最年長側室の覚醒 〜身分の低い私の息子が世継ぎですか? 必ず命を狙われるので、死に物狂いで守ってみせます〜

第三側室カタリナから齎された、第六側室リリィの背後に蠢く大国ガルディニア帝国の陰謀。
そして、冷徹な国王レオンハルトがその美貌の蛇を自らの肉体で繋ぎ止め、第一王位継承者となったアルフレッドを守るための「盾」として機能しているという壮絶な真実。
そのすべてを理解したエレナは、後宮という名の盤面をより広い視野で見つめ直していた。

しかし、帝国が送り込んだ至高の工作員たるリリィが、ただ王の軟禁に甘んじているはずがなかった。
膠着し、張り詰めていた後宮の天秤を根底から叩き割るような衝撃の噂が、初夏の生温かい風に乗って、突如として全宮へと駆け巡った。

「――白百合宮の寵妃が、御医を呼び寄せたらしい」

「毎夜の寵愛があれほどなのだ、当然だろう」

「まさか……いや、間違いない。懐妊の兆候だ!」

その噂は、またたく間に尾ひれを付けて巨大化し、後宮の住人たちを狂乱の渦へと突き落とした。

「エレナ様、本当でございますか……!? リリィ様が、陛下のお子を身籠られたという噂は……っ」

翡翠宮の居間で、老侍女のマルタが今にも卒倒せんばかりの顔でエレナに縋り付いた。

「落ち着きなさい、マルタ。まだ噂の段階よ。白百合宮からの公式な発表は何も出されていないわ」

エレナは努めて冷静に言葉を返したが、手にした刺繍針を握る指先は、微かに白く強張っていた。

もしリリィの懐妊が事実であり、そして彼女が「男児」を出産するようなことがあれば
――クインテラ王国の歪んだ『五妻一子の法』の天秤は、再び激しく揺れ動くことになる。
平民の血を引き、大貴族たちから疎まれている五歳のアルフレッドに対し、王の絶対的な寵愛を受け、かつ大国の息がかかった新王子の誕生。
そうなれば、正妻オーレリアの派閥だけでなく、これまで日和見を決め込んでいた第四側室フィオナの派室や、王宮の主要な官僚たちが一斉にリリィ側へ寝返ることは火を見るより明らかだった。

「チッ、あの白い雌狐め。本当に孕みやがったのか!?」

ドカドカと荒々しい足音を立てて部屋に入ってきたのは、第五側室のブリジェットだった。
彼女はトレードマークの大剣を床に突き立て、苛立たしげに髪を掻きむしる。

「私の実家のツテで白百合宮の周囲を探らせたが、王直属の隠密どもの警戒がこれまでの十倍以上に跳ね上がっている。御医の口も完全に封じられていて、事実かどうかの確認すら取らせてもらえない。だが、後宮の医薬院から白百合宮へ、妊婦用の高価な補薬が大量に運び込まれているのは間違いないそうだ!」

「カタリナ様は何と?」

エレナは、影の同盟者となった第三側室の名を口にした。

「あの読書狂の女も、流石に今回は顔をしかめていたよ」

ブリジェットは椅子に乱暴に腰掛け、声を潜めた。

「カタリナの情報網をもってしても、白百合宮の内部の『核心』には触れられないらしい。帝国の工作員どもが、王の隠密の隙を突いてリリィと接触し、何かを仕組んだ可能性があるってさ。おい、エレナ……もしあいつが本当に男を産んだら、アルフレッド若君の立場は完全に無くなるぞ。今のうちに、あの宮に火でも放って――」

「待ちなさい、ブリジェット様。焦っては敵の思う壺よ」

エレナは鋭い一喝で武闘派の友を制した。その瞳は、凍りつくような冷徹さを湛えている。

「リリィが本当に身籠っているのか、それともそれを『見せかけて』いるだけなのか……現時点ではまだ分からないわ。それに、この状況で最も動揺し、最も愚かな行動に出るのは、私たちではないはずよ」

