第六側室リリィの可憐な仮面の下に隠された、底知れない本性と凶悪な野心。
それを白百合宮での対峙によって引きずり出したエレナは、かつてないほどの危機感を募らせていた。
リリィの目的は、単に国王レオンハルトの寵愛を独占することや、後宮の女たちの頂点に立つことではない。
もっと巨大な、クインテラ王国そのものを内側から崩壊させるような、恐るべき陰謀が彼女のサファイアの瞳の奥で蠢いている。
「エレナ様、お顔の色が優れませんね。リリィ様の宮で、一体何があったのですか……?」
翡翠宮の奥座敷で、老侍女のマルタが心配そうに温かいミルクを差し出す。
「マルタ、あの娘は本物の化け物よ。ヴェロニカ様たちの陰謀が可愛く思えるほどにね」
エレナはカップを受け取りながら、窓の外の闇を見つめた。
「彼女は陛下を操っている。いいえ、陛下が彼女の背後にある『何か』を警戒しているからこそ、あの異常な寵愛と保護が生まれているのだわ。もし、リリィが男児を産めば、アルの命だけでなく、この国そのものが乗っ取られてしまうかもしれない」
「そんな……。一体、あの可憐な少女のどこにそんな力が……」
マルタが恐怖に身を震わせる。
その時、翡翠宮の強固な警備網を預かる第五側室ブリジェットが、険しい表情で部屋に足を踏み入れてきた。
「エレナ、大変なことになった。いや、大変というより……奇妙なことが起きたんだ」
ブリジェットは、愛用の大剣を壁に立てかけると、珍しく困惑した様子で頭を掻いた。
「どうしたの、ブリジェット様? 正妻派がまた何か動いたの?」
「違う。正妻派じゃない。あいつらはリリィの『見えない刃』に怯えて、それぞれの宮に引きこもってガタガタ震えてるよ。動いたのは……今まで一度も派閥争いに顔を出さず、後宮の生ける幽霊とまで呼ばれていた、あの女さ」
「あの女って……第三側室の、カタリナ様?」
エレナの脳裏に、いつも『紫水晶宮』の奥で、膨大な書物に囲まれて静かに過ごしている風変わりな女性の姿が浮かんだ。
彼女は名門の学者家系の出身と言われており、美貌ではあるが、他者との交流を完全に断ち、お茶会にも体調不良を理由に滅多に姿を現さない「静観者」だった。
「ああ。そのカタリナの使者が、今、翡翠宮の裏門に立ち、お前に宛てた密書を持ってきたんだ。誰にも見られずに、エレナ本人に手渡せとな」
ブリジェットは懐から、紫色の蝋で厳重に封印された一通の書状を取り出し、テーブルの上に置いた。
エレナは慎重に封を切り、中の羊皮紙を広げた。
そこには、流麗でありながらもどこか刃のように鋭い筆跡で、短くこう記されていた。
『第一側室エレナ殿。貴方が白百合宮の蛇の尾を踏んだことは、すでに知っている。これ以上の深追いは、貴方と、貴方の愛しいアルフレッド若君を確実な死へと導くだろう。今夜、第三の鐘が鳴る頃、紫水晶宮の地下書庫へ一人で来られたし。クインテラ王国の命運を握る真実を、貴方に開示する』
「一人で来いだなんて、罠に決まっているよ! エレナ、私を同行させろ。どんな仕掛けがあろうと、私の大剣で叩き斬ってやる」
ブリジェットが語気を強めて主張するが、エレナは静かに首を振った。
「いいえ、ブリジェット様。カタリナ様がもし私を陥れるつもりなら、こんな回りくどい方法をとる必要はないわ。彼女はこれまで、誰の味方にもならず、誰の敵にもならなかった。その彼女がわざわざ『アルの死』を仄めかしてまで私を呼び出すということは、それだけの理由があるはずよ。私は行きます。一人で」
「エレナ様……! 危険すぎます!」
マルタが泣きそうになりながら縋り付くが、エレナの決意は揺るがなかった。
