国王レオンハルトの狂気的な寵愛の盾に守られ、後宮の頂点へと一気に駆け上がらんとする第六側室リリィ。
正妻派の放った刺客や陰謀が、影の冷徹な暴力によって悉く塵へと変えられていく中、後宮に漂う空気は恐怖と猜疑心で限界まで張り詰めていた。
触れれば即座に破滅を迎えるという不可侵の怪物の如き存在となった白百合宮の主に対し、他の側室たちが完全に萎縮し、自らの宮の扉を固く閉ざして嵐の通過を待つ中、第一側室エレナだけは異なる決意を固めていた。
(敵の正体を知らぬまま、ただ怯えて過ごすなど、私の選択肢にはない。あの少女の瞳の奥にある本質を、この目で見極めなければ、アルを守り抜くことなど不可能なのだから)
そう心に決めたエレナは、後宮の慣例である「新入内への挨拶」という大義名分を掲げ、単身で白百合宮へと赴くことを決意した。
「エレナ様、本当に行かれるのですか!? あそこは今や、近づくだけで命を落としかねない魔窟のような場所でございます。ブリジェット様の衛兵も、あの宮の敷地内までは同行できません!」
老侍女マルタが、衣服の裾を掴まんばかりの勢いでエレナを引き留める。
「分かっているわ、マルタ。けれど、正妻オーレリア様やヴェロニカ様が恐怖で動けない今こそ、私たちが先手を打つ好機なの。リリィが本当に王を惑わすだけの無垢な人形なのか、それとも私たち全員を喰らい尽くそうとする猛毒の蛇なのか……それを知る必要があるのよ。アルの母親として、ここで退くわけにはいかないわ」
エレナは凛とした表情で鏡に映る己の姿を見つめ、髪飾りを整えた。
その瞳には、かつての儚げな平民の娘の面影はなく、我が子のために命を賭す覚悟を決めた、冷徹なまでの光が宿っていた。
白百合宮へと続く回廊は、不気味なほどに静まり返っていた。
普段であれば他宮の侍女たちが忙しなく行き交うはずの道には人影が一切なく、ただ、王直属の隠密と思しき漆黒の甲冑を身に纏った近衛兵たちが、大理石の柱の影から冷酷な視線をエレナへと注いでいた。
一歩進むごとに、喉を締め付けられるような濃密な殺気が肌を刺す。
しかし、エレナの歩みが怯えで乱れることはなかった。
やがて、白百合宮の重厚な扉が開かれ、エレナは広大な応接室へと通された。
部屋の中に一歩足を踏み入れた瞬間、脳を直接麻痺させるかのような、あの妖しく甘い異国の香香が鼻腔を突いた。
部屋の調度品はどれも、この国の伝統的な様式とは異なる、南方の異国情緒を漂わせる豪華絢爛なものばかりで、王がリリィのためにどれほどの国富を惜しみなく注ぎ込んでいるかが一目で理解できた。
「――あ、あの……エレナ様、でしょうか……っ」
部屋の奥、豪奢な天蓋付きの長椅子の陰から、おどおどとした小さな声が響いた。
現れたのは、あの入内初日と変わらぬ、純白の髪を揺らした可憐な少女だった。
リリィは大きなサファイアの瞳を不安げに潤ませ、細い両手で自身のドレスの裾をぎゅっと握りしめている。
その姿は、あまりにも小さく、あまりにも無力で、王宮中を震撼させている恐怖の元凶とは到底信じられないほどだった。
「突然の訪問、お許しください、リリィ様。第一側室のエレナと申します。新しく入内された貴方へ、ささやかながら歓迎のご挨拶をと思い、お時間をいただきました」
エレナは完璧な礼法に則り、優雅に頭を下げた。
平民の生まれでありながら、この五年間で血の滲むような努力で身に付けた気品ある所作は、大貴族の令嬢たちと比較しても決して見劣りするものではなかった。
「い、いえ……! 私のような者に、わざわざ高貴なエレナ様が足を運んでくださるなんて……。私、本当に嬉しくて……でも、他の方々は皆様、私のことを『不吉な白い髪の妖狐』と仰って、誰も近づいてくださらなくて……。うう、私、怖くて仕方がなかったのです……っ」
リリィはそう言うと、ポロポロと真珠のような涙をその白い頬に伝わせ、その場にへたり込むようにして顔を覆った。
そのあまりにも痛々しく、庇護欲をそそる姿に、もし並の人間であれば、己の警戒心を恥じ、即座に彼女を抱きしめて慰めていただろう。
しかし、エレナの理性が、胸の奥で冷たく警鐘を鳴らし続けていた。
