「え、西の方に往診ですか?」
薬研で薬草をすり合わせていると、お世話になっている先生が言った。
「高熱で水もろくに取れないほど衰弱している患者さんがいるのよー」
軽い調子の声とは裏腹に、その内容はかなり切迫していた。
私はすり潰す手を止める。
「それは……急ぎですね」
「でしょ?だから理世ちゃん、行ってきてくれない?」
「私が、ですか?」
思わず聞き返すと、先生はにこにこと頷いた。
「若いし、手も確かだし、それに——」
一拍置いて、楽しそうに目を細める。
「山を越えて数日すれば到着するけど、ちょっと面倒な場所なのよねぇ」
「面倒、とは……?」
「道が分かりづらいとか、そういう可愛いものじゃなくてね」
さらりと怖いことを言う。
私は無言で薬草の葉をすり潰す手を再開した。
「僕は典薬寮の仕事があって……だから理世ちゃん一人で行ってもらうことになるけど、良い?」
京に来てまだ日が浅い私でも、その名だけは聞いたことがある。
宮中の医を司る場所。
先生が属しているとはいえ、私のような身からすれば、一生縁のない場所だ。
「そんなところに、どうして先生が……」
「ちょっとした検分。新しい薬の話とか」
軽く言いながらも、その目は笑っていなかった。
ほんの一瞬だけ、面倒そうに視線を逸らしたのを見逃さなかった。
(……本当は、行きたくないんだろうな)
そういえば、典薬寮での仕事は中々厳しいと言っていた。
おおらかでどこか気が抜けている先生には、あまり向いていない場所なのかもしれない。
「最近は『反乱軍』や『新月の夜に人を殺す下手人』の話も上がってなにかと物騒だし、本当は僕一人で行くつもりだったんだけど……宮仕えって役人使いが荒いのよねー……」
さらりとぼやきながら、先生は肩を回した。
反乱軍は聞いたことがある。朝廷に敵対する武士の勢力だ。
「ま、そういうわけで———お願いね、理世ちゃん」
先生は薬包をいくつか私の前に並べた。熱冷まし、傷薬、そして見慣れない色の丸薬。どれもいつもより量が多い。
念の為ってことだろう。
まだ空気が冷たい時間に、先生に見送られ私は風呂敷包を背負って朱雀大路から町を出た。
朝の京は、昼間とは違って静かだ。 開きかけの店、準備をする人々、遠くで鳴く鳥の声。
山道に入って半日ほど経った頃だった。
背後で小枝の折れる音がした。
反射的に振り返る。
「……誰か、いますか?」
声が少しだけ震えた。
ガザガザと草木を掻き分けて、人影が歩いてくる。
戦える物はなにも持っていないので、人攫いだった場合、私は手元の石を投げてその隙に逃げることしかできない。
草を踏み分けて現れたのは四十代くらいの知らない男性だった。
鎧を着ており、どこかの武士だと思われるその人はふらふらと足取りがおぼつかず倒れてしまう。
男は、地面に崩れ落ちたまま動かなかった。
「……っ、大丈夫ですか!?」
駆け寄り、傍に膝をつくと大怪我をしていた。
「しっかりして下さい!」
思わず声を張り上げながら、その人の体を支える。鎧の隙間から覗く肌は青白く、呼吸も浅い。なにより——血の匂いが強すぎた。
(これは、かなりマズイ)
肩口から脇腹にかけて、深く裂けたような傷がある。応急処置をしなければ、このままでは本当に危ない。
「……今、手当てしますから」
返事はない。けれど、まだ息はある。
私は風呂敷をほどき、包んできた薬と手ぬぐいを取り出した。震えそうになる手をぐっと抑え込みながら、まずは傷口の確認をする。
まずは水で血を流し、異物がないか確認する。幸い、折れた刃や木片などは残っていないようだった。
傷薬を塗ると、男の体がびくりと震えた。
(……まだ、意識はある)
ほんの少しだけ、安堵が胸に広がる。
布で圧迫して止血し、持ってきた包帯代わりの布でしっかりと固定する。完全な処置には程遠いが、何もしないよりはずっといい。
「何をしている」
すっと、背後からそんな声が聞こえてきた。
低く、感情を削ぎ落とした声だった。
刀は喉元すれすれに当てられているのが分かる。ほんの少しでも動けば、皮膚が裂ける距離。
その声には、聞き覚えがあった。
賭けに出て、恐る恐る後ろを振り返ると、そこには俊輔さんの顔が。
喉元に触れる刃の冷たさに、息が詰まりそうになる。それでも、視線だけは逸らさずに彼を見た。
俊輔さんは、私の顔と倒れ込んでいる人を見比べてから刀を鞘にしまう。
「あ……俊輔……様……?」
(え?)