「大丈夫よ、マルタ。私には、ブリジェット様という心強い盾が外で見張ってくれている。カタリナ様が何者であるのか、それを確かめることも、アルを守るための戦いの一部よ」
深夜、後宮に第三の鐘が重々しく鳴り響いた。
深い霧が立ち込める中、エレナは黒い外套を深く被り、誰にも見つからないよう、後宮の最果てに位置する紫水晶宮へと向かった。
紫水晶宮は、他の豪奢な宮とは異なり、まるで古い図書館のような、独特の紙とインクの香りに包まれていた。
案内する侍女の姿もなく、指示通りに建物の最下層へと続く螺旋階段を下りていくと、そこには壁一面が天井まで届く書棚で埋め尽くされた、広大な地下書庫が広がっていた。
「よく来ましたね、エレナ様。貴方のその度胸だけは、平民の枠に収まらない本物のようだわ」
暗がりの奥から、静かな声が響いた。
机の上に置かれた一台のオイルランプの光に照らされて姿を現したのは、第三側室カタリナだった。
彼女は濃紫色のドレスを身に纏い、膝の上に厚い古文書を広げたまま、冷徹な翡翠色の瞳でエレナを見つめていた。
その佇まいは、側室というよりも、すべての事象を観察する学者のようであり、同時に、どこか熟練の暗殺者のような隙のないオーラを放っていた。
「お招きいただき、ありがとうございます、カタリナ様。お聞きしたいことが山ほどあります。貴方はなぜ、私とリリィ様の対峙を知っているのですか? そして……密書に書かれていた『確実な死』とは、一体どういう意味でしょう」
エレナは外套を脱ぎ捨て、カタリナの正面にある椅子に腰を下ろした。
カタリナは古文書を静かに閉じると、ランプの芯を調節し、部屋の明かりを少し強くした。
「私はね、エレナ様。この後宮という檻の中で、ただ本を読んでいるだけの退屈な女ではないのよ。貴方がブリジェット様という『武力』を手に入れたように、私はこの王宮に流れるあらゆる『情報』の糸を握っているの」
カタリナは机の引き出しから、何十枚もの暗号で書かれた書類の束を取り出した。
「私の実家は、表向きはしがない学者家系ですが、裏の顔は代々、クインテラ王国の王家に仕える密偵の長一族。そして今、私が個人の意思として、貴方に警告するためにここに立っているわ。リリィの背後には、この国ではない、別の『巨大な影』がいる」
「別の巨大な影……?」
エレナの脳裏に、リリィの宮から漂っていた異国の甘い香香が蘇る。
「そうよ。我が国の南方国境を接する大国、ガルディニア帝国。リリィは、そこから送り込まれた最高位の工作員、いいえ……『スパイ』よ」
カタリナの口から飛び出した衝撃の事実に、エレナは息を呑んだ。
「ガルディニア帝国……! なぜ、そのような大国の工作員が、我が国の後宮に側室として潜り込めるのですか? 婚姻の際には、厳格な家系調査があるはずでしょう」
「法律のバグよ」
カタリナは冷酷に言い放った。
「建国以来の『五妻一子の法』。王は必ず五人以上の妻を持たねばならず、上限はない。帝国はその歪んだ法を利用したの。彼らは、クインテラ王国の弱小貴族の一族を秘密裏に買収、あるいは暗殺してすり替え、リリィをその貴族の『隠し子』として仕立て上げた。そして、正妻オーレリア様が娘を産み、後宮が王位継承問題で大混乱に陥った絶妙なタイミングで、彼女を送り込んできた。すべては計算されていたのよ」
エレナは背中に冷たい戦慄が走るのを自覚した。
あの可憐な少女が、国家規模の破壊工作のために配置された駒だったのだ。
「では、レオンハルト陛下が彼女を溺愛し、毎夜通い詰めているのも……」
「気づいたようね、エレナ様。流石だわ」
カタリナは微かに口角を上げた。
