最年長側室の覚醒 〜身分の低い私の息子が世継ぎですか? 必ず命を狙われるので、死に物狂いで守ってみせます〜

リリィの「偽りの懐妊」という巨大な爆弾が後宮の池に放り込まれたことで、水面下の生態系は完全に狂い出していた。
正妻オーレリアと第二側室ヴェロニカが嫉妬と焦燥で我を忘れ、白百合宮への無謀な攻撃を繰り返しては自滅していく中、後宮の趨勢を冷徹に見極めようとしている「もう一人の目」があった。

『琥珀宮』の主であり、富裕な新興商人連合を実家に持つ第四側室フィオナ。
彼女は美貌と愛嬌、そして何よりも「勝つ側に付く」という徹底した日和見主義と世渡り術だけで、この血塗られた後宮を生き抜いてきた女だった。

「お嬢様、よろしいのですか? これまでお仕えしてきた正妻様を裏切り、あの平民上がりのエレナ様に接触するなど……。もし失敗すれば、公爵家の怒りを買い、私たちの実家の商会ごと潰されてしまいますわ」

琥珀宮の奥で、長年フィオナに仕える敏腕の老侍女が心配そうに囁く。
フィオナは、金色のラメが施された豪華な扇をパチンと閉じると、琥珀色の瞳に商人特有の、計算高くも獰猛な光を宿して冷笑した。

「馬鹿ね。商売の基本は『損切り』のタイミングよ。オーレリア様もヴェロニカ様も、あの白百合宮の白い化け物に夢中になって、自分たちの足元がどれだけ崩れているかも気づいていない。王直属の隠密が動き、内膳司の役人が次々と消されているのよ? 陛下が誰を保護し、誰を切り捨てようとしているか、数字を見れば一目瞭然だわ。対して、あのエレナはどう? 最強の武力を持つブリジェットを抱え込み、最近ではあの読書狂のカタリナの宮とも水面下で繋がっている形跡がある。……今、一番『買い』なのは、エレナよ」

フィオナは立ち上がり、高級な絹のドレスの裾を揺らした。

「私は商人の娘。勝てない勝負に財産は賭けない。でも、勝てると踏んだ大勝負には、全財産を注ぎ込んででも莫大な配当(リターン)を毟り取るわ。……エレナへの『手土産』の準備はできているわね?」

「はっ。ヴェロニカ様が長年、王宮の財政から私的に流用していた、決定的な『帳簿』の写しにございます」

「上出来よ。さあ、日陰の魔女様に、極上の取引を申し込みに行きましょう」


その日の午後、翡翠宮の裏手にある、普段は誰も立ち入らないサンルーム。
エレナは、突然の訪問を申し入れてきたフィオナを、ブリジェットと共に迎えていた。
部屋の入り口には、ブリジェットの息がかかった屈強な衛兵が立ち、鋭い視線を周囲に走らせている。

「あらあら、随分と手厳しいお出迎えですこと。でも、今の翡翠宮の立場を考えれば、これほどの警戒も当然ですわね」

フィオナは、まるで親しい友人の家に遊びにきたかのような、人当たりの良い満面の笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
彼女から漂うのは、リリィの妖しい香香とは対照的な、現実的で高級な、柑橘系の香水の匂いだった。

「フィオナ様、お珍しいことですわね。いつもは琥珀宮に引きこもり、後宮の嵐が過ぎ去るのを優雅に眺めていらっしゃる貴方が、何の御用でしょう」

エレナは感情を一切表に出さず、冷徹にハーブティーを注ぎながら問いかけた。

「はっきり言うよ、フィオナ」

ブリジェットが大剣の柄に手をかけたまま、蜂蜜色の瞳をギラつかせて威嚇する。

「お前は正妻派の腰巾着であるヴェロニカと、よくお茶会でつるんでいたはずだ。今更そのツラを下げてエレナに近づくなんて、裏で何を企んでいる? 妙な動きをしたら、この部屋から生きて出さないよ」

「まぁ、怖い!」

フィオナはわざとらしく両手で頬を覆ってみせたが、その琥珀色の瞳は全く怯えていなかった。
彼女は優雅に椅子に腰を下ろすと、エレナの目を真っ直ぐに見据えた。

「誤解しないで、ブリジェット様。私はヴェロニカ様の腰巾着なんかじゃないわ。ただ、あの人が一番『勢力があったから』、お付き合いしてあげていただけ。商人が強い取引先と手を結ぶのは当然でしょう? でも……あの取引先は、もうすぐ倒産(破滅)するわ」

フィオナは懐から、厳重に暗号化された、何枚もの書類の束をテーブルの上に滑らせた。

「これは何かしら?」

エレナが書類を手に取り、目を細める。

「正妻派の第二夫人、ヴェロニカ様が、過去三年にわたって王宮の財政機関である『度支部(たくしぶ)』の役人を脅迫・買収し、王家の公金から莫大な金額を横領していた『裏帳簿』の写しよ」

