頬に落ちた一滴…

『カン……カン……カン……カン……』

 暗く沈んだ町に、踏切の赤い光が滲むように点滅を繰り返している。
 電車の接近を知らせる警報音は、耳を塞ぐイヤフォンの奥から、かすかに届くだけだった。

 私は、閉じられた黄色と黒の遮断バーの前に立っていた。
 特に周囲の景色を見ることもなく、ただ耳から流れてくるお気に入りの曲だけに意識を向けていた。

 その時だった。

 ゆる……。

 なんとなく、生温かいような。
 身体にまとわりつくような風が、私の横を通り過ぎた。
 今は秋。
 暦の上では、もうすぐ冬を迎える時期だ。

 なんとなく胸の奥がざわついた気がして、私はゆっくりと顔を上げた。

 ペチャッ……。

 頬に何かが触れた。

(雨……?)

 空を見上げる。
 人工的な明かりに隠されながらも、いくつかの星が小さく瞬いていた。
 雨が降るような空ではない。

 私は頬に触れる。

(気のせいか……)

 その瞬間。

 ガタン……ゴトン……。

 風を巻き起こしながら、轟音とともに電車が目の前を通り過ぎていく。

 やがて音は遠くなり、遮断機がゆっくりと上がっていった。

 私は、先ほど感じた違和感を気にしながらも、結局は気のせいだと思うことにした。
 そして、そのまま家へと帰った。

 しかし――。

 その日を境に、私が恐ろしい体験をすることになるなんて、この時の私はまだ知る由もなかった。

 次の日。

 会社から帰宅するため、私はいつものように踏切へ差しかかった。
 耳からは相変わらず、軽快な音楽と甘い歌声が流れている。

『カン……カン……カン……カン……』

 踏切が降り、私は足を止めた。

 その時――。

 ペチャッ。

「……っ⁉」

 私は咄嗟に頬へ手を当てた。
 ゆっくりと手のひらを見る。
 しかし、そこには何もない。

(また……?)

 私は辺りを見回した。

 踏切の前には、スマホに目を落としている四十代くらいの男性と、自転車に乗った男子高校生がいる。
 けれど、二人とも特に変わった様子はない。

 私は小さな違和感を覚えながらも、すぐに気のせいだと思い直し、前を向いた。

 ガタン……ゴトン……。

 電車が轟音を響かせながら、目の前を走り抜けていく。

 いつもと同じ光景。
 音が遠ざかり、しばらくして遮断機がゆっくりと上がる。

 その時――。

「ふふふっ」

 電車が去った後に残された、弱々しい風。
 その風に乗って、少女の笑い声が聞こえた気がした。

 私はもう一度、辺りを見渡す。

(……何?)

 イヤフォンから、次の曲が流れ始める。

(この曲……こんな演出、あったっけ?)

 背中に、ぞわりと冷たいものが走った。

 私は振り返ることなく、足早にその踏切を後にした。

 朝。

 今日は目覚めた時から気が重かった。
 帰りに、またあの踏切を通らなければならない。
 あの日から感じている違和感が、頭の片隅にべったりと張りついて離れない。

「はぁ……。でも、仕事には行かなきゃ……」

 重い足を引きずるようにして会社へ向かった。

 けれど、どんなに憂鬱でも時間は過ぎていく。
 帰りたくない。
 でも、遅くなればなるほど、もっと恐ろしいことが起こる気もする。
 そんな気持ちが入り混じり、足取りは自然と遅くなっていた。

『カン……カン……カン……カン……』

(来てしまった……)

 私はぼんやりと点滅する赤い警報灯を見上げた。

 その時、あることに気づく。

(待って……。今日で三日目。また踏切が閉まってる?)