「陛下は愚かではない。むしろ、冷徹なまでに賢明な王よ。陛下は、リリィが入内した初日に、彼女が帝国のスパイであることを見抜いた。だからこそ、彼女を自身の監視下に置くために、毎夜白百合宮へ通っているのよ。彼女の周囲を王直属の隠密で固めているのも、彼女を守るためではない。彼女が外部の帝国工作員と通信するのを、物理的に遮断するための『軟禁』なのよ」
点と点が一瞬にして線で繋がった。
レオンハルトがリリィに溺愛の仮面を被せていたのは、帝国の動きを封じ込め、同時に、リリィの関心を自分一人に引きつけることで、第一王位継承者となったエレナの息子アルフレッドへの攻撃を遅らせるための『肉体の盾』だったのだ。
「王は、自らの身を挺して、アルを守ろうとしていたのね……」
エレナの瞳から、微かに涙が零れそうになる。
あの夜、去り際にレオンハルトが言い残した「息子を死なせるな」という冷たい言葉の裏にあった、父親としての、そして王としての壮絶な覚悟が、ようやく理解できた。
「けれど、エレナ様。状況は最悪の方向へ向かっているわ」
カタリナの表情が、一段と険しくなる。
「貴方が白百合宮でリリィの本性を揺さぶったことで、彼女は焦り始めている。陛下による軟禁を突破するため、帝国はすでに、後宮の内部に別の工作員を潜入させつつある。もし貴方がこれ以上、リリィの秘密を暴こうと深追いすれば、帝国はクインテラ王国との全面戦争をも辞さない覚悟で、貴方とアルフレッド若君を物理的に消去するでしょう。大国の本気の暴力を前に、ブリジェット様の私兵や、貴方の浅知恵など、一瞬で消し飛ぶわ」
地下書庫の静寂の中に、カタリナの冷徹な警告が重く響き渡る。
エレナは、己の握りしめた拳が白くなるほどに力を込めた。
「カタリナ様……貴方はなぜ、私にこれを教えるのですか? 静観者として、ただ歴史が崩壊していくのを特等席で見物していればよかったはずでしょう」
カタリナは椅子の背もたれに深く寄りかかり、ふっと寂しげな溜め息を漏らした。
「私もね、この狂った『五妻一子の法』の被害者なのよ。私の家系は王家を守る影でありながら、その血の多様性を保つという名目のために、私は愛してもいない王の元へ、頭数合わせとして差し出された。この法律が続く限り、女たちは権力の道具として擦り切れていく。私は、この国が帝国に滅ぼされるのは困るけれど……この歪んだ後宮のルールそのものが壊れるなら、それは悪くないと思っているの」
カタリナはまっすぐにエレナを見据えた。
「エレナ様、貴方には、この国を帝国の魔の手から守り、かつ、この狂った法律を終わらせるだけの『覚悟』があるかしら? もしあるというなら……私の握るすべての情報網を、貴方に貸してあげてもいいわ」
初めて、後宮の闇の支配者であるカタリナが、エレナに対して「値踏み」の手を差し伸べてきたのだ。
エレナはゆっくりと立ち上がった。その顔に、もはや迷いはなかった。
「カタリナ様。お断りする理由がありませんわ。私は平民の生まれ、失うものなど最初からアルの命以外に何もありません。我が子を守るためなら、大国ガルディニア帝国だろうと、建国以来の絶対の法律だろうと、すべてをこの手で捩じ伏せてみせます。貴方のその情報、私の知恵の糧として、最大限に活用させていただきましょう」
「素晴らしいわ、エレナ様」
カタリナは満足そうに微笑み、ランプの灯りを吹き消した。
「では、これより第三側室カタリナは、貴方の影となりましょう。最初の戦いは、間もなく訪れるわ……リリィの『次の一手』に、どうぞご注意なさい」
暗闇に包まれた紫水晶宮を後にしたエレナ。
彼女の背後には今、ブリジェットという最強の『武力』に加え、カタリナという無敵の『情報網』が味方についた。
正妻派が自滅し、リリィという大国の蛇が牙を研ぐ中、エレナは真の戦場へと足を踏み入れる覚悟を完了した。
すべては、愛息アルフレッドを王座へと導き、この狂った檻を破壊するために。