エレナの予想通り、リリィ懐妊の報に最も正気を失ったのは、黄金宮の主である正妻オーレリアと、第二側室のヴェロニカだった。
彼女たちは、平民の子であるアルフレッドが世継ぎになっただけでも発狂せんばかりだったのだ。
そこにきて、新参の、しかも触れることすら叶わない不気味な側室が王の正統なる御子を宿したとなれば、自らの存在意義そのものが完全に消滅してしまう。

「あり得ない……あのような小娘が、陛下の御子を宿すなど、この私が絶対に認めないわ!」

黄金宮の奥から、連日のようにオーレリアの呪詛に満ちた叫び声が響き、ヴェロニカは自身の髪を掻きむしりながら、白百合宮へ呪術の呪符を送り込もうとしては王の隠密に捕らえられ、実家の公爵家を通じて必死にもみ消すという醜態を晒していた。

正妻派が自滅の道を突き進む中、後宮のパワーバランスは完全に崩壊し、誰もが互いを監視し合う、暗黒の疑心暗鬼が支配する場所へと変貌していった。



そんなある夜。
翡翠宮の周囲を、激しい五月雨が叩きつけていた。
激しい雨音のせいで、外の見回りの衛兵たちの足音すらも掻き消されるような、暗い深夜のことだった。

アルフレッドのベッドの傍らで、静かに書物を読んでいたエレナは、背後の気配に気づいて息を呑んだ。
部屋の鍵は厳重に閉められ、ブリジェットの精鋭が廊下を固めているはずだった。
それなのに、室内の影の中から、音もなく、一人の男が姿を現したのだ。

「――エレナ」

低く、地を這うような、しかし聞き紛れようのない、冷徹な声。
漆黒の夜の外套を身に纏い、濡れた黒髪を額に垂らしたその男は――クインテラ王国の絶対の支配者であり、夫である国王レオンハルトだった。

「陛下……っ!?」

エレナは思わず立ち上がり、声を上げそうになったが、レオンハルトは素早い動きで彼女の口を大きな手で覆った。
王の身体からは、冷たい雨の匂いと、微かに血の匂いが漂っていた。

「静かにしろ。表の衛兵にも、我が隠密にも、ここにいることは知らせていない。今の余は、ただの『影』だ」

レオンハルトはエレナが落ち着いたのを確認すると、ゆっくりと手を離した。
その鉄の仮面の如き美貌には、相変わらず一切の感情が浮かんでいない。
しかし、その双眸の奥には、底知れない疲弊と、それ以上の凄まじいまでの執念が宿っていた。

「陛下、なぜこのような深夜に……。白百合宮のリリィ様が、お寂しがりになるのではありませんか?」

エレナは敢えて、挑発的な言葉を投げかけた。カタリナから真実を聞いていたが、王自身の口から、その真意を確かめたかったのだ。

レオンハルトは小さく鼻を鳴らし、ベッドの中で健やかな寝息を立てているアルフレッドに一瞬だけ視線を向けた。
そして、エレナの目を真っ直ぐに見据え、冷酷に言い放った。

「あの白百合宮の狐が、真実、余の御子を宿したとでも思っているのか」

エレナの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

「……と、仰いますと?」

「余は、あの女を一度として『抱いて』などいない」

レオンハルトの口から放たれたあまりにも衝撃的な告白に、エレナは言葉を失った。
毎夜、あれほど狂ったように白百合宮へ通い詰め、夜ごとの寵愛を注いでいると噂されていた王が、実際には彼女に触れてすらおられないというのだ。