 ここは、それほど電車の本数が多い路線じゃない。
 今までは、遮断機が下りているタイミングに遭遇するほうが珍しかった。

 それなのに――。

 この三日間は帰る時間が違うのに、踏切へ着くたびに遮断機が下りていた。

 ペチャッ。

「っ!」

 まただ。
 私は恐る恐る頬に触れた。

 ヌルッ――。

 指先に、生温かく粘つく感触が伝わる。
 ゆっくりと手を目の前へ持っていく。

「えっ……」

 赤い液体が、指先を濡らしていた。

「血……?」

 鼓動が早くなる。
 もう一度よく見ようと指先を近づける。

「あれ……?」

 何も付いていない。
 私は小さく息を吐いた。

(怖い、怖いって思いすぎてるから……)

 自分にそう言い聞かせ、電車が通り過ぎるのを待つ。

 しかし――。

 いつまで経っても電車は来なかった。
 遮断機は下りたまま。
 警報機だけが鳴り続けている。

 私は辺りを見回した。
 昨日は、会社員や高校生がいたのに。
 この場には私一人だけだった。

「一人……? うそ……」

 思わず声が漏れる。

「ふふふっ」

 少女の笑い声が聞こえた。

「きゃっ!」

 私は悲鳴を上げた。

 恐怖を打ち消そうと、スマホの音量を上げる。
 左手でスマホを握り、右手でイヤホンを耳に押し込もうとした、その瞬間。

 ギュッ。

「きゃあっ!」

 誰かに右手を握られた。

 驚いて腕を振り回す。
 それでも、周りには誰もいない。

『カン……カン……』

 警報音だけが頭の中で反響し、何も考えられなくなる。

 その時だった。

 ガタン……ゴトン……。

 轟音を響かせながら、電車が目の前を走り抜けていく。

(よかった……)

 思わず胸を撫で下ろした、その瞬間。

 ペチャッ。

 また頬に何かが当たった。

 最後尾の車両が通り過ぎると同時に、頭上から何かが降ってくる。

 ペチャッ。

 ペチャッ。

「何……これ?」

 私は頭をかばうように右手を上げた。

 その時だった。

 ぶらん――。

 右手に、何かがぶら下がっている。

 恐る恐る視線を向ける。

 私が握っていたのは――。

 人の手だった。

「キャーーー!!」

私は無我夢中で走った。

「もう嫌……! 何なの……!」

家へ駆け込むと、そのまま洗面所へ向かう。
蛇口をひねり、何度も何度も手を洗った。
何も付いてはいない。
それでも、誰かに握られた感触だけは消えてくれなかった。

「嫌……嫌……嫌……」

勢いよく水を流したまま、私は何十分も手を洗い続けた。

翌朝。

「ひどい顔……」

目を閉じるたびに、少女の笑い声が聞こえる。
頬に落ちた、生温かい何か。
そして、私の手を握っていた、あの手。

結局、一睡もできなかった。

目の下にできた濃い隈をコンシーラーで隠し、私は会社へ向かった。

私は決めていた。

もう、あの踏切は通らない。
少し遠回りになっても構わない。
別の道を通れば、もうあんな思いをしなくて済むはずだ。

そう考えると、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。

午後六時。

仕事を終えた私は、踏切へ続く欅通りと並行する道へ足を向けた。

その道へ入ろうとした、その時。

『待ってたよ』

誰かの声が聞こえた気がした。

私は思わず振り返る。

少女の声だった。

(待ってたよ……?)

「待って」なら分かる。
でも、「待ってたよ」って……何?

私はその場に立ち尽くした。

しばらく考えたものの、答えは出ない。

(……あの踏切さえ通らなければ)

私は大きく息を吸い込み、一つ先の踏切へ向かって歩き出した。

「よし……もう少し」
渡り切れる。

そう思った、その時だった。

視界の端に、色鮮やかなものが映る。

目を向けると、線路脇にはいくつもの花束が供えられていた。

「えっ……?」

『ふふふっ』

『待っていたよ』

『ねぇ、一緒に遊ぼうよ』

キィィィィッ!!

耳をつんざくような、金属が激しく擦れ合う音が辺り一面に響き渡った。

ドンッ。

真っ赤に染まる視界。

宙を舞う私の右手を、小さな手がそっと握る。

『ふふふっ』



『やっと……つかまえた』