(……完璧すぎる。この涙も、震える肩も、他者の同情を誘うための計算され尽くした『演劇』だわ。本当に怯えている人間は、呼吸の乱れを隠せない。けれど、この娘の呼吸の根底には、驚くほど一定で、冷徹なまでの安定感がある)
エレナは努めて優しい微笑みを浮かべながら、リリィの側に歩み寄り、彼女の華奢な肩に手を置いた。
「リリィ様。後宮という場所は、不慣れな者にとってはあまりにも冷酷な檻ですからね。でも、ご安心なさい。私たちが、貴方の力になりますわ」
エレナがそう言った瞬間、周囲の空気の温度が、一瞬にして氷点下まで急降下したかのような錯覚を覚えた。
「――お人好しなのね、エレナ様」
低く、冷たく、そしてゾッとするほど落ち着いた声が、リリィの口から漏れ出た。
リリィは顔を覆っていた両手をゆっくりと下ろした。
その顔には、先ほどまで浮かんでいた涙も、怯えの表情も、一切存在していなかった。
白い肌の奥で、口角が吊り上がり、妖艶で、かつ残酷な笑みが形作られていく。
リリィはゆっくりと立ち上がると、エレナの手を払いのけることもせず、逆にその華奢な指先で、エレナの頬を優しく撫で上げた。
その指先は、まるで死人のように冷たかった。
「驚いた? これが私の本当の顔よ。お茶会でヴェロニカを怒鳴り散らしたっていうから、もう少し骨のある女かと思ったけれど……わざわざ自ら私の毒牙の前に首を差し出しに来るなんて、平民の知恵なんてやはりその程度の手ぬるいものなのね」
リリィのサファイアの瞳の奥で、あの底なしの「奈落の闇」が、爛々と輝きを増していた。
おどおどした少女の仮面は完全に剥ぎ取られ、そこには後宮のすべてを冷酷に見下ろす、恐るべき支配者の精神が君臨していた。
「リリィ様……やはり、貴方が一連の事件の裏にいるのね」
エレナは頬に触れる冷たい指先をじっと見つめながら、声を荒げることなく、静かに問いかけた。
「一連の事件? ああ、あの私を害そうとした愚か者たちのことかしら? 勘違いしないで、エレナ様。私は何も命令なんてしていないわ。ただ、愛しいレオンハルト陛下に『お姉様たちが怖くて、夜も眠れません』と、ほんの少し涙を流して縋り付いただけ。そうすれば、あの愚かな王は、私のために勝手に手を汚して、邪魔者を綺麗に片付けてくれるのよ。男なんて、転がすのは本当に容易いことだわ」
リリィは楽しげにクスクスと笑い、エレナの周囲を、まるで獲物を品定めする蛇のようにゆっくりと歩き回り始めた。
「正妻のオーレリアも、あの腰巾着のヴェロニカも、目先の身分や権力に胡坐をかいているだけのただの肉塊。あんな奴ら、私の敵にすらならないわ。この後宮で、本当に排除すべき価値があるのは……歪んだ法律の隙間を突いて、平民の身分でありながら『次期国王の母』の座に収まった、貴方だけよ、エレナ様」
リリィはエレナの背後に回ると、彼女の耳元に口を寄せ、呪いの如き言葉を囁いた。
「ねえ、エレナ様。貴方の宝物……あのアルフレッドとかいう五歳の男の子、いつまで無事でいられるかしらね?」
エレナの全身の血が、一瞬にして激しく沸騰するような怒りへと変わった。
しかし、彼女はここで感情を爆発させれば、リリィの思う壺であることも理解していた。
エレナは深く息を吸い、ゆっくりと振り返って、リリィの冷酷な笑みを正面から見据えた。
「私の息子に、指一本でも触れてごらんなさい。私は貴方を、この国から完全に消し去ってみせるわ」
「あら、怖い。魔女の覚醒ってわけ? でも、貴方に何ができるの?」
リリィは嘲笑うように肩をすくめた。
「今の私には、王の絶対的な寵愛がある。私の言葉一つで、貴方の翡翠宮なんて一晩で血の海に変えることだってできるのよ? 貴方の後ろ盾なんて、実家が少し武力を持っているだけの第五側室ブリジェットでしょう? あんな脳筋の女ごと、私の影の軍勢で叩き潰してあげるわ」
「そうかしら? 貴方がどれほど王を操っているつもりでも、陛下はそれほど愚かなお方ではないわ」
エレナは一歩前へ踏み込み、リリィとの距離を詰めた。