「驚くのも無理はない。だが、それが真実だ」

レオンハルトは外套の襟を正し、冷徹な声で言葉を続けた。

「リリィはガルディニア帝国の最高位の工作員だ。我が国の婚姻法を利用し、内側から王家を壊死させるために送り込まれた毒蛇。余が彼女の宮へ通うのは、彼女に帝国との通信を許さず、その一挙手一投足を監視下に置くための時間稼ぎに過ぎん。部屋から漏れる甘い香香は、人間の理性を狂わせる帝国の秘薬……余は毎夜、あの部屋で、毒を中和する香を焚きながら、あの女と目に見えぬ刃を交わし合っているのだ」

「では、あの『懐妊の兆候』という噂は……」

「帝国の仕掛けた、次の一手だ」

レオンハルトの瞳に、鋭い殺意の光が宿る。

「余が手を下していない以上、あの女の腹に宿るものがあるとするならば、それは『嘘』か、あるいは『別の男の種』だ。どちらにせよ、帝国はあの女の懐妊を既成事実化し、余の血を引かぬ『偽りの王子』を誕生させることで、このクインテラ王国の正統なる血統を乗っ取るつもりなのだ」

王の壮絶な戦いの全貌が、ここに明かされた。
彼は自らの名誉を汚し、狂王の謗りを甘んじて受けながらも、大国という巨大な化け物から、この国と、そして自身の唯一の血を引くアルフレッドを守るために、たった一人で戦い続けていたのだ。

「これでお前の息子、アルフレッドへの注目は完全に逸れた」

レオンハルトは翻り、窓の外の激しい雨を見つめながら背中で言った。

「後宮のすべての悪意と焦燥は、今、白百合宮のリリィへと向かっている。オーレリアもヴェロニカも、あの偽りの妊婦を排除しようと血眼になり、自滅の道を突き進むだろう。エレナ……これが、余が貴様らに与えられる、最初で最後の『猶予』だ」

王はゆっくりと振り返り、その冷たい、しかしどこか父親としての切なる願いを孕んだ瞳でエレナを射抜いた。

「今のうちに、力を蓄えろ。正妻派が崩壊し、リリィの嘘が完成するまでのわずかな間に、何者が来ようともアルフレッドを守り抜けるだけの、絶対的な『牙』を研いでおけ。余の目が届かぬ裏の戦場は、お前に託す」

「……陛下」

エレナは胸の奥が激しく震えるのを感じた。
誰も守ってくれないと思っていたこの凄惨な後宮で、夫であり王であるこの男もまた、孤独な戦場で命を擦り切らせていたのだ。

エレナはスッと背筋を伸ばし、王に向かって深く、気高き一礼を捧げた。

「御意にございます、国王陛下。貴方様が命を賭して稼いでくださったこの時間、一瞬たりとも無駄にはいたしません。正妻派の悪意も、帝国の毒蛇も、私の知恵と覚悟をもって、すべてアルの踏み台にしてご覧に入れましょう。どうぞ、貴方様も……あの魔窟で、お命を落とされぬよう」

「ふん……。やはりお前を最初の妻に選んだ余の目に、狂いはなかったな、平民」

レオンハルトは微かに、本当に微かに口角を上げると、再び漆黒の闇の中に溶け込むようにして、音もなく翡翠宮から消え去っていった。

外の雨は、さらに激しさを増していた。
一人取り残された寝室で、エレナはベッドの側のアルフレッドの小さな手を、今度は愛おしさと、そして絶対の決意を込めて強く握りしめた。

「アル……お父様も、戦っていらっしゃるわ。だから、お母様も絶対に負けない。どれほど巨大な闇が押し寄せようとも、この翡翠宮の防衛線を、私たちが新時代の夜明けに変えてみせる」

リリィの「偽りの懐妊」という爆弾が後宮を狂わせる中、エレナは王から託された隠された意図を胸に、ブリジェット、カタリナという二人の強力な翼と共に、真の反撃へ向けてその牙を研ぎ澄ましていくのだった。
後宮サバイバルは、国家の存亡を賭けた極限の第3章へと、その幕を開けようとしていた。