それを白百合宮での対峙によって引きずり出したエレナは、かつてないほどの危機感を募らせていた。
リリィの目的は、単に国王レオンハルトの寵愛を独占することや、後宮の女たちの頂点に立つことではない。
もっと巨大な、クインテラ王国そのものを内側から崩壊させるような、恐るべき陰謀が彼女のサファイアの瞳の奥で蠢いている。
「エレナ様、お顔の色が優れませんね。リリィ様の宮で、一体何があったのですか……?」
翡翠宮の奥座敷で、老侍女のマルタが心配そうに温かいミルクを差し出す。
「マルタ、あの娘は本物の化け物よ。ヴェロニカ様たちの陰謀が可愛く思えるほどにね」
エレナはカップを受け取りながら、窓の外の闇を見つめた。
「彼女は陛下を操っている。いいえ、陛下が彼女の背後にある『何か』を警戒しているからこそ、あの異常な寵愛と保護が生まれているのだわ。もし、リリィが男児を産めば、アルの命だけでなく、この国そのものが乗っ取られてしまうかもしれない」
「そんな……。一体、あの可憐な少女のどこにそんな力が……」
マルタが恐怖に身を震わせる。
その時、翡翠宮の強固な警備網を預かる第五側室ブリジェットが、険しい表情で部屋に足を踏み入れてきた。
「エレナ、大変なことになった。いや、大変というより……奇妙なことが起きたんだ」
ブリジェットは、愛用の大剣を壁に立てかけると、珍しく困惑した様子で頭を掻いた。
「どうしたの、ブリジェット様? 正妻派がまた何か動いたの?」
「違う。正妻派じゃない。あいつらはリリィの『見えない刃』に怯えて、それぞれの宮に引きこもってガタガタ震えてるよ。動いたのは……今まで一度も派閥争いに顔を出さず、後宮の生ける幽霊とまで呼ばれていた、あの女さ」
「あの女って……第三側室の、カタリナ様?」
エレナの脳裏に、いつも『紫水晶宮』の奥で、膨大な書物に囲まれて静かに過ごしている風変わりな女性の姿が浮かんだ。
彼女は名門の学者家系の出身と言われており、美貌ではあるが、他者との交流を完全に断ち、お茶会にも体調不良を理由に滅多に姿を現さない「静観者」だった。
「ああ。そのカタリナの使者が、今、翡翠宮の裏門に立ち、お前に宛てた密書を持ってきたんだ。誰にも見られずに、エレナ本人に手渡せとな」
ブリジェットは懐から、紫色の蝋で厳重に封印された一通の書状を取り出し、テーブルの上に置いた。
エレナは慎重に封を切り、中の羊皮紙を広げた。
そこには、流麗でありながらもどこか刃のように鋭い筆跡で、短くこう記されていた。
『第一側室エレナ殿。貴方が白百合宮の蛇の尾を踏んだことは、すでに知っている。これ以上の深追いは、貴方と、貴方の愛しいアルフレッド若君を確実な死へと導くだろう。今夜、第三の鐘が鳴る頃、紫水晶宮の地下書庫へ一人で来られたし。クインテラ王国の命運を握る真実を、貴方に開示する』
「一人で来いだなんて、罠に決まっているよ! エレナ、私を同行させろ。どんな仕掛けがあろうと、私の大剣で叩き斬ってやる」
ブリジェットが語気を強めて主張するが、エレナは静かに首を振った。
「いいえ、ブリジェット様。カタリナ様がもし私を陥れるつもりなら、こんな回りくどい方法をとる必要はないわ。彼女はこれまで、誰の味方にもならず、誰の敵にもならなかった。その彼女がわざわざ『アルの死』を仄めかしてまで私を呼び出すということは、それだけの理由があるはずよ。私は行きます。一人で」
「エレナ様……! 危険すぎます!」
マルタが泣きそうになりながら縋り付くが、エレナの決意は揺るがなかった。
「大丈夫よ、マルタ。私には、ブリジェット様という心強い盾が外で見張ってくれている。カタリナ様が何者であるのか、それを確かめることも、アルを守るための戦いの一部よ」