倒れ込んでいた男性は俊輔さんの顔を見て、目をみはる。
「どうし、て……俊輔様が、ここに……」
「喋るな、傷口に障るだろう」
「……不甲斐なくて、申し訳ありません……」
「気にするな。今は休め」
「っ……はい……」
倒れている男はその言葉を聞き、やがて安心したように力なく目を閉じた。
男を見る俊輔さんは、どこか安堵しているようにも見える。
「……気を失っただけだ。まだ死んではいない」
ぽつりと告げる声に、私は張り詰めていた息をようやく吐き出した。
「よ、良かった……」
思わずそう呟くと、俊輔さんはちらりとこちらを見る。
「なぜ助けた」
「え?」
俊輔さんは刀に手をかけることなく、淡々と尋ねてくる。
「答えろ」
「私は薬師です。治療する手段があるのに、助けないのは人殺しと同じです」
少しだけ声が強くなる。
怖くないわけじゃない。目の前にいるのは、明らかに普通の人ではないし、さっきまで刃を向けられていた相手だ。それでも、引き下がる気にはなれなかった。
「だから助けたというのか」
「はい。……ダメですか?」
「戦場や山中で味方以外を助けるのは正しくない。弱ったふりをして命を狙う者もいるはずだ」
一旦言葉を区切り、俊輔さんは一呼吸おいてから、言った。
「それだけではない。反乱軍である以上、その時貴方の助けた兵が、自分の大切な人を手にかけるかもしれない。その可能性は考えなかったのか?」
(それは……)
反乱軍という言葉を聞いて、聞きたいことがあるのに、全てを見透かすような目から逃げるように、顔を逸らしてしまう。
その言葉は、胸の奥に冷たい水を流し込まれたようだった。
確かに言っていることは、正しいのかもしれない。
助けた人が、誰かを傷つけるかもしれない。
助けたことで、別の誰かが不幸になるかもしれない。
返す言葉もなくて、私は下唇を噛む。
「手当てには礼を言う」
俊輔さんは男性を担ぎ、背を向けて歩き出す。
「待って下さい!」
思わず声を張り上げると、俊輔さんの足がぴたりと止まった。振り返りはしない。ただ、わずかに首だけがこちらへ傾く。
「どうして……私を殺さないんですか……?」
相手は武士、それも“反乱軍”と呼ばれる立場の人間。 関わるべきではない。ここで引くのが、きっと正しいことだ。
しばしの沈黙のあと、低く、淡々とした声が返ってきた。
「家臣を助けてくれて感謝する。だから、俺も貴方を見逃そう」
「え……」
(今、見逃すって言った……?)