「陛下が貴方を溺愛しているのは事実かもしれない。けれど、王が本当に守ろうとしているのが、貴方という『個人』なのか、それとも貴方の背後にある『何か』なのか……貴方は本当に理解しているの?」
エレナのその言葉に、リリィの眉がほんの一瞬だけ、ピクリと不自然に跳ねた。
その完璧にコントロールされていた冷酷な表情に、微かな、しかし決定的な「動揺」の隙間が生まれたのを、エレナの鋭い目は見逃さなかった。
(やはり……! この娘の目的は、単なる後宮の権力争いや、王の寵愛を得ることではない。もっと巨大な、この国の根幹を揺るがすような意図を持って、この檻に潜り込んできたのだわ)
「ふん……。口の減らない女ね。これ以上、貴方と無駄話をする価値はなさそうだわ。挨拶は十分に受け取ったから、さっさと自分の小汚い宮へお帰りなさい」
リリィは不機嫌そうに顔を背け、再び長椅子へと腰を下ろした。
その姿は、瞬時にしてまた「おどおどした哀れな少女」のそれへと戻っていく。完璧な切り替えだった。
「ええ、失礼いたしますわ、リリィ様。どうぞ、陛下との甘い夜を末永くお楽しみください。けれど、忘れないで。この後宮の主は、法律であり、そして我が子を守るために悪魔にでもなる私よ」
エレナは凛とした足取りで白百合宮を後にした。
背後から、リリィの冷酷で、底知れない殺意を孕んだ視線が突き刺さるのを感じながらも、エレナの胸には、恐怖ではなく、確固たる「戦意」が燃え上がっていた。
白百合宮を出て、ブリジェットが待つ翡翠宮へと戻る道すがら、エレナは自身の震える手を強く握りしめた。
リリィはただの被害者でも、単なる我儘な寵妃でもない。
恐るべき野心と、国家を破滅に導きかねない冷徹な知略を秘めた、史上最凶の敵であることを、エレナは完全に確信したのだ。
「ブリジェット様、マルタ……。戦いの次元が変わったわ。私たちはこれから、後宮の女狐だけでなく、歴史の闇に潜む本物の化け物と戦わねばならない」
自室に戻ったエレナは、駆け寄ってくるアルフレッドを強く抱きしめながら、迫り来る真の暗黒に立ち向かうため、さらなる知恵の要塞を築くことを誓うのだった。
天使の皮を被った蛇との、命を賭けた極限の頭脳戦が、ここに幕を開けた。
正妻派の放った刺客や陰謀が、影の冷徹な暴力によって悉く塵へと変えられていく中、後宮に漂う空気は恐怖と猜疑心で限界まで張り詰めていた。
触れれば即座に破滅を迎えるという不可侵の怪物の如き存在となった白百合宮の主に対し、他の側室たちが完全に萎縮し、自らの宮の扉を固く閉ざして嵐の通過を待つ中、第一側室エレナだけは異なる決意を固めていた。
(敵の正体を知らぬまま、ただ怯えて過ごすなど、私の選択肢にはない。あの少女の瞳の奥にある本質を、この目で見極めなければ、アルを守り抜くことなど不可能なのだから)
そう心に決めたエレナは、後宮の慣例である「新入内への挨拶」という大義名分を掲げ、単身で白百合宮へと赴くことを決意した。
「エレナ様、本当に行かれるのですか!? あそこは今や、近づくだけで命を落としかねない魔窟のような場所でございます。ブリジェット様の衛兵も、あの宮の敷地内までは同行できません!」
老侍女マルタが、衣服の裾を掴まんばかりの勢いでエレナを引き留める。
「分かっているわ、マルタ。けれど、正妻オーレリア様やヴェロニカ様が恐怖で動けない今こそ、私たちが先手を打つ好機なの。リリィが本当に王を惑わすだけの無垢な人形なのか、それとも私たち全員を喰らい尽くそうとする猛毒の蛇なのか……それを知る必要があるのよ。アルの母親として、ここで退くわけにはいかないわ」
エレナは凛とした表情で鏡に映る己の姿を見つめ、髪飾りを整えた。
その瞳には、かつての儚げな平民の娘の面影はなく、我が子のために命を賭す覚悟を決めた、冷徹なまでの光が宿っていた。
白百合宮へと続く回廊は、不気味なほどに静まり返っていた。
普段であれば他宮の侍女たちが忙しなく行き交うはずの道には人影が一切なく、ただ、王直属の隠密と思しき漆黒の甲冑を身に纏った近衛兵たちが、大理石の柱の影から冷酷な視線をエレナへと注いでいた。
一歩進むごとに、喉を締め付けられるような濃密な殺気が肌を刺す。
しかし、エレナの歩みが怯えで乱れることはなかった。