深夜、後宮に第三の鐘が重々しく鳴り響いた。
深い霧が立ち込める中、エレナは黒い外套を深く被り、誰にも見つからないよう、後宮の最果てに位置する紫水晶宮へと向かった。
紫水晶宮は、他の豪奢な宮とは異なり、まるで古い図書館のような、独特の紙とインクの香りに包まれていた。
案内する侍女の姿もなく、指示通りに建物の最下層へと続く螺旋階段を下りていくと、そこには壁一面が天井まで届く書棚で埋め尽くされた、広大な地下書庫が広がっていた。
「よく来ましたね、エレナ様。貴方のその度胸だけは、平民の枠に収まらない本物のようだわ」
暗がりの奥から、静かな声が響いた。
机の上に置かれた一台のオイルランプの光に照らされて姿を現したのは、第三側室カタリナだった。
彼女は濃紫色のドレスを身に纏い、膝の上に厚い古文書を広げたまま、冷徹な翡翠色の瞳でエレナを見つめていた。
その佇まいは、側室というよりも、すべての事象を観察する学者のようであり、同時に、どこか熟練の暗殺者のような隙のないオーラを放っていた。
「お招きいただき、ありがとうございます、カタリナ様。お聞きしたいことが山ほどあります。貴方はなぜ、私とリリィ様の対峙を知っているのですか? そして……密書に書かれていた『確実な死』とは、一体どういう意味でしょう」
エレナは外套を脱ぎ捨て、カタリナの正面にある椅子に腰を下ろした。
カタリナは古文書を静かに閉じると、ランプの芯を調節し、部屋の明かりを少し強くした。
「私はね、エレナ様。この後宮という檻の中で、ただ本を読んでいるだけの退屈な女ではないのよ。貴方がブリジェット様という『武力』を手に入れたように、私はこの王宮に流れるあらゆる『情報』の糸を握っているの」
カタリナは机の引き出しから、何十枚もの暗号で書かれた書類の束を取り出した。
「私の実家は、表向きはしがない学者家系ですが、裏の顔は代々、クインテラ王国の王家に仕える密偵の長一族。そして今、私が個人の意思として、貴方に警告するためにここに立っているわ。リリィの背後には、この国ではない、別の『巨大な影』がいる」
「別の巨大な影……?」
エレナの脳裏に、リリィの宮から漂っていた異国の甘い香香が蘇る。
「そうよ。我が国の南方国境を接する大国、ガルディニア帝国。リリィは、そこから送り込まれた最高位の工作員、いいえ……『スパイ』よ」
カタリナの口から飛び出した衝撃の事実に、エレナは息を呑んだ。
「ガルディニア帝国……! なぜ、そのような大国の工作員が、我が国の後宮に側室として潜り込めるのですか? 婚姻の際には、厳格な家系調査があるはずでしょう」
「法律のバグよ」
カタリナは冷酷に言い放った。
「建国以来の『五妻一子の法』。王は必ず五人以上の妻を持たねばならず、上限はない。帝国はその歪んだ法を利用したの。彼らは、クインテラ王国の弱小貴族の一族を秘密裏に買収、あるいは暗殺してすり替え、リリィをその貴族の『隠し子』として仕立て上げた。そして、正妻オーレリア様が娘を産み、後宮が王位継承問題で大混乱に陥った絶妙なタイミングで、彼女を送り込んできた。すべては計算されていたのよ」
エレナは背中に冷たい戦慄が走るのを自覚した。
あの可憐な少女が、国家規模の破壊工作のために配置された駒だったのだ。
「では、レオンハルト陛下が彼女を溺愛し、毎夜通い詰めているのも……」
「気づいたようね、エレナ様。流石だわ」
カタリナは微かに口角を上げた。
「陛下は愚かではない。むしろ、冷徹なまでに賢明な王よ。陛下は、リリィが入内した初日に、彼女が帝国のスパイであることを見抜いた。だからこそ、彼女を自身の監視下に置くために、毎夜白百合宮へ通っているのよ。彼女の周囲を王直属の隠密で固めているのも、彼女を守るためではない。彼女が外部の帝国工作員と通信するのを、物理的に遮断するための『軟禁』なのよ」