「意外そうな顔だな」
「っ、絶対に殺されるって思っていましたから……」
「俺達は朝廷と敵対しているが、無闇やたらに民を殺したりはしない」
その言葉は、あまりにもあっさりとしていた。
まるで、命の重さを天秤にかけることに慣れているかのように。
俊輔さんはそれだけ言うと、もう振り返ることなく歩き出した。
私は、その背中をただ見送ることしかできなかった。
薬研で薬草をすり合わせていると、お世話になっている先生が言った。
「高熱で水もろくに取れないほど衰弱している患者さんがいるのよー」
軽い調子の声とは裏腹に、その内容はかなり切迫していた。
私はすり潰す手を止める。
「それは……急ぎですね」
「でしょ?だから理世ちゃん、行ってきてくれない?」
「私が、ですか?」
思わず聞き返すと、先生はにこにこと頷いた。
「若いし、手も確かだし、それに——」
一拍置いて、楽しそうに目を細める。
「山を越えて数日すれば到着するけど、ちょっと面倒な場所なのよねぇ」
「面倒、とは……?」
「道が分かりづらいとか、そういう可愛いものじゃなくてね」
さらりと怖いことを言う。
私は無言で薬草の葉をすり潰す手を再開した。
「僕は典薬寮の仕事があって……だから理世ちゃん一人で行ってもらうことになるけど、良い?」
京に来てまだ日が浅い私でも、その名だけは聞いたことがある。
宮中の医を司る場所。
先生が属しているとはいえ、私のような身からすれば、一生縁のない場所だ。
「そんなところに、どうして先生が……」
「ちょっとした検分。新しい薬の話とか」
軽く言いながらも、その目は笑っていなかった。
ほんの一瞬だけ、面倒そうに視線を逸らしたのを見逃さなかった。
(……本当は、行きたくないんだろうな)
そういえば、典薬寮での仕事は中々厳しいと言っていた。
おおらかでどこか気が抜けている先生には、あまり向いていない場所なのかもしれない。
「最近は『反乱軍』や『新月の夜に人を殺す下手人』の話も上がってなにかと物騒だし、本当は僕一人で行くつもりだったんだけど……宮仕えって役人使いが荒いのよねー……」
さらりとぼやきながら、先生は肩を回した。
反乱軍は聞いたことがある。朝廷に敵対する武士の勢力だ。
「ま、そういうわけで———お願いね、理世ちゃん」
先生は薬包をいくつか私の前に並べた。熱冷まし、傷薬、そして見慣れない色の丸薬。どれもいつもより量が多い。
念の為ってことだろう。
まだ空気が冷たい時間に、先生に見送られ私は風呂敷包を背負って朱雀大路から町を出た。
朝の京は、昼間とは違って静かだ。 開きかけの店、準備をする人々、遠くで鳴く鳥の声。
山道に入って半日ほど経った頃だった。
背後で小枝の折れる音がした。
反射的に振り返る。
「……誰か、いますか?」
声が少しだけ震えた。
ガザガザと草木を掻き分けて、人影が歩いてくる。
戦える物はなにも持っていないので、人攫いだった場合、私は手元の石を投げてその隙に逃げることしかできない。
草を踏み分けて現れたのは四十代くらいの知らない男性だった。
鎧を着ており、どこかの武士だと思われるその人はふらふらと足取りがおぼつかず倒れてしまう。
男は、地面に崩れ落ちたまま動かなかった。
「……っ、大丈夫ですか!?」
駆け寄り、傍に膝をつくと大怪我をしていた。
「しっかりして下さい!」
思わず声を張り上げながら、その人の体を支える。鎧の隙間から覗く肌は青白く、呼吸も浅い。なにより——血の匂いが強すぎた。
(これは、かなりマズイ)
肩口から脇腹にかけて、深く裂けたような傷がある。応急処置をしなければ、このままでは本当に危ない。
「……今、手当てしますから」
返事はない。けれど、まだ息はある。
私は風呂敷をほどき、包んできた薬と手ぬぐいを取り出した。震えそうになる手をぐっと抑え込みながら、まずは傷口の確認をする。
まずは水で血を流し、異物がないか確認する。幸い、折れた刃や木片などは残っていないようだった。
傷薬を塗ると、男の体がびくりと震えた。
(……まだ、意識はある)
ほんの少しだけ、安堵が胸に広がる。
布で圧迫して止血し、持ってきた包帯代わりの布でしっかりと固定する。完全な処置には程遠いが、何もしないよりはずっといい。
「何をしている」
すっと、背後からそんな声が聞こえてきた。
低く、感情を削ぎ落とした声だった。
刀は喉元すれすれに当てられているのが分かる。ほんの少しでも動けば、皮膚が裂ける距離。
その声には、聞き覚えがあった。
賭けに出て、恐る恐る後ろを振り返ると、そこには俊輔さんの顔が。
喉元に触れる刃の冷たさに、息が詰まりそうになる。それでも、視線だけは逸らさずに彼を見た。
俊輔さんは、私の顔と倒れ込んでいる人を見比べてから刀を鞘にしまう。
「あ……俊輔……様……?」
(え?)
