聖女の力のない令嬢の織った布に、冷徹公爵は恋をした。




 リディアは息を呑んだ。


「三大公爵家の当主として、聖女の力が弱いことは公にできない。だから工房を作った。力に頼らず、知識と技術で土地を豊かにする方法を探すために」


 彼の声は静かで、淡々としていた。だがその静けさの奥に、長い年月が詰まっているのをリディアは感じた。


「あなたの布を見て、初めて同じ場所に立っている人間がいると思った」


 リディアはしばらく、何も言えなかった。

 鉄の公爵。笑わない、愛想がない、近寄りがたい。社交界でそう呼ばれるこの人が、ずっとそういう重さを一人で抱えていたのか。


「……閣下」

「アルシェでいい」


 リディアは顔を上げた。アルシェは窓の外を見たまま言った。耳の端が赤かった。


「二人のときくらいは」


 リディアの心臓が、大きく跳ねた。


「……では、私のことも」

「リディア」


 即答だった。

 リディアは思わず笑ってしまった。またこらえきれない笑いが込み上げてきた。工房で初めて笑ったときと同じように。


「アル、シェ様」


 呼んでみると、不思議な感触があった。名前を呼ぶというのは、こんなに近い行為なのか、とリディアは思った。

 アルシェがリディアを見た。その琥珀色の目が、柔らかかった。柔らかい、と初めてはっきり思えた。

「一つ、聞いていいですか」リディアは布を胸に抱きながら言った。「あの茶会の日、庇ってくださったのは……私が同じ場所に立っている人間だから、ですか」

 アルシェは少し間を置いた。

「最初はそうだったかもしれない」

「最初は」

「今は違う」

 リディアの息が、浅くなった。

「……どう、違うのですか」

 アルシェはリディアの方へ一歩近づいた。工房で隣に立つときよりも、近かった。手を伸ばせば届く距離。

「あなたが傷つくのが、嫌だった」

 静かな声だった。だがその一言が、リディアの胸の中心に真っすぐ落ちた。

 警戒という名の糸は、もうとっくにほどけていた。代わりに今、全く別の糸が胸の中で育っていた。温かくて、少し怖くて、でも手放したくない糸が。

「私も」リディアは小さく、だがはっきりと言った。「閣下が……アルシェ様が、あの日立ってくださったとき、泣きそうになりました」

「泣けばよかった」

「泣きませんでした」

「知っている」アルシェの目が細くなった。「廊下で、声が震えていた」

 リディアは少し俯いた。

「……全部、見ていたのですね」

「見ている」

 その言葉の重さに、リディアは顔を上げた。

 アルシェはリディアを見ていた。真っすぐに、いつものように。夜会の夜から変わらない目で。だが今は、その目の奥にあるものの名前がわかった。

 ずっと見ていた。最初から。布を見つけた日から、工房に招いた日から、茶会の日も、毎日工房で隣に立ちながらも。

 リディアは胸に抱いた布を、少し強く抱きしめた。

 銀灰色の波紋が、光の中で静かに揺れていた。

 聖なる力のない糸で織られた布が、二人の間で光を受けて輝いていた。

 リディアの指先に、温かいものが触れた。

 アルシェの手が、そっとリディアの手に重なっていた。布越しに、確かな温度で。

 どちらも何も言わなかった。

 言葉より先に、糸が結ばれていた。