点と点が一瞬にして線で繋がった。
レオンハルトがリリィに溺愛の仮面を被せていたのは、帝国の動きを封じ込め、同時に、リリィの関心を自分一人に引きつけることで、第一王位継承者となったエレナの息子アルフレッドへの攻撃を遅らせるための『肉体の盾』だったのだ。
「王は、自らの身を挺して、アルを守ろうとしていたのね……」
エレナの瞳から、微かに涙が零れそうになる。
あの夜、去り際にレオンハルトが言い残した「息子を死なせるな」という冷たい言葉の裏にあった、父親としての、そして王としての壮絶な覚悟が、ようやく理解できた。
「けれど、エレナ様。状況は最悪の方向へ向かっているわ」
カタリナの表情が、一段と険しくなる。
「貴方が白百合宮でリリィの本性を揺さぶったことで、彼女は焦り始めている。陛下による軟禁を突破するため、帝国はすでに、後宮の内部に別の工作員を潜入させつつある。もし貴方がこれ以上、リリィの秘密を暴こうと深追いすれば、帝国はクインテラ王国との全面戦争をも辞さない覚悟で、貴方とアルフレッド若君を物理的に消去するでしょう。大国の本気の暴力を前に、ブリジェット様の私兵や、貴方の浅知恵など、一瞬で消し飛ぶわ」
地下書庫の静寂の中に、カタリナの冷徹な警告が重く響き渡る。
エレナは、己の握りしめた拳が白くなるほどに力を込めた。
「カタリナ様……貴方はなぜ、私にこれを教えるのですか? 静観者として、ただ歴史が崩壊していくのを特等席で見物していればよかったはずでしょう」
カタリナは椅子の背もたれに深く寄りかかり、ふっと寂しげな溜め息を漏らした。
「私もね、この狂った『五妻一子の法』の被害者なのよ。私の家系は王家を守る影でありながら、その血の多様性を保つという名目のために、私は愛してもいない王の元へ、頭数合わせとして差し出された。この法律が続く限り、女たちは権力の道具として擦り切れていく。私は、この国が帝国に滅ぼされるのは困るけれど……この歪んだ後宮のルールそのものが壊れるなら、それは悪くないと思っているの」
カタリナはまっすぐにエレナを見据えた。
「エレナ様、貴方には、この国を帝国の魔の手から守り、かつ、この狂った法律を終わらせるだけの『覚悟』があるかしら? もしあるというなら……私の握るすべての情報網を、貴方に貸してあげてもいいわ」
初めて、後宮の闇の支配者であるカタリナが、エレナに対して「値踏み」の手を差し伸べてきたのだ。
エレナはゆっくりと立ち上がった。その顔に、もはや迷いはなかった。
「カタリナ様。お断りする理由がありませんわ。私は平民の生まれ、失うものなど最初からアルの命以外に何もありません。我が子を守るためなら、大国ガルディニア帝国だろうと、建国以来の絶対の法律だろうと、すべてをこの手で捩じ伏せてみせます。貴方のその情報、私の知恵の糧として、最大限に活用させていただきましょう」
「素晴らしいわ、エレナ様」
カタリナは満足そうに微笑み、ランプの灯りを吹き消した。
「では、これより第三側室カタリナは、貴方の影となりましょう。最初の戦いは、間もなく訪れるわ……リリィの『次の一手』に、どうぞご注意なさい」
暗闇に包まれた紫水晶宮を後にしたエレナ。
彼女の背後には今、ブリジェットという最強の『武力』に加え、カタリナという無敵の『情報網』が味方についた。
正妻派が自滅し、リリィという大国の蛇が牙を研ぐ中、エレナは真の戦場へと足を踏み入れる覚悟を完了した。
すべては、愛息アルフレッドを王座へと導き、この狂った檻を破壊するために。



