それから三日後、兄は化粧をしていた。
畳の上に広げられているのは、漆塗りの古い化粧箱。その中から、普段は見せることすらない特別なパレットを開き、慣れた手つきで丁寧に筆を整える。
部屋に漂うのは、ほんのりと甘く、どこか白粉特有の落ち着いた香り。兄は小さく息を吐くと、朱色の丸い紅を水で溶いて筆先につけ、迷いのない所作でそれを唇に差した。
白く整えられた肌に、鮮やかな赤が一筋。
その瞬間、いつもの見慣れた顔が、まるで別人のような、息をのむほど美しい『誰か』へと変わっていく。
化粧をする手は微かに震え、その目尻には大粒の涙が浮かんでいた。けれど、どれだけ涙がこぼれようとも、手順だけはいつも通り、どこまでも丁寧で、おごそかだった。
その様子をすぐ傍らで見つめながら、海はいつもに増して興奮していた。
「良いなぁ……その紅。お兄ちゃんが庭で大事に育てていた花から作ったやつだ!」
嬉しくて、ついはしゃいだ声が出てしまう。
庭の片隅で、兄が毎日愛おしそうに水をやり、陽に当てていたあの小さな赤い花。この瞬間のために、自らの手で丁寧に摘み取り、すり潰して色を抽出している。海の思い描いていた通り、息を飲むような綺麗な赤だった。
けれど、唇にそっと紅を引きながら、兄はただただ肩を震わせ、静かにすすり泣くだけだ。それでも、決して筆を持つ手元だけは止めようとしない。
海の無邪気な声が響いた部屋の中で、兄の目尻からこぼれた涙は頬を伝い落る。
「ごめん、ごめんな……海、ごめんな……」
何度も、何度も、脆く、今にも千切れそうな細い声で謝罪の言葉を繰り返す。
「泣かないでよ、お兄ちゃん。ずっと納棺師のする死化粧が羨ましかったんだ」
必死に慰めの言葉をかけ、その涙を拭ってあげようと手を伸ばす。けれど、海の言葉は届かない。
差し出した指先は、ずるりと兄の身体をすり抜けて空を斬るだけだった。流れる涙を止めてあげることも、今の海にはできなかった。
自分の選択した結末について、海は一ミリも後悔などしていなかった。ただ、大好きな兄には、自分の旅立ちを笑顔で送り出してほしかっただけ。
「やっと私の、念願が叶ったんだから。……ねえ、泣かないで?」
幸福そのものの、どこまでも無垢な笑みを浮かべて、海は死化粧を施されている『その人』へと視線を落とした。
静かな和室の真ん中。真っ白な死装束に身を包み、冷たい畳の上に横たえられている、自分自身の姿。
震える手で紡がれる最後の魔法は、もうすぐ終わりを迎えようとしていた。
ぽつり、と兄の目からこぼれ落ちた一滴の涙が、海の冷たい頬に落ちて、せっかくの薄紅の色彩をほんの少しだけ滲ませる。
それがおかしくて、愛おしくて。
鮮やかな赤に彩られた自分は、何だか幸せそうな顔をしている。
「もっと私を、綺麗にしてよ」
畳の上に広げられているのは、漆塗りの古い化粧箱。その中から、普段は見せることすらない特別なパレットを開き、慣れた手つきで丁寧に筆を整える。
部屋に漂うのは、ほんのりと甘く、どこか白粉特有の落ち着いた香り。兄は小さく息を吐くと、朱色の丸い紅を水で溶いて筆先につけ、迷いのない所作でそれを唇に差した。
白く整えられた肌に、鮮やかな赤が一筋。
その瞬間、いつもの見慣れた顔が、まるで別人のような、息をのむほど美しい『誰か』へと変わっていく。
化粧をする手は微かに震え、その目尻には大粒の涙が浮かんでいた。けれど、どれだけ涙がこぼれようとも、手順だけはいつも通り、どこまでも丁寧で、おごそかだった。
その様子をすぐ傍らで見つめながら、海はいつもに増して興奮していた。
「良いなぁ……その紅。お兄ちゃんが庭で大事に育てていた花から作ったやつだ!」
嬉しくて、ついはしゃいだ声が出てしまう。
庭の片隅で、兄が毎日愛おしそうに水をやり、陽に当てていたあの小さな赤い花。この瞬間のために、自らの手で丁寧に摘み取り、すり潰して色を抽出している。海の思い描いていた通り、息を飲むような綺麗な赤だった。
けれど、唇にそっと紅を引きながら、兄はただただ肩を震わせ、静かにすすり泣くだけだ。それでも、決して筆を持つ手元だけは止めようとしない。
海の無邪気な声が響いた部屋の中で、兄の目尻からこぼれた涙は頬を伝い落る。
「ごめん、ごめんな……海、ごめんな……」
何度も、何度も、脆く、今にも千切れそうな細い声で謝罪の言葉を繰り返す。
「泣かないでよ、お兄ちゃん。ずっと納棺師のする死化粧が羨ましかったんだ」
必死に慰めの言葉をかけ、その涙を拭ってあげようと手を伸ばす。けれど、海の言葉は届かない。
差し出した指先は、ずるりと兄の身体をすり抜けて空を斬るだけだった。流れる涙を止めてあげることも、今の海にはできなかった。
自分の選択した結末について、海は一ミリも後悔などしていなかった。ただ、大好きな兄には、自分の旅立ちを笑顔で送り出してほしかっただけ。
「やっと私の、念願が叶ったんだから。……ねえ、泣かないで?」
幸福そのものの、どこまでも無垢な笑みを浮かべて、海は死化粧を施されている『その人』へと視線を落とした。
静かな和室の真ん中。真っ白な死装束に身を包み、冷たい畳の上に横たえられている、自分自身の姿。
震える手で紡がれる最後の魔法は、もうすぐ終わりを迎えようとしていた。
ぽつり、と兄の目からこぼれ落ちた一滴の涙が、海の冷たい頬に落ちて、せっかくの薄紅の色彩をほんの少しだけ滲ませる。
それがおかしくて、愛おしくて。
鮮やかな赤に彩られた自分は、何だか幸せそうな顔をしている。
「もっと私を、綺麗にしてよ」



