南の島から

「お嬢さん、お嬢さん」

​柔らかい声とともに誰かに肩を叩かれ、私はうっすらと目を開けた。

……お祭りはいつの間に終わっていたのだろう。あれほど熱気と歓声に満ちていた公園内は静まり返り、人影も、あのたくさんの屋台も綺麗に消え去っていた。

そして目の前には、あの男性。

ぺらりと風でめくれる制服のスカートを手で押さえながら、体を起こした。

視界に映るののは、星が綺麗な夜空と鬱蒼(うっそう)とした木々。

​ここは一体どこなのだろう。

四方をぐるりと囲んでいたはずのガラス張りのオフィスビルも、明るい街灯も、コンビニの看板もどこにも見当たらない。まさか、わずか一晩で近代的なビル群がすべて消滅したとは……ないな、ただのアニメの見すぎだ。

「あの、私」

「うん。大丈夫なのだよ。どうか警戒しないでほしい。僕はね、決して怪しい者ではないのだよ」

まだ何も聞いていないのに、青年は冗談めかした口調でペラペラと喋りだした。

……信用してほしいと言われるほど、逆に怪しく見えるのは何故だろう。

「君が驚くのも無理はないよね、かくいう僕も驚いてる。象のローラちゃんや戦艦などは出せても、まさかタイムスリップさせてしまうとは思ってなかったのだよ」

「は?」

​言っている意味がまったく理解できず困惑していると、彼はビシッと人差し指を立てた。

「つまり!君と僕の出会いは運命だということなのだよ」

​胸を張って堂々と言い放たれたその言葉に、私の頭の中で、この人に対する警戒メーターが一気に跳ね上がった。

怪しい人を通り越して、完全に変人の領域へと昇格した。

「分かるかな?奇跡のマジック。人はそれを『運命』という。僕は常に思っているのだよ。人と人の出会いは、全て神様の―――」

「じゃあ、私、帰りますね」

滔々(とうとう)と語り始めた男性の言葉を容赦なく遮り、私はよいしょ、と立ち上がって、制服についた砂埃をバシバシと払った。

これ以上この変人の電波発言に付き合っている暇はない。

スマホを取り出そうとポケットを探るが、あいにく画面は暗いまま。圏外どころか、電源すら入らなかった。

「帰るってどこに?」

「家に決まってるじゃないですか」

「でも、ここ沖縄だよ」

「……ん?」

思考が完全にフリーズする。沖縄?修学旅行で行く、あの飛行機で数時間かかる南の島?

耳を澄ますと、ザザーン、ザザーンと、どこか遠くから深く重い波の音が風に乗って聞こえてきた。

「え、ええ!?」

「慌てない、慌てない。まずはお嬢さんの名前を教えてよ」

あまりのスケールのズレ方にパニックになりかける私を、青年はひらひらと両手を振っていなす。釈然としないものを感じつつも、私は小さく息を吐いた。

「………未明。鈴木未明です」

「未明ちゃん。良い名前だね」

彼は一体何者だろう。悪い人ではなさそうだけど、意味不明な言動が多すぎて、どう接したら良いのか分からない。

「貴方の名前は?」

​一応、名乗られたら名乗り返すのが礼儀だろう。そう思って尋ねてみると、男性はきょとんとした顔で私を見た。まるで、自分の名前を聞かれること自体を想定していなかったかのように。

「貴方の名前。私だけ名乗るのも嫌だから」

彼はしばらく考え込んだあと、何か思いついたように顔を上げた。

「僕は八雲。八雲なのだよ」

「八雲?」

​人の名前にケチをつけるわけじゃないけれど、いかにも作られたような偽名っぽさに、私の中で警戒心がさらに募っていく。

そんな私を横目に、八雲さんはパチンと威勢よく指を鳴らした。すると一瞬のうちに、古びた地図のような大きな紙が宙に現れた。

「わっ、すごい!」

「僕は奇術師だからね、これくらいの手品は朝飯前なのだよ」

歌うような声音で答え、八雲さんは地図に目を凝らす。

「ええっと、ここが南方だから……うんうん、この近くに行き倒れ寸前の僕達にピッタリの場所があるじゃないか」

地図から顔を上げ、八雲さんは親指をグッと立てた。何だかよく分からないが、今の私達は行き倒れてもおかしくない危機的状況らしい。


✳✳✳


​――​―それから、どれくらい歩いただろう。

​東の空が白み始めた頃、目の前に現れた建物を見て、私は足を止めた。

この木造校舎は一体なんだろうか。

​瓦屋根が乗った長い平屋の建物が、いくつも並んでいる。現代の鉄筋コンクリートの学校とは全く違う、どこか厳かで、けれどひどく古い佇まい。

まだ誰もいない静まり返った校門の前に立ち、私は八雲さんに尋ねた。

​「八雲さん、ここ……どこですか?」

​「沖縄県立第一高等女学校。隣には沖縄師範学校女子部もあるらしいよ。どちらも同じ敷地に校舎を構えているんだ。夜が明ければたくさんの学生が集まるはずだから君と同じくらいの年齢の女の子達だし、紛れ込むにはうってつけだろう?」