倒れ込んでいた男性は俊輔さんの顔を見て、目をみはる。
「どうし、て……俊輔様が、ここに……」
「喋るな、傷口に障るだろう」
「……不甲斐なくて、申し訳ありません……」
「気にするな。今は休め」
「っ……はい……」
倒れている男はその言葉を聞き、やがて安心したように力なく目を閉じた。
男を見る俊輔さんは、どこか安堵しているようにも見える。
「……気を失っただけだ。まだ死んではいない」
ぽつりと告げる声に、私は張り詰めていた息をようやく吐き出した。
「よ、良かった……」
思わずそう呟くと、俊輔さんはちらりとこちらを見る。
「なぜ助けた」
「え?」
俊輔さんは刀に手をかけることなく、淡々と尋ねてくる。
「答えろ」
「私は薬師です。治療する手段があるのに、助けないのは人殺しと同じです」
少しだけ声が強くなる。
怖くないわけじゃない。目の前にいるのは、明らかに普通の人ではないし、さっきまで刃を向けられていた相手だ。それでも、引き下がる気にはなれなかった。
「だから助けたというのか」
「はい。……ダメですか?」
「戦場や山中で味方以外を助けるのは正しくない。弱ったふりをして命を狙う者もいるはずだ」
一旦言葉を区切り、俊輔さんは一呼吸おいてから、言った。
「それだけではない。反乱軍である以上、その時貴方の助けた兵が、自分の大切な人を手にかけるかもしれない。その可能性は考えなかったのか?」
(それは……)
反乱軍という言葉を聞いて、聞きたいことがあるのに、全てを見透かすような目から逃げるように、顔を逸らしてしまう。
その言葉は、胸の奥に冷たい水を流し込まれたようだった。
確かに言っていることは、正しいのかもしれない。
助けた人が、誰かを傷つけるかもしれない。
助けたことで、別の誰かが不幸になるかもしれない。
返す言葉もなくて、私は下唇を噛む。
「手当てには礼を言う」
俊輔さんは男性を担ぎ、背を向けて歩き出す。
「待って下さい!」
思わず声を張り上げると、俊輔さんの足がぴたりと止まった。振り返りはしない。ただ、わずかに首だけがこちらへ傾く。
「どうして……私を殺さないんですか……?」
相手は武士、それも“反乱軍”と呼ばれる立場の人間。 関わるべきではない。ここで引くのが、きっと正しいことだ。
しばしの沈黙のあと、低く、淡々とした声が返ってきた。
「家臣を助けてくれて感謝する。だから、俺も貴方を見逃そう」
「え……」
(今、見逃すって言った……?)
「意外そうな顔だな」
「っ、絶対に殺されるって思っていましたから……」
「俺達は朝廷と敵対しているが、無闇やたらに民を殺したりはしない」
その言葉は、あまりにもあっさりとしていた。
まるで、命の重さを天秤にかけることに慣れているかのように。
俊輔さんはそれだけ言うと、もう振り返ることなく歩き出した。
私は、その背中をただ見送ることしかできなかった。