やがて、白百合宮の重厚な扉が開かれ、エレナは広大な応接室へと通された。
部屋の中に一歩足を踏み入れた瞬間、脳を直接麻痺させるかのような、あの妖しく甘い異国の香香が鼻腔を突いた。
部屋の調度品はどれも、この国の伝統的な様式とは異なる、南方の異国情緒を漂わせる豪華絢爛なものばかりで、王がリリィのためにどれほどの国富を惜しみなく注ぎ込んでいるかが一目で理解できた。
「――あ、あの……エレナ様、でしょうか……っ」
部屋の奥、豪奢な天蓋付きの長椅子の陰から、おどおどとした小さな声が響いた。
現れたのは、あの入内初日と変わらぬ、純白の髪を揺らした可憐な少女だった。
リリィは大きなサファイアの瞳を不安げに潤ませ、細い両手で自身のドレスの裾をぎゅっと握りしめている。
その姿は、あまりにも小さく、あまりにも無力で、王宮中を震撼させている恐怖の元凶とは到底信じられないほどだった。
「突然の訪問、お許しください、リリィ様。第一側室のエレナと申します。新しく入内された貴方へ、ささやかながら歓迎のご挨拶をと思い、お時間をいただきました」
エレナは完璧な礼法に則り、優雅に頭を下げた。
平民の生まれでありながら、この五年間で血の滲むような努力で身に付けた気品ある所作は、大貴族の令嬢たちと比較しても決して見劣りするものではなかった。
「い、いえ……! 私のような者に、わざわざ高貴なエレナ様が足を運んでくださるなんて……。私、本当に嬉しくて……でも、他の方々は皆様、私のことを『不吉な白い髪の妖狐』と仰って、誰も近づいてくださらなくて……。うう、私、怖くて仕方がなかったのです……っ」
リリィはそう言うと、ポロポロと真珠のような涙をその白い頬に伝わせ、その場にへたり込むようにして顔を覆った。
そのあまりにも痛々しく、庇護欲をそそる姿に、もし並の人間であれば、己の警戒心を恥じ、即座に彼女を抱きしめて慰めていただろう。
しかし、エレナの理性が、胸の奥で冷たく警鐘を鳴らし続けていた。
(……完璧すぎる。この涙も、震える肩も、他者の同情を誘うための計算され尽くした『演劇』だわ。本当に怯えている人間は、呼吸の乱れを隠せない。けれど、この娘の呼吸の根底には、驚くほど一定で、冷徹なまでの安定感がある)
エレナは努めて優しい微笑みを浮かべながら、リリィの側に歩み寄り、彼女の華奢な肩に手を置いた。
「リリィ様。後宮という場所は、不慣れな者にとってはあまりにも冷酷な檻ですからね。でも、ご安心なさい。私たちが、貴方の力になりますわ」
エレナがそう言った瞬間、周囲の空気の温度が、一瞬にして氷点下まで急降下したかのような錯覚を覚えた。
「――お人好しなのね、エレナ様」
低く、冷たく、そしてゾッとするほど落ち着いた声が、リリィの口から漏れ出た。
リリィは顔を覆っていた両手をゆっくりと下ろした。
その顔には、先ほどまで浮かんでいた涙も、怯えの表情も、一切存在していなかった。
白い肌の奥で、口角が吊り上がり、妖艶で、かつ残酷な笑みが形作られていく。
リリィはゆっくりと立ち上がると、エレナの手を払いのけることもせず、逆にその華奢な指先で、エレナの頬を優しく撫で上げた。
その指先は、まるで死人のように冷たかった。
「驚いた? これが私の本当の顔よ。お茶会でヴェロニカを怒鳴り散らしたっていうから、もう少し骨のある女かと思ったけれど……わざわざ自ら私の毒牙の前に首を差し出しに来るなんて、平民の知恵なんてやはりその程度の手ぬるいものなのね」
リリィのサファイアの瞳の奥で、あの底なしの「奈落の闇」が、爛々と輝きを増していた。
おどおどした少女の仮面は完全に剥ぎ取られ、そこには後宮のすべてを冷酷に見下ろす、恐るべき支配者の精神が君臨していた。
「リリィ様……やはり、貴方が一連の事件の裏にいるのね」
エレナは頬に触れる冷たい指先をじっと見つめながら、声を荒げることなく、静かに問いかけた。
「一連の事件? ああ、あの私を害そうとした愚か者たちのことかしら? 勘違いしないで、エレナ様。私は何も命令なんてしていないわ。ただ、愛しいレオンハルト陛下に『お姉様たちが怖くて、夜も眠れません』と、ほんの少し涙を流して縋り付いただけ。そうすれば、あの愚かな王は、私のために勝手に手を汚して、邪魔者を綺麗に片付けてくれるのよ。男なんて、転がすのは本当に容易いことだわ」
