蝶よ花よ

数日後。
煎じた薬を持って案内された伊吹さんの家に向かうと、すでに用意されていた鳥籠が静かに置かれていた。
「お邪魔します!」
「はい、どうぞ上がって」
「……静かですね」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
「そうかな」
伊吹さんは気にした様子もなく首をかしげる。
通りの喧騒が嘘のように、この屋敷の中は音が薄い。
廊下を歩く足音すら、どこか遠くで鳴っているように感じる。
お出迎えしてくれた男の子以外に、屋敷に人の気配はしない。これだけ広かったら女中さんもいそうなんだけど…………。
「どうしたの?理世さん」
「なんでもありません。ええっと……いい家ですね?」
自分でも、よく分からない返事をする。
いや、実際いい家なんだと思う。
板張りの床はよく磨かれていて、光を柔らかく反射しているし、歩くたびに、きしみ一つしない。
柱には細やかな彫りが施されていて、よく見ると花や鳥の意匠が浮かび上がる。けれどそれも、主張しすぎない程度に抑えられていて、どこか品があった。
けれど———綺麗すぎる、というより使われていない空間が多いような、不思議な感覚だった。
そんなこと家主である伊吹さんに言えるはずもなく、私は話を逸らして小鳥について聞こうとした、その時。
「昔は掛け軸とか骨董品とか、色々あったんだけどねぇ」
不意に、伊吹さんが懐かしむような声色で言った。
「え?」
思わず聞き返すと、彼はいつもの調子で肩をすくめる。
「商人をしている友人が、勝手に売りさばいちゃったんだよね」
「か、勝手に……?」
あまりにもさらりとした言い方に、言葉が追いつかない。
「うん。まぁ、その分はお金にはなったし、別にいらない物だったから良かったんだけどね」
くすりと笑うその顔は、冗談を言っているようにも、本気で気にしていないようにも見えた。
「そ、そういえば、小鳥の様子はどうですか?」
「食欲があまりないみたいだけど、今朝、少し餌を食べてくれたよ」
「折れた羽が痛むのかもしれません。ひとまず診させて下さい」
怪我を刺激しないようにそっと鳥籠から小鳥を取り出し、布の上に乗せる。
小鳥は飛んで逃げたそうにしていたが、やっぱり方翼がうまく動かせずにいた。
「大丈夫、痛くしないからね」
(羽の付け根を怪我してる……放置されていたからか化膿もしてる)
「治りそう?」
「傷は治ると思います。飛べるかどうかは……この子次第かと」
「そう」
「すり餌の調合、私も色々調べてきたので教えましょうか?」
「ありがとう」
薬を塗って手当てしたあと、すり鉢で玄米や糖を混ぜていく。
「そういえば、名前はもう付けましたか?」
「名前?」
「ええ」
「…………」
困ったように伊吹さんは、しばし固まった。
「どうしました?」
「……慣れていないから、中々思いつかないな」
「動物に名付けたこと、一度もないんですか?」
「生き物を飼うのは初めてなんだよねぇ。……幼い頃は怖くて近寄れなかったから」
「伊吹さんにもそんな時期があったんですね。少し意外です」
「そう?」
伊吹さんはそう言って、ほんの少しだけ困ったように笑った。さっきまでの胡散臭いほど軽い笑みではなく、どこか本当に“分からない”という顔だった。
「まぁ、同居人と話し合って決めるよ」
「それが良いですね」
自分で思いつかないなら、他人と相談して決めるのは良いかもしれない。そう思いながら、私はすり餌を小皿に移した。
「これなら、少しは食べやすいはずですよ」
「へぇ……薬師って、そんなことまでやるんだね」
伊吹さんは鳥籠のそばに腰を下ろし、小鳥の様子をじっと見つめている。先ほどの軽い調子とは違い、その視線は妙に真剣だった。
「薬だけじゃなくて、体の弱い子の世話も頼まれますので」
餌を指先に乗せて小鳥の前に持っていくと、用心深く伊吹さんを観察しながら小さく鳴いている。
「うーん、やっぱり懐いてはくれないなぁ」
「愛情が一番ですよ!」
「わぁ、俺の苦手分野だ」
その言い方があまりにも軽くて、思わず小さく笑ってしまった。
「小鳥は理世さんが優しいのが分かるんだねぇ」
「え?」
「さっきから、俺の餌より理世さんのやつばっかり食べてるよ」
思わず鳥籠の中を見直すと、小鳥は確かに私の指先の餌をついばんでいる。けれど伊吹さんが差し出した餌には、ちらりと目を向けるだけで口をつけようとしない。
「……いつか空を飛ぼうね。君はあの店にいた鳥の誰よりも綺麗だから」
穏やかな声に警戒を解いたのか、恐る恐る小鳥は伊吹さんの指先に近づいていく。
「「……!」」
(食べた!)
