夕刻。
テリーは執務室で、屋敷に届いていた書類に目を通していた。
その時、廊下の向こうから大きな声が響いた。
「馬車が到着します!」
手にしていた書類を机へ置き、すぐに立ち上がった。
廊下へ出ると、同じ声を聞いたらしい使用人たちが、それぞれの持ち場から玄関へ向かっていた。
テリーも玄関へ向かう。
すでに大きな扉は開けられており、クララやイメルダの姿がある。
厨房から出てきたのか、少し遅れてバラクもやってきた。
ほかの使用人たちも次々と集まり、気づけば屋敷にいる者のほとんどが顔を揃えていた。
ほどなく、一台の馬車が屋敷の前へ到着する。
馬車の扉が開き、最初にウィルが降りてきた。
ウィルはすぐに振り返り、中へ手を差し出す。
その手を取って、アリスが姿を見せた。
支えられながら馬車を降りると、二人は何か言葉を交わす。
アリスは笑みを浮かべ、そのままごく自然にウィルの腕へ手を添えた。
その姿を見て、テリーは静かに息を吐いた。
二人が並んで玄関へ向かってくる。
アリスは開け放たれた扉の前に集まる使用人たちに気づくと、目を見開いた。
「皆さん……」
テリーは一歩前へ出た。
「お帰りなさいませ、旦那様。アリス様」
それに続き、使用人たちも一斉に頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
ウィルは集まった使用人たちを見渡した。
「……あぁ、戻った」
その隣で、アリスはしばらく何も言わなかった。
やがて、その黒い瞳に涙が浮かぶ。
「……アリス様?」
クララが声をかける。
アリスは慌てて目元へ手をやった。
「あの……違うんです」
ぽろりと涙が頬を伝う。
「……嬉しくて」
クララはアリスの前まで歩み寄ると、その身体を抱きしめた。
アリスは一瞬驚いたように目を瞬かせる。
「本当に、よくお戻りになりました」
「……はい」
アリスはクララの肩口で嬉しそうに頷いた。
ウィルは何も言わず、その様子を見守っている。
しばらくして、クララが身体を離すと、アリスは涙を拭いながら、照れくさそうに笑った。
クララはそんなアリスの顔を見ながら尋ねる。
「すぐにお食事になさいますか? それとも、お部屋で少しお休みになりますか?」
「あの……」
アリスは隣にいるウィルの顔を見上げた。
「オレは、どちらでも構わない」
アリスはクララへ視線を戻した。
「お食事で……お腹が減ってしまったので」
恥ずかしそうに告げた言葉に、クララの表情が和らいだ。
「では、すぐに夕食をご用意いたしますね」
「ありがとうございます」
アリスは嬉しそうに頷いた。
「バラクさんのお料理、久しぶりなので楽しみです」
バラクの顔が、分かりやすく緩んだ。
「アリス様のお好きな品をご用意しております。それから、イチゴのタルトも焼きましたので」
「まあ、本当ですか?」
アリスの顔がさらに明るくなる。
「ありがとうございます」
「お帰りになったら絶対に召し上がっていただこうと思っておりましたから」
バラクが満足そうに答えると、周囲からも笑みがこぼれた。
――――――――――――――――
夜も二十時を過ぎた頃。
湯浴みを終えたアリスは、新しく用意された寝間着に身を包み、クララとともに客間へ戻ってきた。
ゼリアで長く過ごした末、滞在していた塔に火を放たれ、そこから救出されたと聞いていた。
憔悴した姿で戻ってくるのではないかと、クララはとても心配していた。
けれど、長旅の疲れこそ見えるものの、食欲もあり、今も穏やかな表情をしている。
その姿に、クララはようやく胸を撫で下ろしていた。
「あの、クララさん」
「はい」
「寝間着まで用意してくださって、ありがとうございます」
アリスは自分が着ている寝間着へ目を落とす。
部屋には、今日届いた何着かの衣服と、トルシアの塔から運び込まれた荷物も置かれていた。
「お洋服も用意してくださったんですね。それに、塔に置いていたものまで……」
「えぇ。当面お困りにならないものは、揃っているかと存じます」
「ゼリアからは何も持ち出せなかったので、本当に助かります。ありがとうございます」
アリスはクララへ笑みを向けた。
「必要なものがございましたら、またお申し付けくださいませ」
「はい」
クララは部屋の中へと視線を巡らせ、一通り確認した。
「あの……もう遅いですから、クララさんも早く休んでください」
「えぇ。では、おやすみなさいませ、アリス様」