フィオナの口から飛び出した言葉に、ブリジェットが「何だと!?」と目を見開いた。

「ヴェロニカ様の実家である公爵家はね、表向きは華やかだけれど、裏では領地の経営に失敗して火の車なの。それを補うために、ヴェロニカ様は後宮の予算や、王室の財産を私的に流用しては実家に送金していたわ。それだけじゃない……。この帳簿の直近のページを見て。彼女、最近になって急に、裏社会の『暗殺ギルド』へ巨額の資金を振り込んでいるのよ」

エレナは書類をめくる手が、微かに止まった。カタリナから得た情報、そしてレオンハルト王の告白が頭の中で瞬時に結びつく。

「暗殺ギルドへの送金……。これは、私の息子アルフレッドを狙った、あのスープの毒殺未遂や深夜の襲撃の資金源ね」

「その通りよ、エレナ様」

フィオナは身を乗り出し、妖艶に微笑んだ。

「あの時は『トカゲの尻尾切り』で下男一人が処刑されて終わったけれど、この帳簿があれば、資金の流れがすべてヴェロニカ様の私有口座へ繋がっていることが証明できる。つまり、これは彼女を『王家財産の横領』および『第一王位継承者暗殺未遂』という、一発で処刑台へ送り込める絶対的な『死刑宣告書』なのよ」

凄まじい価値を持つ「手土産」だった。
これがあれば、長年後宮を支配してきた正妻派の右腕を、完膚なきまでに叩き潰すことができる。

しかし、エレナはすぐに飛びつかなかった。
彼女は書類を一度テーブルに戻すと、フィオナの計算高い瞳をじっと見つめ返した。

「素晴らしい情報ですわ、フィオナ様。商人の娘としての貴方の有能さには、敬意を表します。……ですが、取引というからには、貴方が私にこれを差し出す見返りが必要なはず。貴方は私に、何を求めるの?」

フィオナは、エレナのこの冷静沈着な態度を見て、内心で激しく歓喜していた。

(やっぱり思った通り! この平民の女、ただ者じゃないわ。この最高の後札を前にしても、一切我を忘れない。……この賭け、私の勝ちね!)

「条件はたった二つよ、エレナ様」

フィオナは人差し指と中指を立てた。

「一つ目、この証拠を使ってヴェロニカ様を失脚させる際、私の実家である商会がこの件に関与していたことを、絶対に秘匿すること。オーレリア様の実家の公爵家からの報復を避けるためよ」

「それは構わないわ。私のルート――カタリナ様の密偵網から出た情報として陛下に突きつければ、貴方の実家に火の粉が飛ぶことはない。二つ目は?」

フィオナは立てた二本の指を、そっとエレナの手元へと近づけた。

「二つ目。ヴェロニカ様が処刑、あるいは追放された後、彼女が握っていた後宮の『内膳司』および『度支部』の利権と役人のポストを、すべて私の実家の商人連合に引き継がせてほしいの。つまり……次の後宮の『財布の管理』は、私に任せていただきたいのよ」

「ハッ! 流石は商人の娘だね、どこまでもがめつい」

ブリジェットが呆れたように笑うが、エレナの表情は真剣そのものだった。

「いいでしょう、その条件、お受けいたしますわ、フィオナ様」

エレナはフィオナの手を固く握り返した。

「貴方が我が陣営の『財布』となってくれるなら、これほど心強いことはないわ。ブリジェット様の武力、カタリナ様の情報、そしてフィオナ様の財力……これらが揃えば、私たちは後宮のどの派閥よりも強固な要塞になれる」

「取引成立ね、エレナ様! いいえ……これからは『次期王太后様』と呼ばせていただこうかしら?」

フィオナは嬉しそうに琥珀色の瞳を輝かせ、深々と一礼した。

こうして、世渡り上手の第四側室フィオナがエレナ陣営へと完全に寝返った。
エレナは即座に動き出した。
得られた裏帳簿の写しを、深夜に潜入してきたカタリナの密偵を通じて、第三側室カタリナの元へと送った。
カタリナの情報網は、帳簿に記載された王宮の役人たちを瞬時に特定し、彼らの身柄を水面下で拘束。
ヴェロニカの言い逃れを一切許さないための「外堀」を、恐るべき速度で埋めていった。

「エレナ、準備は万端だぞ」

数日後、ブリジェットが翡翠宮の奥で、不敵な笑みを浮かべた。

「カタリナの奴が、度支部の役人どもから『ヴェロニカの命令で公金を横領し、暗殺ギルドへ金を流した』という詳細な自白書を署名付きで毟り取った。これで言い逃れは絶対にできない」

エレナは、手元にある完成された証拠の束を見つめ、静かに立ち上がった。

「ええ。正妻派の右腕をへし折る時が来たわ。リリィという大国の蛇が牙を研ぐ前に、まずは目の前の鬱陶しい蝿を片付けましょう」

大人しく日陰にいたはずの平民の側室が、後宮の「武力」「情報」「財力」を完全に掌握し、牙を剥いた。
ヴェロニカの、そして正妻派の破滅へのカウントダウンが、静かに、しかし確実に始まったのである。