伊吹さんと顔を見合わせ、大きな声を出さないように喜びを分かち合う。
「そうだ、理世さん。なにかお礼したいんだけど、このあと空いているかな?」
「このあとですか?特に用事はないですけど……」
「じゃあ、昼餉(ひるげ)でも食べて行ってよ」
「……え?」
思わず聞き返してしまう。
確かにお腹は空いている。けれど、いくらなんでも人の家に上がって食事までご馳走になるのは気が引ける。
「こう見えて料理は得意なんだよねぇ」
伊吹さんは、相変わらず軽い調子でそう言う。
その言い方が妙に自然で、断る隙を探しているこちらの思考の方が鈍く感じられてしまう。
「……では、お言葉に甘えます」
結局、そう返してしまった。
屋敷の奥へと案内されると、そこだけは少し空気が違っていた。板の間の廊下を抜けた先にある居間に通される。
「理世さん、苦手なものとかある?」
奥から声がして、顔を上げると伊吹さんが(くりや)の方から覗いていた。
「特にありませんが……」
「そっか。それなら良かった」
軽く笑って、彼はまた奥へ引っ込む。
しばらくして、包丁の音が聞こえ始めた。規則正しく、迷いのない音。料理が得意という言葉は冗談ではなさそうだ、多分。
隅っこの方で待っていると、スッと襖が開いた。
そこに立っていたのは、お出迎えしてくれた男の子だった。
切り揃えられた黒髪の男の子。だがその目だけは、この世の恨みや妬みなどをどす黒く煮詰めたような瞳の色をしていた。
「私は二助と申す者でございます」
「あ、理世です。よろしくお願いします」
所作だけ見れば年相応以上に礼儀正しいのに、どこか作法として覚えた動きのような硬さがある。
「……二助くんは、伊吹さんのご家族なんですか?」
思わずそう尋ねると、二助くんは首を振った。
「いえ、伊吹殿に仕える青侍(あおざむらい)です」
仕えている、と言うには、その声はあまりに整いすぎていた。感情の色が薄い。まるで、決められた答えをそのまま口にしているような。
「そうなんですね……」
それ以上踏み込んでいいのか分からず、言葉が途切れる。
「伊吹殿の作る食べ物は癖があるので、寝込まないように気を付けて下さい」
「……え?」
思わず聞き返すと、二助くんは表情を変えないまま淡々と続けた。
沢庵(たくあん)だけなら大丈夫ですので」
「お、教えてくれて、ありがとうございます……」
あまりにも真顔で言われたので、思わず丁寧に返してしまった。
(沢庵だけは大丈夫……?それ以外は何が出てくるんだろう)
不安が胸の奥でじわりと広がるのと同時に、厨の方からまた包丁の音が規則正しく響いてくる。
二助くんはそれ以上何も言わず、すっと部屋から出て行ってしまった。
その時、奥から伊吹さんの声がした。
「理世さん、もう少し待っててね」
「は、はい!」
返事をしてから、ふと気づく。
(……普通に料理してる、よね?)
先ほどの二助くんの忠告が、どうにも過剰に思えてきた。いや、むしろあれは何か別の意味だったのでは——と考えかけた、その瞬間。
「……できたよ」
襖が開いた。
伊吹さんが、膳を両手で運んでくる。
並べられていく料理は、思っていたよりずっと“危険物”だった。
「二助も一緒に食べれたら良かったんだけどねぇ、用事があるって断られてしまったよ」
「そ、そうなんですね」
引きつった笑みで答えながら、私は料理には見えない料理に視線を落とす。
なんと言えば良いのか分からないが、目の前に並んだ皿は、確かに『食事』と呼ぶには躊躇する見た目をしていた。
焦げているのか、焼き目なのか判別のつかない魚。なぜか艶やかに光っている謎の緑の何か。そして、食べ物にすらなれなかったモノ達の悲鳴が聞こえてくる。
思わず、箸を持つ手が止まった。
「……あの、伊吹さん」
呼びかけると、彼はいつも通りの調子で首をかしげる。
「どうしたの?」
「これは……ええと、その……料理、ですよね?」
自分でも情けないほど遠回しな言い方になった。
伊吹さんは一瞬だけ料理へ視線を落とし、それから、何でもないように笑った。
「もちろん。食べられるようにはしてあるよ」
その言い方が一番怖いのだが、と喉まで出かかった言葉を、私は必死に飲み込んだ。
「……食べられる、ようには?」
「うん」
伊吹さんは、悪びれる様子もなく頷く。
「みんな、食べたあとは美味しすぎて倒れてしまうんだよねぇ」
(それ、絶対違う意味!)
心の中で叫んだまま、私は固まっていた。
「倒れる……って、ええと……食べたあとに皆さん、体調を崩すとかではなく……?」
恐る恐る尋ねると、伊吹さんは首をかしげた。
「さぁ?その場でそのまま動かなくなることが多いね」
さらりと言われて、私は一瞬、意味を理解できなかった。
「寝てしまうのか、感動して放心してしまうのか、そこまではよく分からないんだよねぇ」
(それ、どっちにしても普通じゃないのでは……!?)
心の中で全力で突っ込みながら、小鉢に乗せられた数枚の沢庵を見て、二助くんの「沢庵なら大丈夫」という言葉を思い出し、意を決して恐る恐る口に運んでみた。
噛んだ瞬間に広がる塩気と、ほどよい酸味。少し乾いた歯ごたえが、むしろ安心感すら与えてくれる。
ここで沢庵だけ食べ続けるのも失礼だと思うけれど——
(もう沢庵だけ食べていたい……)