「おやすみなさい、クララさん」
クララは一礼し、客間をあとにした。
廊下へ出ると、向こうからウィルが歩いてくる。
クララは足を止め、一礼した。
「おやすみなさいませ、旦那様」
「あぁ。今日は皆に苦労をかけたな」
「いえ。アリス様が戻られて、皆、それだけで十分でございます」
「そうか」
それ以上は何も言わず、二人はすれ違った。
視界の端に、ウィルがアリスのいる客間へ入っていく姿が映った。
――――――――――――――――
クララが使用人用の食堂へ入ると、すでにテリーが茶を淹れているところだった。
「あら、テリーさん」
「クララさん。まだお仕事でしたか?」
「いえ。今日はアリス様がお戻りになったばかりですから、湯浴みのあと、お部屋までお付き添いしていたんです」
「そうでしたか」
クララは茶器へ目を向けた。
「私もいただこうかと思って来たのですが」
「でしたら、お淹れしましょう」
「ありがとうございます」
クララは向かいの席へ腰を下ろした。
この時間になると、食堂に他の使用人の姿はなかった。
ほどなく、テリーがクララの前にもカップを置き、自分も席につく。
「アリス様は、いかがでしたか?」
「長旅のお疲れはあるようでしたけれど、夕食もしっかり召し上がっていましたよ。イチゴのタルトも、とても喜んでいらして」
「それは何よりです」
クララはそこで、テリーへ視線を向けた。
「旦那様は?」
テリーはカップを置き、息を吐いた。
「それが、背中を打たれていたそうです」
「まあ……」
クララが目を見開く。
「帰宅された時の動きを見て、トマスが気づいたようです。帰路ですでに手当ては受けていたそうですが、湯浴みのあと、薬草を貼り直したと報告を受けました」
「そうだったんですか」
クララは眉を寄せた。
「先ほど、アリス様のところへ向かわれる旦那様にお会いしましたけれど、何も仰っていませんでしたよ」
「そうでしょうね」
二人の間に、何とも言えない沈黙が落ちる。
「……相変わらずですね、旦那様は」
「えぇ」
ほとんど同時に、二人はため息をついた。
昔から、ウィルは怪我をしても自分から口にすることがほとんどない。
クララは呆れたようにカップへ視線を落としたが、やがて、ふっと笑みを浮かべた。
「でも、そのうちアリス様からも仰っていただけるようになるかもしれませんね」
「アリス様から?」
「えぇ。あの方は、本当に人を気遣われる方ですから」
テリーも納得したように頷く。
「確かに、アリス様に心配されたら、旦那様も少しは違うかもしれませんね」
「期待してもよろしいかと」
二人は顔を見合わせ、笑った。
それからしばらく、二人は黙って茶を飲んだ。
やがてクララが、ぽつりと呟いた。
「アリス様……やっと、お戻りになりましたね」
「えぇ……」
テリーが安堵の息を吐く。
クララはカップへと視線を落としてから、続ける。
「私は旦那様のことも心配でした。アリス様がゼリアへ行かれてから、ずっと張りつめていらっしゃいましたから」
テリーが深く頷く。
「そうですね。空いた時間があれば仕事を入れて、ほとんど休もうともなさらず。アリス様がお戻りになるまでは、ご自分が気を休めることさえ許していないように見えていました」
けれど、今日戻ってきたウィルは違った。
クララは夕刻の光景を思い返す。
アリスの隣を歩くウィルは、久しぶりに柔らかな空気をまとっていた。
「ようやく、旦那様も気を休められそうですね」
「そうですね」
テリーは茶を一口飲んでから続けた。
「これで、婚姻に向けての支度も進められます」
その声は、先ほどまでより明るかった。
「婚姻式のお衣装のこともございますし、アリス様のお部屋も整えていきませんと」
「ようやく、また始められますね」
クララの表情も自然と和らぐ。
「それから、ミルバーグに残されているアリス様のお荷物も、こちらへ送っていただいた方がよさそうですね」
「そうですね。あちらにも、まだ随分残っているでしょうから」
「アリス様に確認しておかないといけませんね」
「えぇ、それがよろしいかと」
テリーがこれからのことを次々と口にする様子を見て、クララはふっと笑みを浮かべた。
「テリーさん」
「はい?」
「随分、楽しそうですね」
「……そう見えますか?」
「えぇ、とても」
テリーは穏やかに笑った。
「そうかもしれません」
一年近く止まっていたものが、ようやくまた動き出す。
今度こそ、ウィルとアリスが夫婦となる日のために。