女学校。

歴史の教科書でしか聞かない名前。

まるで歴史の教科書や古い小説の中でしか見かけないようなその言葉が、八雲さんの口からごく自然に飛び出してきたことに、妙な引っかかりを覚える。

​東京でいう女子校みたいな感じだろうか。沖縄では、女子校のことを今でも女学校と言うのだろうか。

そう尋ねようと八雲さんを振り返ると、すでに八雲さんはいなくて。

「……え?」

​右を向いても、左を向いても、えんじ色の燕尾服なんてどこにも見当たらない。数秒前までそこにいて、大真面目な顔で「紛れ込むにはうってつけ」などとのたまっていたあの変人が、文字通り煙のように消え失せている。

もしかして、もしかしなくても。置いていかれた……?

「あら、どうしたの。そんなところで」

背後から、落ち着いた女性の声が聞こえて来た。

まだ薄暗い朝の光の中で、その姿がぼんやりと浮かび上がる。着物に袴を合わせ、髪を後ろで綺麗にまとめた、いかにも『昔の先生』といった佇まいの女性だった。

手には提灯なのか灯りを持っている。

ヤバい。不法侵入者として警察に通報されたりしないだろうか。

「貴方、この学校の生徒じゃなさそうね。そういえば、さっき男性が転校生を呼んだとか言っていたけれど、もしかして貴方のことかしら」

「えっ?転校生……ですか?」

​先生の口から出た予想外の単語に、私は思わずきょとんとしてしまった。不法侵入者として捕まる恐怖で心臓がバクバク言っていたのに、一気に肩の力が抜ける。と同時に、私の頭の中にはひとりの変人の顔が浮かんでいた。

​さっき男性が言っていた、か。

間違いなく八雲さんのことだろう。

私をここに置き去りにして消えたんじゃなくて、勝手に「転校生が来る」なんて嘘を触れ回ってからドロンしたらしい。どこまでも人迷惑なマジシャンである。

「それにしてもスカートなんて動きにくいでしょう。今はどこの学校もモンペになっていて、私の生徒もセーラー服が恋しいって言っていたわ」

先生の口から出たその単語に、私の思考は再びフリーズした。

モンペって、あの、おばあちゃん達が畑仕事のときに穿(は)くような、ゆったりとしたズボンのことだろうか。今の女子学生はみんなスカートを穿いているのに、どこの学校もモンペになっているなんて、そんな話は聞いたことがない。

​それに、セーラー服が『恋しい』という言い方。まるで、穿きたくても穿けない理由があるみたいだ。

​「あ、あの、みなさんスカートを穿かないんですか……?」

​恐る恐る尋ねると、先生は少し寂しそうに手に持った灯りを小さく揺らした。

​「そうね。戦局が厳しくなってからは、活動しやすいようにと、みんなお国のためにモンペを穿いて登校しているのよ。貴方の上着は素敵なセーラー服だけど……その下だけは、早く仕立て直した方がいいかもしれないわね。色々と目立ってしまうわ」

​戦局。お国のため。

その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

​沖縄。女学校。モンペ。そして、戦局―――。

​バラバラだったパズルのピースが、頭の中で最悪の形を結んでいく。歴史の授業で、確かにそんな時代があったことを習った。

まさか、そんなわけがない。

信じたくないけれど、目の前にある古い木造校舎も、袴姿の先生も、すべてが映画のセットなんかじゃないリアルな質感を伴(ともな)ってそこに存在している。

​「さあ、立ち話もなんだから、中へ入りましょう。もうすぐ他の生徒達も朝の作業のために登校してくるわ」

​先生は優しく私の背中に手を添えた。

八雲さんが勝手に用意した転校生という肩書きのおかげで、ひとまず不審者として捕まる事態は避けられたみたいだけど、事態は想像をはるかに超えて深刻だった。

一刻も早く八雲さんを見つけ出して胸ぐらをつかみ、元の世界に戻せと叫びたかった。しかし、あの変人はどこにもいない。

​「あら、緊張しなくても大丈夫よ。みんな優しい子達だから」

​先生は私の顔色の悪さを、転校初日の緊張だと受け取ったのだろう。