リリィは楽しげにクスクスと笑い、エレナの周囲を、まるで獲物を品定めする蛇のようにゆっくりと歩き回り始めた。
「正妻のオーレリアも、あの腰巾着のヴェロニカも、目先の身分や権力に胡坐をかいているだけのただの肉塊。あんな奴ら、私の敵にすらならないわ。この後宮で、本当に排除すべき価値があるのは……歪んだ法律の隙間を突いて、平民の身分でありながら『次期国王の母』の座に収まった、貴方だけよ、エレナ様」
リリィはエレナの背後に回ると、彼女の耳元に口を寄せ、呪いの如き言葉を囁いた。
「ねえ、エレナ様。貴方の宝物……あのアルフレッドとかいう五歳の男の子、いつまで無事でいられるかしらね?」
エレナの全身の血が、一瞬にして激しく沸騰するような怒りへと変わった。
しかし、彼女はここで感情を爆発させれば、リリィの思う壺であることも理解していた。
エレナは深く息を吸い、ゆっくりと振り返って、リリィの冷酷な笑みを正面から見据えた。
「私の息子に、指一本でも触れてごらんなさい。私は貴方を、この国から完全に消し去ってみせるわ」
「あら、怖い。魔女の覚醒ってわけ? でも、貴方に何ができるの?」
リリィは嘲笑うように肩をすくめた。
「今の私には、王の絶対的な寵愛がある。私の言葉一つで、貴方の翡翠宮なんて一晩で血の海に変えることだってできるのよ? 貴方の後ろ盾なんて、実家が少し武力を持っているだけの第五側室ブリジェットでしょう? あんな脳筋の女ごと、私の影の軍勢で叩き潰してあげるわ」
「そうかしら? 貴方がどれほど王を操っているつもりでも、陛下はそれほど愚かなお方ではないわ」
エレナは一歩前へ踏み込み、リリィとの距離を詰めた。
「陛下が貴方を溺愛しているのは事実かもしれない。けれど、王が本当に守ろうとしているのが、貴方という『個人』なのか、それとも貴方の背後にある『何か』なのか……貴方は本当に理解しているの?」
エレナのその言葉に、リリィの眉がほんの一瞬だけ、ピクリと不自然に跳ねた。
その完璧にコントロールされていた冷酷な表情に、微かな、しかし決定的な「動揺」の隙間が生まれたのを、エレナの鋭い目は見逃さなかった。
(やはり……! この娘の目的は、単なる後宮の権力争いや、王の寵愛を得ることではない。もっと巨大な、この国の根幹を揺るがすような意図を持って、この檻に潜り込んできたのだわ)
「ふん……。口の減らない女ね。これ以上、貴方と無駄話をする価値はなさそうだわ。挨拶は十分に受け取ったから、さっさと自分の小汚い宮へお帰りなさい」
リリィは不機嫌そうに顔を背け、再び長椅子へと腰を下ろした。
その姿は、瞬時にしてまた「おどおどした哀れな少女」のそれへと戻っていく。完璧な切り替えだった。
「ええ、失礼いたしますわ、リリィ様。どうぞ、陛下との甘い夜を末永くお楽しみください。けれど、忘れないで。この後宮の主は、法律であり、そして我が子を守るために悪魔にでもなる私よ」
エレナは凛とした足取りで白百合宮を後にした。
背後から、リリィの冷酷で、底知れない殺意を孕んだ視線が突き刺さるのを感じながらも、エレナの胸には、恐怖ではなく、確固たる「戦意」が燃え上がっていた。
白百合宮を出て、ブリジェットが待つ翡翠宮へと戻る道すがら、エレナは自身の震える手を強く握りしめた。
リリィはただの被害者でも、単なる我儘な寵妃でもない。
恐るべき野心と、国家を破滅に導きかねない冷徹な知略を秘めた、史上最凶の敵であることを、エレナは完全に確信したのだ。
「ブリジェット様、マルタ……。戦いの次元が変わったわ。私たちはこれから、後宮の女狐だけでなく、歴史の闇に潜む本物の化け物と戦わねばならない」
自室に戻ったエレナは、駆け寄ってくるアルフレッドを強く抱きしめながら、迫り来る真の暗黒に立ち向かうため、さらなる知恵の要塞を築くことを誓うのだった。
天使の皮を被った蛇との、命を賭けた極限の頭脳戦が、ここに幕を開けた。



