に新しい学問への興味という以上の意味を持っていた。それは、彼が、これまでの人生の中で、繰り返し経験してきた「なぜ」という問いが、まだ彼の内側で、完全に消え去っていないことの確かな証であった。
「その場は、誰が、教えておられるのですか」
「中村正直という学者だ。幕府の洋学の教授として知られているが、近頃は、私塾のような形で、志ある若者たちに、英学を教えているという」
中村正直――その名を、信三は、この時初めて聞いた。しかし、この名が彼の今後の人生に、どれほど大きな意味を持つことになるのか……彼はまだ、知らなかった。
藤田は、その後も信三と幾度か言葉を交わす機会を持った。藤田自身も、若い頃に様々な苦労を経て、蘭学の道に入ったという経歴を持っていた。
彼は、信三の中に自分自身の若い頃と、どこか似た知への飢えとそして、ある種の満たされない性分を感じ取っていたのかもしれない。
◇第十一話
信三は、しばらくの間、藤田の言葉を、心の中に留めたまま行動に移すことができなかった。お雪との別れ、了念との決別の傷は、まだ、深く残っていた。新しい何かに向かって歩き出す気力を、彼はなかなか取り戻すことができなかった。
この停滞の時期、信三は幾度も、自分自身に問い続けた。江戸へ向かい、新しい学問の道に進むことに、本当に、意味があるのだろうか。
それは、単に、これまでの失敗から逃げるための、もう一つの新しい仮面に過ぎないのではないか。
ある日、信三は施療所の近くを、久しぶりに歩いた。特に、目的があったわけではなかった。ただ、足が自然と、その方向に向かった。
施療所は、以前と変わらず、そこにあった。バラの姿も見えた。しかし、お雪の姿は、もう、そこにはなかった。彼女は、婚姻を経てこの町の別の場所で新しい生活を始めているはずだった。
バラは信三の姿に気づき、静かに近づいてきた。
「久しいな」
「はい」
「お前の顔は、以前よりも、老けたように見える」
信三は、その言葉に苦い笑みを浮かべた。
「色々なことがありました」
「知っている。お雪から、いくつかのことは、聞いていた」
その言葉に信三は、驚いた。
「彼女は、私のことを、何と言っていましたか」
バラはしばらく、考えるような顔をした。
「彼女は、お前を、恨んではいなかった。ただ、お前がこれから、何を信じ、何を為すのか――それを、遠くから、見守りたいと言っていた」
その言葉は、信三の胸に深く、しかし温かく沈み込んだ。恨まれていない、という事実は、彼にとって想像していたよりも、大きな救いだった。この言葉を聞いた瞬間、信三はこれまで、彼の胸の奥深くに重く沈んでいた。お雪への罪悪感の一部がわずかに、しかし確かに、軽くなるのを感じた。
「バラ先生。私は、これから、何を為せばよいのでしょうか」
その問いは、信三がこれまで、誰にもはっきりと口にすることのなかった問いだった。バラは、その問いにすぐには答えなかった。ただ、静かに信三の肩に手を置いた。
「それを探すために、お前は、これからも、生きていくのだ。答えは、探し続ける者にしか、いずれ、姿を見せない」
その言葉は、かつて、智源が語った言葉である「問いを持つ者は、問いに導かれる場所へ行くしかない」――と、遠く、しかし確かに響き合っていた。
信三は、その響き合いの中にこれから自分が進むべき、微かな方向を初めて、感じ取ることができた。
◇第十二話
その夜、信三は、藤田の言葉――中村正直という学者の名を、再び思い出した。彼は、これまでの人生の中で幾度も、名を変え、身分を変えてきた。しかし、その度に彼を動かしてきたのは、常に知らないことへの飢え、そして、「なぜ」という、消えることのない問いだった。
お雪を失い、了念を失い、仏門での身分を失った今、彼に残されているのは、この問いだけだった。そして、その問いを追い求める先に江戸で学問を学ぶという道が、微かに、しかし確かに、開かれているように見えた。
信三はその夜、久しぶりに、深く眠ることができた。
これまでの数ヶ月間、彼を苦しめ続けてきた様々な後悔と、答えのない自問――それらがこの夜、初めて静かに彼の中で、一つの方向へと収束していくのを感じた。翌朝、彼は藤田のもとを訪れ、中村正直への紹介を正式に頼んだ。
「お前は、変わったな」
藤田は、信三の目を見て、そう言った。
「以前は、どこか、諦めたような目をしていた。今は、少し違う」
「そうでしょうか」
「そうだ。何かを、また、求め始めている目をしている」
その指摘に、信三は静かに頷いた。彼の中で、長く消えていた炎が再び小さくしかし確かに、灯り始めていたのである。
江戸へ向かう準備をしながら、信三は、これまでの日々を、静かに振り返った。三河の寺での少年時代、破邪僧としての任務、長崎と横浜での日々、お雪との出会いと別れ、了念との決別、そして、還俗という選択。
これらすべての経験が、今の彼を形作っている。もし、任務に忠実であり続けていたら、もし、お雪との関係が違う結末を迎えていたら、もし、了念と決別しなかったら――そうした「もし」を考えることは、もはや、意味を持たなかった。
彼は、今、ここに立っている。
そして、これから江戸という新しい場所で、新しい何かを探し始めようとしている。
出発の朝、信三は、もう一度、施療所の前を通った。バラの姿は見えなかったが、施療所の庭に咲く小さな野草が、風に揺れているのが見えた。それは、かつて、故郷の庭で、母が指し示した野草と、よく似た花だった。
「この花は、雨が近づくと、少しだけ首を垂れるのよ」
母の声が、遠い記憶の中から、静かに、彼の胸に響いた。理由が分からなくても、そうであることを受け入れる、という母の在り方を信三は今、少しずつ理解し始めているように感じた。すべての答えを今、この場所で得る必要はない。ただ、問い続け、歩き続けること――それこそが、彼に残された、唯一の確かな道だった。
信三は、その野草に静かに一礼した。それから、江戸へ向かう道を一歩、また一歩と歩き始めた。
すべてを失った後に残された、この新しい名前だけを手に関信三は、これから自分の人生を、もう一度築き直していかねばならなかった。
彼の前には、まだ何も見えていなかった。しかし、その見えない道の先にいつか、彼自身が心から信じられるものが見つかるだろうという、微かなしかし消えることのない予感だけが、彼の胸の中に静かに灯り続けていた。



