蝶よ花よ

数日かけてなんとか患者さんのいるとこまで辿り着くことができた。
山を越え、川を渡り、慣れない道を歩き続けたせいで、足はじんじんと痛んでいる。風呂敷の重みも、最初よりずっと重く感じられた。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
けれど、立ち止まっている余裕はない。患者さんは高熱で衰弱している。そう聞いている以上、一刻も早く診なければ。
教えられていた集落は、山に囲まれた小さな場所。
入口近くにいた老人に声をかけると、快く案内してくれた。
案内された家は、集落の奥にあった。
戸を開けた瞬間、むわっとした熱気が流れ出てくる。
(熱がこもってる……!)
中に入ると、布団に横たわる青年の姿があった。
額には濡れ布が乗せられているが、すでに乾きかけている。
呼吸は荒く、顔は赤く火照っていた。
「水もあまり飲めないようで……」
傍にいた女性が、不安そうに呟く。
「診させてください」
すぐに傍へ寄り、額に手を当てる。
(……熱い)
想像以上だった。
先生が持たせてくれた、見慣れない丸薬が頭をよぎる。
先生が言うには『特効薬』と言っていたけれど……。
私は風呂敷を開き、薬を取り出す。
「水を、少しだけでもいいので用意できますか?」
「すぐに!」
女性が慌てて立ち上がる。
その間に、私は患者の口元を確認する。
唇は乾ききって、ひび割れていた。
「……大丈夫ですよ」
小さく声をかける。
意識があるかは分からない。 けれど、それでも届くかもしれないから。
運ばれてきた水で唇を湿らせ、慎重に丸薬を砕いて溶かす。
(……効いてくれないと困るよ、先生)
指先に伝わる水の冷たさとは裏腹に、胸の内側はじわじわと熱を帯びていた。
「……少し、口を開けてくださいね」
返事はない。けれど、顎にそっと手を添えてやると、かすかに力が抜けた。
その隙に、溶かした薬を少しずつ流し込む。
ごくり、と小さく喉が動いた。
ほんのわずかな反応に、思わず息を詰める。
一度に多くは無理だ。焦らず、少しずつ。
「もう一口、いきますね」
同じように慎重に流し込む。
何度か繰り返すうちに、薬はなんとか飲ませることができた。
私は濡れ布をもう一度水に浸し、軽く絞って額に乗せ直した。
傍にいた女性が、じっとこちらを見ている。
手を組み、今にも崩れ落ちそうなほど強く握りしめていた。
「……大丈夫、なんでしょうか」
震える声だった。
「まだ分かりません。ですが……薬は飲ませました。あとは、少し様子を見ましょう」
ふと、手首に触れてみる。
脈は弱い。けれど、さっきよりも、ほんのわずかにだけど……揺れが整っている気がした。
「しばらくは目を離さないでください。胃に優しい物を少しずつ食べさせ、水も少しずつでいいので飲ませてあげてくださいね」
「はい……っ」
女性が何度も頭を下げるのを背に、私は家を後にした。
外に出ると、山の空気がひやりと頬を撫でる。
あの家の中の熱気が嘘のようで、思わず大きく息を吸い込んだ。
(……助かるといいな)
振り返りたい気持ちを抑えて、足を前に出す。
私にできることは、もうやった。あとは——あの人自身の力と、看病する人の手に委ねるしかない。
山道を下り、京への道へ戻る頃には、空はすっかり傾いていた。
足の痛みも、疲れも、じわじわと体に重くのしかかってくる。
それから数日は様子見のため、村長さんの家から通うことになった。

そんなこんなで、ようやく京に戻ってこれたのは、さらに数日が経ってからのことだった。
「よっこいしょ」
おばさん臭い掛け声とともに、乗っていた荷車から風呂敷包みを背負って地面に降り立つ。
「本当にありがとうございました!」
数日ぶりにしっかりとした地面に足をつける。
少しよろけながらも、私は頭を深く下げた。
行きと同じで徒歩で帰ろうと覚悟を決めていたのだが、国境を越える頃には足が棒になって途方に暮れていると、たまたま通りかかった商人の荷車に京まで乗せてもらったのだ。
もう一度頭を下げると、商人はひらひらと手を振りながら手綱を引き、ゆっくりと去っていった。
歩き出そうとして、ふらりと体が揺れる。
慌てて近くの壁に手をついた。
(……あ、思ったより疲れてる)
自分では平気なつもりでも、体は正直だった。
足の裏がじんと熱を持ち、力が入りにくい。
「……まずは、帰らないと」
ぽつりと呟き、ゆっくりと足を前に出す。
先生のところへ。
報告をして、薬のことも聞かないといけない。
人の流れに混ざりながら、少しずつ進んでいく。
「あれ、理世さん?」
聞き慣れた声に、はっと顔を上げた。
「……あ」
人混みの向こう、野店傘の下に設えられた甘味処で、ひらりと手を上げた伊吹さんの姿が見えた。
炭火の上で焼かれる餅が、じり、と音を立てて膨らみ、香ばしい匂いがあたりに漂っている。
彼は焼き上がったばかりの餅にかぶりついていた。
「やっぱり理世さんだ。久しいねぇ」
「お久しぶりです……」
「あれ?何だか疲れてる?」
「まぁ、ちょっと往診で……」
「へぇ……随分と遠くまで行った顔してるけど」
軽い調子の言葉なのに、妙に核心を突いてくる。
「……山をいくつか越えた先の集落まで」
正直に答えると、彼は「うわぁ……」と小さく呟いた。
「それはまた、大変なところまで。そりゃあその足にもなるよねぇ」
私の疲れた顔を見ると、伊吹さんは手元にあった干し柿を一つ取る。
懐から取り出した紙に包むその動作は無駄がなくて、どこか慣れている様子でもあった。
「君もお疲れなんだね」
そう言って、包んだ干し柿を私の方へ差し出す。
「慰労品だけど、受け取ってくれるかな?」
「ありがとうございます!」
差し出されたそれを受け取り、私はぺこりと頭を下げた。
伊吹さんと別れ、足を引きずりながら家まで歩く。
家に辿り着いた頃には、もう足の感覚はほとんどなかった。
戸口に手をかける。
「……ただいま、戻りました」
声に出した瞬間、どっと力が抜ける。
中から、すぐに足音がした。
「理世ちゃん、大丈夫だった!?」
ドタドタと騒がしい足音が聞こえたかと思えば、慌てた様子の先生が駆け寄ってきた。
「み、水ください……」
「水ね、水」
先生は慌てて台所へ駆け込み、柄杓(ひしゃく)で水を汲んで戻ってきた。
「はい、ゆっくり飲んで」
差し出された器を両手で受け取り、私はそのまま口をつける。 冷たい水が喉を通っていく感覚に、思わず目を閉じた。
「……っ、生き返る……」
かすれた声が漏れる。
先生はほっとしたように息をつき、私の肩を支えながら中へと促した。
「とりあえず座って。顔色ひどいよ」
言われるままに腰を下ろした瞬間、全身の力が一気に抜ける。 背中がぐらりと傾き、慌てて先生が支えた。
「ごめんねぇ……。典薬寮の仕事をすっぽかせたら良かったんだけど」
「さすがにそれはやめて下さい」
「えぇー……僕としては僕の代わりに理世ちゃんが行ってくれても良かったんだけどなー」
「絶対に嫌です」
「僕の助手、やっぱり冷たーい」
先生は肩をすくめて、わざとらしく軽口を叩いた。
ああ、どこかで懐かしいと思ってしまうのは、伊吹さんに似ているんだ。この人。